第637話 もう一人の黒幕
統一歴九九年五月七日、昼 -
「んっ、んんん~~~~っ」
アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子はリクハルド・ヘリアンソンの顔を見たまま唸るように溜息を噛み殺し、呻いた。
ルクレティウス・スパルタカシウス‥‥‥ルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアの父親であり、スパルタカシウス氏族の頂点に立つ
しかも、ルクレティウスはアルビオンニア属州中の神官たちを束ねる立場にいる。神官は単なる宗教指導者というわけではなく、医療活動等にも従事しているため神殿内に留まることなく、各地を巡回していたりもする。アルトリウシア内にも多数いる神官たちを使えば、たしかに情報収集も情報操作も容易であろう。
おそらく、娘を案じたルクレティウスが配下の神官を使い、リュキスカに関する情報を集めているに違いない。神官たちは《
「俺っちもよぉ、流石に神官どもにゃ手が出せねぇよ。
《
それで神官が《
クドクドと説明し始めるリクハルドに手を
「わかりました。
なるほど、それはお困りだ。」
「だろ?
俺っちも相手が
リクハルドがドサッと背もたれに上体を預け、仰け反りながら苦笑いを浮かべてアルトリウスは見下ろす。アルトリウスは十分大柄な方だが、リクハルドはそれ以上に大柄だ。アルトリウスが軍人として、そして
どこか悪戯っぽいリクハルドの笑みを見上げながら、数秒そんなことを考えたアルトリウスはフッと小さく息を吐くと意識を話題に戻した。
「わかりました。
スパルタカシウス様には私の方からお願「いやいやいやいやぁっ!」」
アルトリウスの言葉をリクハルドが身を乗り出して遮った。
「?」
「ただでさえお忙しい
「
「スパルタカシウス様だってどうしても知りてぇ理由がおありなんでしょうよ?
だから神官どもを使って色々探ってんだ。
それを俺っち
「いや、それは……」
ことはリクハルドの都合などではなく、アルトリウシアとアルビオンニアを統治するうえでの都合であり、ひいては
「いやいやいやいや、大丈夫でやすよ。
決してスパルタカシウス様の機嫌を損ねるようなことは言いやせんから安心してくだせぇ。
俺っちは俺っちが調べたことをスパルタカシウス様に全部お教えしやす。」
「「!?」」
「そんかし、神官を使って嗅ぎまわるのをやめていただきやす。
どうでやす?
こんなら、向こうも機嫌を損ねるこたぁ無ぇでしょう?」
ルクレティウスは祖父の代で没落してアルビオンニアに流れてきてしまってはいるが、スパルタカシウス氏族がレーマ帝国で名門中の名門貴族であることは今も変わらない。スパルタカシウス氏族宗家のルクレティウスが地方へ追放されても、スパルタカシウス氏族の分家は帝都レーマで権勢を誇っているのだ。財力はアルビオンニア侯爵家やアルトリウシア子爵家に劣ってはいても、家格ではルクレティウスの方が圧倒的に上……そのルクレティウスのやっていることに横槍を入れれば、多少なりとも問題になるだろうし、子爵家はルクレティウスに対して何らかの負い目を負う事になるだろう。リクハルドはそうならないように取り計らおうというのだ。
もっとも、アルトリウスからすればルクレティウスも本件ではアルトリウスと同じ責任のある立場であり、秘密を共有し、かつ守るべき“身内”であるから、そんな“負い目”とか“借り”とかいう話にはならない。リクハルドはそのことを知らないが、アルトリウスは知っている。その認識の違いゆえに、アルトリウスはリクハルドが言う「機嫌を損ねる」の理由が分からず、思わず傍らに立つクィントゥスの顔を見た。クィントゥスもどういうことか判断に迷い、無言のままアルトリウスの顔を見返す。
「どうせ向こうにゃ内緒にしとく必要はもう無ぇんだ。
向こうは知りてぇことを知れて、これ以上嗅ぎまわる必要がなくなる。
こっちゃあ神官どもに嗅ぎ回られずに済んで揉み消しがうまく行く。
どうです、いい考えだと思うんですがねぇ?」
「あ、ああ……」
そこまで聞いてようやくアルトリウスはリクハルドが何を言おうとしているのか理解した。
そうだ……リクハルド卿は知らないんだった……
思わず零れた苦笑いを噛み殺すアルトリウスの様子にリクハルドは「あれ?」とどこか拍子抜けしたような表情を浮かべる。
「?」
「いや、なるほどリクハルド卿がおっしゃりたいことは分かりました。」
「じゃあ……」
アルトリウスが笑った意味がわからず戸惑うリクハルドにアルトリウスは快諾した。
「はい、それではお任せしましょう。
ただ、私の方からも手紙を書かせてもらいます。」
「お、おう!?」
戸惑いつつもどうやら話は希望通りに通ったことに、リクハルドが小さく安堵したのも束の間、アルトリウスは肝心なことを思い出していた。
「ところで、もう一人の方ですが?」
「おう!そいつぁまだわからねぇ。
いや、探ってる奴ぁ分かってんだが、黒幕が別にいると思うんだ。
今ぁ、その黒幕を探ってるところでねぇ。」
今日一番の案件が片付いた安心感からか、リクハルドの口調は心持ち軽くなっていた。話す様子から用心深さが消え、まるでどうでもいいことの様な気安ささえ感じられる。
「黒幕が別にいるというのは?」
それだ。探っている者の正体が分かっていながら黒幕が別にいるとリクハルドはほぼ断定的に言っている。普通、
だがリクハルドは「黒幕が別にいる」と言い、しかも「その黒幕を探ってる」と言っている。つまり黒幕はその者とクリエンテラで繋がっている相手ではないということだ。これはレーマ貴族にとっては少しばかり考えにくいことである。アルトリウスはそこに違和感を覚えたのだ。
リクハルドはアルトリウスの疑問にこともなげに答える。
「ああ、探ってんのぁ、セーヘイムのネストリよぉ」
「ネストリ殿……」
「そう、知ってんだろ?」
アルトリウスは黙ってうなずいた。ネストリの娘メーリはサムエルの妻である。サムエルはアルトリウスにとって幼馴染の親友で、結婚式にも出席した。そこでネストリには会っているし、それ以外の場でもちょくちょく会っている。ネストリはセーヘイムの有力者であり、領主である子爵家にとっても無視できない存在なのだ。ネストリは
「間違いないのですか?」
「ああ、《
「んん~~~~っ」
アルトリウスは背もたれに身体を倒し、腕を組む。リクハルドの言う「ガミガミ女」とは魚の行商をする女たちの蔑称である。
リクハルドの話を聞く限り、確かにネストリが自分の息のかかった魚売り女たちを使ってリュキスカの事を探っているようにしか思えない。だが、ネストリがリュキスカの事を探る理由がアルトリウスには想像できなかった。
考え込み始めたアルトリウスにリクハルドは言葉を続ける。
「だが、ネストリがヒトの娼婦なんかに興味を持つわけがねぇ。
リュキスカを
だいたいネストリはここしばらく、海に出る以外はセーヘイムから出ちゃいねぇんだ。
まあ、ヘルマンニの爺さんあたりがネストリに頼んで調べさせてんじゃねぇかって思ってんだがよ?」
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