第642話 別の交渉窓口の模索

統一歴九十九年五月七日、夕 - セーヘイム・ヘルマンニ邸/アルトリウシア



「ほうか‥‥‥」


 セーヘイムの郷士ドゥーチェヘルマンニ・テイヨソンは自身の部屋でヨンネ・レーヴィソンの報告を聞くと深いため息をついて上体を背もたれに預けた。ヘルマンニが今日、エッケ島への補給船にヨンネを乗せたのはエッケ島に囚われている人質たちの解放と、奪われたままになっている貨物船クナールの返却を催促するためだった。ヨンネは三年前の海賊討伐戦で右腕を失って以来、叔父であるヘルマンニの下で交渉事や事務仕事を手伝っている。それで今日はヘルマンニの名代として補給を届けるついでにエッケ島へ赴いたわけだが、成果はさっぱり上がらなかった。


 そのことはイェルナク様が所管しておられる。イェルナク様のおられぬところで、私なんぞが勝手に話をすることなど出来ん。名簿の作成もイェルナク様が遅滞なくやっておられる。いや、私は知らん。他の誰も知らん。イェルナク様が御一人でやっておられるのだ。そうだ。だからイェルナク様がお戻りになるまでその話は出来ん。船もダメだ。『バランベル』号が直らないうちは返すわけにはいかん。そちらが船が必要なように、我々にだって船は必要なのだ。早く返してほしければ、早く『バランベル』号を直すんだな。直せないんなら駄目だ。返せない。


 ヨンネに応対したハン支援軍アウクシリア・ハン幕僚トリブヌスモードゥの言い分はそうしたものだった。こと人質解放のこととなると全く取りつく島が無い。


「アイツらぁ、手前ぇの都合ばっか並べ立てやがって、道理ってもんがまるで通じねぇ。

 自分らで要るモンなら他人様のモンを勝手にしていいとでも思ってやがんだ。」


 ヨンネは吐き捨てるように言った。

 セーヘイムの代表、ヘルマンニの名代として交渉ごとに挑むようになってからヨンネは奇麗な言葉遣いを身に着けるよう心掛け、実際おおやけの場ではきれいなラテン語やドイツ語を流暢りゅうちょうに話すようになっていたが、身内だけしかいない場面では地の言葉が出てしまう。


「じゃが、参ったな……イェルナクが戻らにゃあ話になんねぇってんじゃ。

 こらぁいよいよ先が見えなくなっちまったなぁ。」


 ヘルマンニは難しい顔をして腕を組み天井を見上げて目を閉じた。


「イェルナクの野郎はサウマンディウムへ行っちまったんだろ?

 予定じゃ明日か明後日には帰ってくるんじゃないのかい、叔父さん?」


「いんにゃ、わからん。」


 尋ねるヨンネにヘルマンニは首を振った。その後、閉じた目を薄く開け、薄暗い屋根裏を見上げる。


「どうやら伯爵がイェルナクの奴に漏らしちまったらしい。」


「漏らしたって!?」


 ヨンネは驚き、座っていた椅子から思わず身を乗り出す。

 ヨンネは郷士としてのヘルマンニの仕事を手伝う必要上、降臨について知らされているセーヘイムでも数少ない人間の一人だった。ヘルマンニはあの日、アルビオンニウムへ行っていた部下たち以外ではヨンネと、あとごく限られた側近数名にしか降臨の事は話していない。もちろん、妻のインニェルにさえ教えていない。

 そして、今この部屋にはヘルマンニとヨンネの二人きりだった。


「ああ、リュウイチ様の事をじゃ。

 あと、ルクレティア様が聖女サクラになられたことも……」


 ペシッと音を立ててヨンネは自分の顔を手で覆う。


「なんてこった‥‥‥」


「しかも、アルビオンニウムにゃあ今、ムセイオンから脱走してきたハーフエルフが来ておるらしい。そいつらぁシュバルツゼーブルグ周辺の盗賊どもを束ねて、暴れておるそうじゃ。」


