第643話 敵対地域

統一歴九十九年五月七日、夕 - グナエウス街道/アルトリウシア



 一昨日早朝にアルトリウシア平野に築かれた橋頭保きょうとうほを出立したドナート隊は昨日夕刻前にセヴェリ川南岸のアイゼンファウスト地区付近まで到達。そのままセヴェリ川に沿うように南東方面へ進み、マニウス要塞カストルム・マニの外縁から約二マイル(約三・七キロメートル)南まで迂回すると、夜陰に乗じてセヴェリ川を渡った。

 そこから先はドナートたちにとってほぼ未知の領域である。どこに何があるかほとんど誰も知らない。セヴェリ川自体はその昔、水源調査と水路として利用できないかを検証するために探検隊がさかのぼったことがあるそうだが、なにせ川が浅すぎるため喫水の極めて浅い船でなければ航行できないのと、南へ行っても塩分を含んだ利用価値の低い湿地と未開発の密林しかなかったことから、結局は測量すらされずに終わったようだ。

 アルトリウシアとシュバルツゼーブルグを繋ぐグナエウス街道は建設されたが、その街道に付随する施設が整備されると後はアルトリウシアの建設にリソースが回され、今ドナートたちがいるグナエウス街道以南の地域は地名さえ付けられることもなく放置されたままになっている。木こり小屋や猟師小屋などはあるようだが、領主の管理は全くと言って良いほど届いてはいない。

 このような地域でゲリラ戦を展開しようなどというのは、普通に考えれば全くの無謀以外の何物でもないだろう。ゲリラ戦なんていうものは、敵にまさる地の利があって初めて成功するものだからだ。にもかかわらずほぼ人跡未踏じんせきみとうと言って良い地域に潜入し、地形を把握する前に街道上を通行する荷馬車を襲おうというのである。作戦の成功を期する方がどうかしていると言って良い。

 しかし、ドナートは失敗する気などもちろんない。地の利のないのは敵も味方も同じこと。だがこちらにはダイアウルフがいる。


 この密林に覆われた山では人間は走り回ることなど出来はしない。落ち葉の絨毯に覆われた柔らかな地面は場所によっては体重をかけた途端に脛の半ばまで一気に沈み込むこともあるし、ズルリと滑ることもある。そのくせ木の根が縦横に伸びており、走るどころかまっすぐ歩くことさえできない。そして密生する樹木は視界を遮り、銃器で武装した軍団兵レギオナリウスであっても、その真価を発揮することなど出来ようはずがなかった。


 だがドナートたちは違う。彼らが駆るダイアウルフはこのような密林でも自在に駆け回ることができ、優れた聴覚と嗅覚は視界が利かなくても敵の気配を鋭敏に感じ取ることができる。

 ダイアウルフがいれば敵より先に敵の気配を感じとり、敵はこちらに気付いていないがこちらは敵の位置を把握している……そういう状況を作り出すことが可能なのだ。それはこのように視界の制限された環境下では絶対的な優位に働くであろう。


 少なくとも最初の数日は一方的な勝利を得ることができるだろう。


 レーマ軍がこの山林に部隊を展開することはできない。レーマ軍の戦列歩兵戦術せんれつほへいせんじゅつで戦う重装歩兵ホプロマクスは基本的に開けた平野でしか作戦行動は出来ないし、散兵戦術さんぺいせんじゅつをとる軽装歩兵ウェリテスだってダイアウルフのような機動力は見込めない。騎兵エクィテスもこのような複雑な地形ではダイアウルフとは勝負にならない。馬は所詮平野に特化した生き物だからだ。つまり、レーマ軍はこのような山林で本格的な作戦を展開する能力など無く、せいぜい街道の防備を固めるぐらいしかできない筈なのである。

 もちろん、今のセヴェリ川沿いのように街道の防備を固められればドナートたちも成す術を失ってしまう。所詮は少数のゲリラ部隊……敵の大兵力とまともにぶつかる力など無いのだから当然だ。しかしそれでも、レーマ軍が本格的に防備を固めるまでに数日程度は要するはず。


 その間に暴れられるだけ暴れ、稼げるだけ戦果を稼ぎ、レーマ軍にダイアウルフの恐ろしさを思い知らせてやる!


 いくらレーマ軍とはいえ、アイゼンファウストからグナエウス街道までの広い範囲で堅く防御態勢を敷くことなど出来ない筈だ。できても短期間だけだろう。

 だが、レーマ軍にダイアウルフに対する脅威を実感させることさえできれば、レーマはハン支援軍アウクシリア・ハンに対してダイアウルフの捕獲のための行動の自由を認めるはずである。


 ドナートたちはセヴェリ川を越えて山林に入ったところで一泊し、今日は朝から山林の中を北上していた。そして遠巻きにグナエウス街道の位置を確認しつつ、東へ移動……襲撃に都合のいい場所を探す。

 しかし、ドナートの期待に反して、そのような場所は中々見つからなかった。


 グナエウス街道はレーマ帝国の軍用街道ウィア・ミリタリスの規格に準じて敷かれている。それは道幅や屈曲カーブの大きさ、勾配の制限、舗装路面の強さや水捌みずはけに至るまで様々な基準が定められていた。そして、その基準の中には敵や盗賊の襲撃を受けにくいようにするため、道路の左右両側の法面のりめんを六ピルム(約十一メートル)以上設け、樹木や岩石といった人が隠れて待ち伏せできるような障害物を取り除くといった条件も含まれている。

 おまけにグナエウス街道は南方からの南蛮兵の侵入を防ぐ目的もあって、部分的に南側の法面が城壁のようになっている箇所も少なくない。つまり、グナエウス街道そのものが一種の長城のような役割を果たすように造られているのだ。

 人が容易に接近しうるような地形では城壁のように防備がかためられ、そうではない場所でも六ピルム以上の平坦で何もない法面が設けられていて身を隠したまま近づくことは難しい。

 しかも襲撃し、救援が駆け付けるまでに撤収する都合も考えると、要所要所にある中継基地スタティオから一定程度は離れている必要もある。そんな条件を揃えた場所は常人の脚なら三~四日、軍団兵レギオナリウスの脚でも二日はかかるグナエウス街道全域を見渡しても数えるほどしか無かった。


「隊長、やっぱり遠吠えを聞かせて驚かすだけにしといた方が良くないですか?」


 さすがに実際にグナエウス街道を外から見て、そこを通る商隊を襲うことの難しさがわかったのだろう。隊員の一人が気弱そうに進言する。

 その意見は決して悪いものではない。遠吠えだけならこちら側の身を隠したまま相手側に脅威を認識させることができるのだ。アルトリウシア平野から数回、遠吠えを聞かせただけでアイゼンファウストはあれだけ防備を固めたのだから、レーマ軍が無視するとも思えない。

 しかしそれを分ったうえでドナートは首を振った。


「いや、駄目だ。それじゃあ足らない。」


「何でですか?

 アイツ等、アルトリウシアでは数回遠吠えを聞かせただけであんだけビビっちまったじゃないですか。」


 部下の不平を含んだ声に、ドナートは決して怒りや不満を滲ませることなく、冷静に説明する。


「俺たちがここに居られるのはほんの数日だ。

 その間に、確実にレーマ軍がグナエウス街道全域で守りを固めなければって思わせなきゃいけない。

 そのためには遠吠えだけじゃ駄目だ。

 遠吠えを聞いただけなら、馬車は加速して駆け抜けようとするだろう。

 そして加速して駆け抜ければ被害が無いということになれば、レーマ軍に防備をかためようという気を起こさせることはできない。

 馬車で駆け抜けたところで逃げ切れない……軍団兵レギオナリウスを配置して防備をかためないといけない……そう思わせなきゃいけないんだ。

 それとも、まさかお前も雪の中で死にたいのか?」


 そう言われると部下たちも納得せざるを得なかった。

 ドナートたちはあと五日分程度しか食料を持って来ていなかった。仮に、狩猟等で食料を確保できたとしても、あと半月もしないうちにここらは雪が降り始める。そうなればさすがに彼らも行動の自由を大幅に失わざるを得ないだろう。いや、それどころか生きて帰れなくなってしまうかもしれない。


 忘れもしない四年前の今頃、まさにこの地で『グナエウス峠の悲劇』は起きたのだ。

 四年前の統一歴九十五年一月まで、ハン支援軍アウクシリア・ハンは“演習”と称してレーマ軍の指揮下から離れ、アルトリウシア平野で好き勝手に暮らしていた。そして、そこを南蛮のアリスイ氏の軍勢による夜襲を受け、壊滅的な被害を受けてしまう。ドナートが『単騎駆け』の異名をとる活躍をみせたのはその時であったが、そこから逃げ延びたのは全軍の半数にも満たなかった。大部分が突進力に関してはレーマ軍でも定評のあるコボルトの突撃を受け、何があったかも把握できぬままその命をアルトリウシアの湿原に散らしたのだ。


 それから半年も経たぬ五月、マクシミリアン・フォン・アルビオンニア侯爵およびグナエウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵はハン支援軍アウクシリア・ハンをアルビオンニウムへ帰還させようとした。彼らを安全な後方へ下げて戦力を回復させようとしたのである。

 だが、ハン族の方はレーマ貴族を信用してはいなかった。

 アルビオンニアへ渡ってから強力な南蛮軍相手に十分な活躍をすることもできず、アルビオンニアへ来て初めて故郷のアーカヂ平原に似た土地……アルトリウシア平野を見つけてからはそこで好き勝手に“演習”していたハン族……レーマはこれを逃亡と見做みなして粛清するのではないかと恐れたのだ。

 そこでグナエウスには確かにアルトリウシアからアルビオンニウムへ発ったと思わせつつ、全軍はアルビオンニウムへ向かわないようにした。アルビオンニウムへは主だった王族とその護衛部隊一個大隊だけで向かい、それ以外はグナエウス砦に留まり、マクシミリアンが良からぬことを考え、実行に移したとしても全滅だけはしないようにしたのである。

 その結果起きたのが『グナエウス峠の悲劇』だった。王族たちがグナエウス砦からアルビオンニウムへ向けて発った翌日、峠は記録的な大雪に見舞われてしまう。

 彼らの故郷であるアーカヂ平野でも雪は降る。が、積雪は多くても一ぺス(約三十センチ)届くかどうかだった。ところが、アルトリウシアの山間部では、一晩で三ぺス(約九十センチ)以上も雪が降り積もるのである。しかもそれが連日降り続ける。雪を完全にあなどっていた彼らはたったの一晩で雪に完全に閉ざされ、雪が消える春まで救出されることは無かった。最初の救援隊が発見したのは、おびただしい数のハン族の、文字通り冷たくなった哀れな姿のみであった。

 この時、ハン族は王族と王族直轄の護衛大隊以外の全員を一挙に失ったのである。それ以来、ハン族にとってグナエウス峠は一種の鬼門となっており、また雪を非常に忌み嫌うようになってもいた。


「安心しろ、ほんの数回。

 ほんの数台の荷馬車を襲撃すればいいんだ。

 ダイアウルフの仕業にみせかけて……な?」

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