第651話 早朝の第一便
統一歴九十九年五月八日、早朝 -
ゆえに、砦の東、南、西はすべて断崖絶壁であり、北のグナエウス街道に面していない部分からは人間が接近してくるような余地はない。こうした地形であることから
が、それだけの規模を持つ砦であっても常駐する部隊は少ない。街道の治安を維持するための
そのような地であるにも関わらずこのような大規模な砦が建造されたのは、軍が移動するための中継基地としての役割が期待されたからに他ならない。
レーマ帝国がアルトリウシアを版図に納めて以来、アルビオンニア属州の兵力はライムント地方とアルトリウシアにそれぞれ分散配置されることとなった。が、ライムント地方とアルトリウシアは
そこで西山地を横断しグナエウス峠を越えてシュバルツゼーブルグとアルトリウシアを繋ぐグナエウス街道を建設し、ライムント地方とアルトリウシアを陸路で最短で行き来できるようにしたわけだ。ところが、この街道を踏破してアルトリウシアとシュバルツゼーブルグを行き来するには
だからこのグナエウス砦は軍団を収容できるだけの施設が備わっているものの、それらのほとんどは普段は全くと言っていいほど使われていないものだった。
それが今、数百人の大工たちによって解体されている。アルトリウシアへ移設するためだった。どうせ普段は使われない兵舎なら、無くなったところでそれほど困るものではない。使うにしたところでどうせ一泊、二泊するかどうか……年に十回も使われない兵舎が半分以上あるのである。どうせ一泊や二泊しか使わないのだから、どうしても軍団が宿泊するとなれば天幕を張れば良いのだ。無論、設営や撤去の手間で兵士たちが不必要に消耗するのは好ましいことではない。
ともあれ、グナエウス砦には使用頻度の極めて低い兵舎が多数あり、アルトリウシアには戦禍で住む家を焼かれ、この冬を越すあての無い住民たちが万単位でいるのである。その住民のために使用頻度の低い兵舎を移設するのは、至極効率の良い難民対策と思われた。
が、作業は言うほど簡単ではない。
六十棟ある兵舎のうち四十八棟を移設する計画になっているが、一棟解体するだけでも数十人がかりで丸二日以上はかかってしまう。いくら簡素な造りとは言え、築十年以上経つ建物を再組立てできるように丁寧に分解しなければならないからだ。しかも、構造は簡単でも豪雪に耐えるように頑丈に作られているから、柱や梁といった部品の一つ一つが通常よりも太く、重く、しかも密度が高い。おまけに天候にはまったく恵まれない。アルトリウシアはただでさえ雨が多く、ことグナエウス峠は雨の降らない日は無いほどなのだ。
そんな中で兵舎を解体し、荷馬車に載せてアルトリウシアへ運ぶのである。兵舎一棟に使われている木材は千四百タレント(約四十一トン)を超えるため、八頭の重馬で牽引する最大級の荷馬車を使たったとしても八~十台に分載しなければ運べない。
輸送能力が全然足らない。
エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人とその家臣たちは領内のあらゆる荷馬車と馬車馬をかき集めて資材運搬に投入していた。普段は鉱山で鉱石を運んでいる荷馬車と重馬も動員し、鉱山の採掘を一時的に停止することまでしている。それでも、ライムント地方の物資をアルトリウシアへ、グナエウス砦の物資をアルトリウシアへ、運搬する輸送力は足りていない状態だった。
このままでは雪でグナエウス峠が通れなくなるまでに必要な物資をアルトリウシアへ運び込むことができない。では不足している輸送力で少しでも多くの物資を運ぼうとしたらどうするか?
まだ陽が昇るどころか空が白け始めてもいない早朝、グナエウス砦から今日最初の荷馬車が早くも出たのはそうした背景があったからだった。
荷馬車には前夜の内から解体した兵舎の部品を積み込んである。雲の上では星の瞬く空が青くなり始めたばかりだというのに、御者はその馬車に飼い葉を食べさせたばかりの馬を繋ぎ、ようやく朝もやが
「
不寝番をしていた門衛が松明を掲げ、御者にやけに陽気な声をかける。眠すぎて気分が高揚しているのだ。御者は普段は早起きしない人間が早すぎる時間に起き出した時に特有の、妙に冴えわたったさわやかな気分そのままに答えた。
「
もう出なきゃな、明日の日が暮れるまでに戻って来れねぇよ!」
馬車は積めるだけ貨物を積んでいるため非常に重たくなっている。これで坂道を降るのだから、スピードは出せない。うっかりスピードを出せば、荷馬車の重量の割に貧弱な能力しかもたないブレーキでは止まれなくなるし、また曲がれなくもなってしまう。
この状態でグナエウス砦を日が昇ってから出発したら、到着するのは夕方ごろになってしまうだろう。そこから翌朝、荷物を降ろしはじめて代わりの飼い葉や食料などの荷物を積み込み、翌日にグナエウス砦へ戻って来る。そこから翌日に飼い葉や食料を降ろし、代わりに資材を積み込む……一往復するのに四日かかる計算だ。普段ならそれでいいが、今は非常事態である。それでは許してもらえなかった。
陽のあるうちにアルトリウシアへたどり着き、その日のうちに資材を降ろし、夜中の内に飼料等を積み込み、翌朝にはグナエウス砦へ向けて出発……二日で一往復しなければならないのである。そのためには、この時間帯からもう出発しなければならなかったのだ。替えの利く中型や小型の馬車ならともかく、数が限られている彼の八頭立て大型荷馬車は稼働率を最大化することが求められていた。
「御苦労なこった。気を付けろよ!」
「ああ、ありがとよ。」
徹夜明けの朝の高揚感に酔った門衛に見送られ、馬車は峠道を降り始める。まだ暗く見通しの利かない夜道ということもあって、慎重に、速度が出ないように気を付けながら……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます