第632話 エレオノーラ再び

統一歴九十九年五月七日、午前 - 《陶片テスタチェウス》/アルトリウシア



 貴族はただきらびやかな生活を送っていればよいと言うようなものではない。もちろん、そういう貴族もいないわけではないが、領地を有する貴族には統治者としての務めがある。彼らとてそうした務めを果たすからこそ、人々の上に君臨することができるのであるし、贅沢をすることもできるのだ。貴族が贅沢をしようと思ったら領地経営を万全にし、領民を富ませ、税収を高めねばならない。それもせずにただ贅沢を重ねれば、領民は苦しみ、税金を搾り上げようにも得られる富もなく、落ちぶれていくことになる。ただ落ちぶれるだけならよいが、時に家臣や領民が逆らい、下剋上を起こして破滅させられてしまう事さえあり得るだろう。

 しかし、どれだけ優秀な統治者であっても、広大な領土の統治を一人で行うことなど出来はしない。目が行き届かないし、そもそも頭も手も足りない。だからこそ家臣を抱え、領地経営を担わせる。特定の分野を任せることもあるし、特定の地域を任せることもある。そこら辺のやり方は時代や国によっても様々だ。


 そうして地域の統治の代行を任される役職の一つが郷士ドゥーチェである。彼らは下級貴族ノビレスとしての身分と共に広範囲な権限と職責とが与えられている。彼らは地域の代表者であり、行政官だった。警察長官であり、治安判事であり、民兵組織の隊長もあった。徴税官であり、都市デザイナーであり、事業者であり、貿易商であり、興行主でもあった。つまり、郷士というのは実はかなり忙しいのである。

 アルトリウシアの新興地域を治める三人の郷士、ティグリス・アンブーストゥス、リクハルド・ヘリアンソン、メルヒオール・フォン・アイゼンファウストの三人はいずれもアルビオンニウムで犯罪組織を率いていた裏社会の出身者たちだったが、それでも自分の地域を治めるため、日々真面目に忙しく働いている。

 朝起きて朝食を済ませたら家来の報告を聞き、住民の陳情に耳を傾け、そしてレーマ貴族の一員として被保護民クリエンテス表敬訪問サルタティオを受けねばならなかった。


「で、何でお前が来てんだよ?」


 手下どもからの報告を聞き終えたリクハルドが、じゃあ次は住民どもの陳情でも聞くかと言ったところで彼の前に姿を現したのはエレオノーラだった。


「アラご挨拶ね、人の顔見たらまず『ごきげんようサルウェー』くらい言えないの?」


ごきげんようサルウェー‥‥‥満足か?

 ホラ、帰った帰った。」


 部屋の入り口で腕組みしたまま仁王立ちしているエレオノーラの顔を見もせずにリクハルドはそう言うと、長椅子クビレに座ったままシッシッとばかりに手を振って追い出そうとする。


「満足なわけ無いでしょお!?」


 憤慨したエレオノーラはツカツカと部屋に入ってくると、リクハルドの左隣にドッカと腰を下ろし、フンッと鼻を鳴らした。


「何しに来てんだよ?

 悪いが今は住民どもの陳情を聞かにゃなんねぇんだよ。」


「あら、アタシも住民よ!?

 それともアタシが住んでる街はリクハルドヘイムじゃないのかしら?」


 右手で頭を抱えて悩まし気に俯き、エレオノーラを避けようとするリクハルドだったが、エレオノーラは気にしない。


「他の連中はどうした?」


「譲ってくれた。」


「譲らせたんじゃないのか?」


「そんなわけ無いでしょ!?

 それどころか『また来ます』って帰っちゃったわよ」


「ふぅー----っ」


 リクハルドは深いため息をついた。

 エレオノーラはリクハルドの愛人として《陶片テスタチェウス》の住民たちには広く認知されている。それもただの愛人ではない。リクハルドは独身だったし、二人は海賊時代から二十年ほども付き合い続けていたことから実質的に内縁の妻と見做みなされていた。そのエレオノーラが待合室にいれば、堅気カタギの住民ならば遠慮するのは当然だろう。エレオノーラが「いいのよ、気にしないで」といくら言ったところで、住民たちの方から「いえいえ、どうぞどうぞ」と譲り、ついには引っ込みがつかなくなって帰ってしまったに違いなかった。


 こうなるから昼間は来るなって言ってあるのに……


 エレオノーラにしても決して愚かな女ではない。自分の立場もリクハルドが距離を置こうとしている理由も分かってはいるのだ。が、分かってはいても用はあるのだし、リクハルドの女としての情もある。リクハルドの情婦だからこそ、があるのだ。


「わあった、言ってみろ。」


 諦めたリクハルドは応接セットの対面の長椅子クビレを指し示して言った。住民として陳情するなら、陳情する人間が座るべき席に座れ……そう示したつもりだったが、エレオノーラはあえてそのまま気づかぬふりをした。


「リュキスカの事なんだけど……」


 ペシッとリクハルドは額に手を当てて俯き、目を閉じた。


「何でスパルタカシウス様やセーヘイムのネストリさんがリュキスカのこと嗅ぎまわってんの?」


「誰に聞いた、そんなこと?」


「何言ってんのよ?

 リュキスカのこと探ってる人の正体を調べてたでしょ!?

 アタシだって協力したんだからっ」


 リクハルドは頭をあげながら額に当てていた手で顔を撫でおろし、そのまま天井を見上げて己の間抜けさを呪った。

 リュキスカが働いていたのは『満月亭』ポピーナ・ルーナ・プレーナ……つまり、エルネスティーネの店だ。それもリクハルドがアルビオンニウムからエルネスティーネを呼び寄せた際に与えた店だった。経営の実務はヴェイセルに任せてあるし調査もラウリを通じてヴェイセルにやらせたが、ヴェイセルが店のオーナーであるエレオノーラに知らせないわけがない。だいたい、あの店の娼婦たちは雇われ店長のヴェイセルよりも、エレオノーラの方を慕っているのだから、娼婦たちに秘密裏に何かをやらせようと思ったら、娼婦たちにはヴェイセルやラウリからではなくエレオノーラから言ってやる必要があるくらいなのだ。

 自己嫌悪に陥っているらしいリクハルドにエレオノーラは横から甘えるように身体を密着させる。


「ねぇ、何で?」


 エレオノーラの体温と体臭を感じながらフーッと溜息をつくと、リクハルドは観念したように言った。


「スパルタカシウス様だけじゃねぇ。

 多分、今アルトリウシアにいる貴族ノビリタスの殆ど全部が探っていやがる。

 ネストリが探ってんのも、多分ヘルマンニの爺さんあたりに頼まれて探ってやがんだ。」


「え!?何でそんな大事になってんの?」


 驚いたエレオノーラが思わず身体を起こすと、リクハルドはようやくエレオノーラの方へ向き直る。


「リュキスカが高貴な上級貴族パトリキに身請けされたって言っただろ?」


「ええ、聞いたわ。」


「それでだ。リュキスカは今や上級貴族パトリキ様の仲間入りをしたんだとよ。」


「ウソ、結婚しちゃたの!?」


 さすがのエレオノーラもあまりにも突拍子もない話に思わず顔をしかめる。


「結婚かどうかはわからねぇ。

 だが、もう下級貴族ノビレスなんかじゃおいそれと口も利けねぇそうだ。」


「それで、何で貴族ノビリタスがリュキスカのこと調べてんのよ?」


「正式に上級貴族パトリキとしてお付き合いするためにゃぁ、ってのを知っとかなきゃいけねぇんだとよ。」


 信じられないのかエレオノーラは「冗談でしょ?」とばかりに半笑いを浮かべる。


「待ってよ、それならそのお貴族様パトリキのこともリュキスカのことも大々的に発表するはずでしょ!?

 何でコソコソ隠してんのよ?」


 エレオノーラの疑問はもっともである。貴族社会において貴族とは公人であらねばならないのだ。上級貴族パトリキともなればなおさらで、人付き合いや行いに部分などあってはならない。領主やその子弟ともなると、結婚を前提に公式に付き合っている相手と交わすラブレターまで公開するほどなのである。

 事実、十三~十四年前のアルビオンニウムではマクシミリアン・フォン・アルビオンニア侯爵とエルネスティーネ・フォン・キルシュネライト伯爵令嬢の間で交わされた手紙が公表されており、当時まだ思春期だったエレオノーラもそれを読んでは胸をときめかせたりしていたものだった。最近ではアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子と南蛮の姫君コト・アリスイア・セクンダの手紙もアルトリウシアで公開されている。ただ、こっちは南蛮の手紙の内容が酷く難解だったために、翻訳された上に細かい解説まで添えられるという有様であった。

 少なくとも、エレオノーラの知るかぎり貴族の結婚とはそういうものである。唯一の例外はルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵と今の子爵婦人アンティスティア・ラベリアの結婚の時だけだろう。アンティスティアがそもそもルキウスの侍女であり、手紙など交わす必要性が無かったうえに、結婚の話自体も急に決まったらしく、ほとんどそう言ったものが公開されなかったのだ。もっとも、荒んだ生活が長かったルキウスの存在自体が世間の目から隠される傾向にあったことも多少は影響していただろう。


「そいつぁわからねぇ。

 ただ、三か月ほどは伏せておきてぇんだとよ。」


 リクハルドは投げ出すようにそういうと、自身の上体も背もたれに投げ出した。


「ふぅ~ん……」


 エレオノーラは分かったような分からないような曖昧な様子でそう言うと、身体から力を抜いて視線をリクハルドから放した。何を見るでもなく視線が床を彷徨さまよい、あきらかに意識がどこか違う方へ向いている様子である。まあ、彼女なりに何かを考えこみ始めたのだろう。


「でだっ!!」


「えっ、何!?」


 意識が他へ向いた隙を突くようにリクハルドが突然大きな声を出すと、エレオノーラは驚き身体をビクッとさせてリクハルドに注意を戻す。驚き過ぎたのかまるで怯えたような表情だ。


「リュキスカのことで知ってること、何かねぇのかよ?」


 一瞬、目をパチクリさせたエレオノーラはリクハルドがイタズラっぽい笑みを浮かべている事に気付くとムッとした表情をつくった。


「無いわよ!」


 突き放すように言うとエレオノーラはそっぽを向き、わずかに怒りを滲ませる。リクハルドは隙を見せるとこうやってエレオノーラを揶揄からかうのが好きだった。いい年して子供っぽさが抜けないリクハルドと、それが分かっていてリクハルドの前でうっかり隙を見せた自分に腹を立てるのはいつものことである。


「無いのかよ!?」


「無いわ!あののことで知ってることは全部ラウリに話したもの……」


「なーんだっ……」


 リクハルドはガッカリしたように再び長椅子クビレの背もたれに身体を預ける。


「何よ、アナタもリュキスカに興味があるの?」


 今度はホントにガッカリした様子のリクハルドに、心配したように、あるいは甘えなおすように、エレオノーラは身体を寄せた。


「いやっ?

 ただ、連中が知りたがってるってことは、金になるって事だからな……」

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