「ハーフエルフ!?そんな人たちがいったい何しに!?」


「どうも、手前ぇの親の顔見たさに、降臨を起こそうとしとるんだそうな。」


 ヘルマンニは昨日、マニウス要塞カストルム・マニで聞いてきたばかりの、ヨンネにはまだ話していなかった最新の情報を教えた。


「それって……まさかホントにメルクリウス団!?」


 驚き目を丸くしたヨンネを見もせず、ヘルマンニは自分の顔を両手で覆う。


「さあな、わからん。」


「わからんって‥‥もしホントだったらイェルナクが言ってたことが……」


「いやっ、そりゃあ無いじゃろ。」


 ヘルマンニは言いながら両手で顔を拭い、そして背もたれに預けていた身体を起こした。そして今度は肘掛けに両肘をつき、上体を前かがみにする。


「じゃが、偶然とはいえに都合のいい連中が現れちまった。

 降臨の事、リュウイチ様の事、ハーフエルフの事、それを知っちまったイェルナクがエッケ島へ戻ったらどうなる?」


 叔父ヘルマンニにジロリと視線を向けられ、ヨンネは椅子から乗り出していた身体を元に戻した。


「そ、そりゃあ、アイツ等……」


「そう、手が付けられんようになるかもしれん。

 調子に乗るじゃろうの……」


 そう言うとヘルマンニはテーブルの上の台から愛用の角杯リュトンを手に取った。中には息子ヘルマンニの嫁メーリが醸造した黒ビールで満たされている。


「じゃから、侯爵夫人様ぁ伯爵様に鳩を飛ばしたんじゃ。

 イェルナクをなるべく足止めしといてくださいとな。」


「え、てこたぁイェルナクの野郎は……」


 ヘルマンニは金、銀、螺鈿らでんに真珠と、贅沢にちりばめた象嵌ぞうがん細工の施された角杯リュトンから黒ビールを一口ちびりと啜り、飲み込んだ。そしてハァーと盛大に息を吐き、角杯リュトンの中の黒ビールに広がる波紋を眺めながら答える。


「簡単にゃあ帰って来るめぇ。

 伯爵は御自身の不覚に責任を感じておられるはずじゃ。

 イェルナクを足止めしてくれっちう侯爵夫人様の思召おぼしめすところも、ちゃぁんと理解しとるじゃろうよ。

 何のかんのと理由を付けて、当分はイェルナクをサウマンディウムへ引き留め続けるじゃろう。

 下手すりゃ、二度とコッチに帰って来んかもしれん。」


 その意味するところを想像し、ヨンネはわずかに眉をひそめた。

 ハン支援軍アウクシリア・ハンは叛乱を起こした。レーマは帝国に歯向かった敵国は許しても、叛乱は決して許さない。だからハン支援軍の未来は既に確定している‥‥‥討伐され、滅亡するのだ。

 それを今までこうやって穏便に済ませているのは、ただただ、アルトリウシアに降臨者 《暗黒騎士リュウイチ》が居るからに他ならない。今、アルトリウシアで大規模な戦闘を行い、万が一にもリュウイチを刺激し、《暗黒騎士ダーク・ナイト》の計り知れない力が解き放たれるのは何としても防がなければならないからだ。それが無ければ、住民たちの救援や被害からの復旧復興を後回しにしてでも、エッケ島を攻略していただろう。まして、エッケ島に補給物資を今でも送り続けるなんてあり得る筈もない。


 この状況下でエッケ島を離れたイェルナク……彼をそのまま始末したとしても、何の不思議もない。


「で、でも叔父さんヘルマンニ……それじゃ人質の交渉は……」


「ああ、じゃから今日、お前ぇをエッケ島へやって様子を探らせたんじゃよ。

 イェルナクが居ねぇ状況でも、連中が交渉に乗ってくれっかどうか……な?」


 ヘルマンニはもう一口、黒ビールを啜ると角杯リュトンを台に戻した。そして再び背もたれに上体を預け、腹の前で両手を組むと、屋根裏を見上げてフーッと溜息をつく。


 イェルナクが居ない状況でハン支援軍の誰かがイェルナクの代わりの交渉窓口になってくれるなら、イェルナクをこのままサウマンディウムで始末してもらう事も出来るだろう。相手は泳ぎのできないハン族のホブゴブリンだ。帰りの船で海に突き落とすだけで簡単に始末できる。

 今日ヨンネがエッケ島へ送られ、人質解放と貨物船クナール返還の交渉を持ちかけるように命じられたのは、その可能性を探るためだったのだ。


「何とか穏便に、人質を解放してもらいてぇんだがなぁ……」

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