リクハルドの不調

第631話 遠回しなメッセージ

統一歴九十九年五月七日、朝 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストラ・マニ/アルトリウシア



 秋も深まる五月上旬の朝ともなるとだいぶ冷え込むようになる。人々の吐く息は白く、装いも秋から冬へと厚みを増し、挨拶には今朝は冷えるねの一言が決まり文句のように添えられる。庶民や使用人たちの水仕事は日々辛くなる一方であり、長い冬の訪れをひしひしと感じさせた。

 そんな中で過ごしやすい季節の到来を感じているのがホブゴブリンながらもコボルトの血を引くハーフコボルトのアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子だった。コボルトと同様全身を細かく密生した体毛で覆われた皮膚の下にホブゴブリンにはほとんどない豊かな皮下脂肪を蓄えた彼は暑さは大の苦手とするところだが、逆に寒さは大して苦にならない。むしろ、今ぐらいの季節が寒すぎず暑すぎずで、薄着で過ごすにはちょうどいいくらいに感じられる体質だった。


 秋から春先にかけて、冬になると元気が出て来るアルトリウスだったが、しかし今年はそうもいかない。理由は言うまでもなく先月起きたリュウイチの降臨と、そしてしくも時を同じくして起きたハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱である。

 二つの出来事は状況を極度に複雑化し、対応を困難なものにしていた。おかげで先月は誕生日だったというのに祝えてもらえていない。それどころかろくに家に帰れても居なかった。結婚二年目、待望の長男アウルスが生まれてもうすぐ六カ月だ。毎日帰りたいのに週に一日帰れれば良い方という日々が続いている。本当なら昨日、あるいは一昨日は帰れるはずだったのに、養父ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵がギックリ腰をやらかして公務を引き継ぐ羽目になったがためにお預けになってしまっている。そして今日もまた家に帰れそうにない状況は続こうとしていた。


「ふぅ~~っ」


 これから朝食イェンタークルムだというのに溜息が出て来る。寝ても疲れがとれた気がしない。先月十五日に二十一歳になったばかりの貴公子は、その若さと恵まれた体躯に似合わぬけだるい雰囲気を朝からまとっていた。その様子を気に掛けながら、アルトリウスが五歳の時から仕え続けている家令マルシス・アヴァロニウス・タムフィルスが朝食の並んだ食卓メンサに飲み物を給仕し、そして小鉢と小さな花瓶を添えた。


「これは?」


 通常、朝食と言えば前夜の残り物を温めなおした物が出される。だが、タムフィルスが出した小鉢は昨夜の食卓には無かったはずだ。それに花瓶に生けられた花はどう見ても食べ物ではない。


奥様ドミナからの差し入れでございます。」


「コトから?」


 食卓を見下ろすアルトリウスの両眉がヒョイと持ち上がる。


「はい、旦那様ドミヌスが随分とお忙しい御様子ですので、せめて疲れが癒えますようにと願い、奥方様ドミナが手ずからお料理なすったものだそうです。」


 言われてアルトリウスは小鉢を手に取って覗き込んだ。中には黒豆の煮付けが入っている。


「黒い豆だ……これって疲れが取れるのか?」


 別に黒豆が嫌いなわけではないが、豆が疲労回復に効くとは聞いたことが無かったアルトリウスは率直に思い浮かんだ疑問を口にする。


「何でも南蛮の言い伝えで、冬に黒いモノを食べると元気が出やすいのだそうです。」


「そうか……

 で、こっちの花は?」


 片手で包み込むように持てるほど小さな花瓶に、色とりどりなウィトロキアナとウィオラの花が生けられている。


「そちらは、旦那様ドミヌスの食卓を飾り、御心を安んじられますようにとのことでございました。」


「そうか……」


 アルトリウスは黒豆の入った小鉢を卓上に戻し、湯気のあがる茶碗ポクルムを手に取って口元へ運ぶと、淹れられたばかりの香茶の香りを楽しみながらジッと花瓶を見て考えた。


 アルトリウスの妻コトはこういう小さな贈り物をするのが好きだった。ただ、その小さな贈り物の一つ一つにさりげなく何らかの意味を持たせ、メッセージにするので受け取る側はそれを読み解かなくてはならない。

 ウィトロキアナは秋から春にかけて咲く冬の花だ。ウィオラはウィトロキアナと似た花で、花の大きさがウィトロキアナよりも小さい。季節的には丁度咲き始めるころだろう。


 大きなウィトロキアナと小さなウィオラ……家族に見立てて愛を伝えようとしているのだろうか?

 いや、その割には数が合わない。ウィトロキアナはこちら側から見える分だけで五つ以上も咲いているし、ウィオラはもっと多い。


 しばらく考えたが疲れの抜けきっていない、そして目覚め切ってもいないアルトリウスの頭では答えが出てこなかった。ズズッと一口、熱い香茶を啜ったアルトリウスはハァ~と溜息をつくように湯気を吐き出し、茶碗ポクルムを口元から降ろす。


「‥‥‥‥降参だ。

 また、何か意味でも持たせているんだろうが、思いつかない。

 何か聞いているか?」


「申し訳ございません旦那様ドミヌス。」


 振り返るアルトリウスにマルシスは申し訳なさそうに頭を下げた。アルトリウスは残念そうに首を小さく傾げると再び花瓶に向き直る。


「ホントに?

 何か意味があるはずなんだ……そうだ、花言葉じゃないか!?

 ウィトロキアナとウィオラの花言葉、何だか知っているか?」


「申し訳ありません。

 南蛮の花言葉と言う奴はさっぱり……」


 花言葉という文化はレーマには無い。《レアル》古代ローマにそのようなものは無かったからだ。ただ、そうしたものがあるという事自体は知っている。ムセイオンを通じてもたらされた知識として伝わっていたし、また南蛮にもそういう文化があることをアルトリウスは妻のコトから聞いていた。が、そのアルトリウスも個々の花の花言葉までイチイチ憶えてはいないし、どうもムセイオンに伝えられている花言葉と南蛮に伝わっている花言葉では微妙に違うのだそうだ。


「ふぅ~~ん……」


 悩まし気に唸りながら髪を搔き揚げると、アルトリウスは諦めたようにフルフルと頭を振った。


「ダメだ。わからん。

 あとで訊いてみるしかないな。」


 もう一口、香茶を飲んで茶碗ポクルムをタンッと円卓メンサに戻すと、食事に手を伸ばす。


 まあ、何かあったと言うわけではないだろう。多分、あんまりにも帰ってこないから帰って来てほしいとか、そう言うメッセージだと思う。


 アルトリウスは花の意味を考えることを意識の外へ追いやり、四つ割りパンパニス・クァドラトゥスを千切って口へ放り込む。


「他に、何か預かってるメッセージは無いか?」


 口をまだモグモグとさせながらではあったが、アルトリウスはぶっきらぼうにマルシスに問いかける。普段なら食事中に仕事の話などしないのだが、ここのところ本当に忙しくて時間がもったいない。片付けられることなら食事の時間さえ惜しんで片付けてしまいたいという気持ちがそうさせた。


奥方様ドミナからは特にもうありません。

 他からですと、カッシウス・アレティウスクィントゥス殿よりリクハルド卿から『例の件について相談がある』と連絡があったそうでございます。」


 アルトリウスはその一言を聞くと口を動かすのを止めた。

 リクハルド・ヘリアンソンはアルトリウシア子爵家に仕える郷士ドゥーチェなのだから、クィントゥスを通す必要はない。直接、面会を申し込めば良いだけだ。なのにわざわざクィントゥスを通して話を持ってきたということは、リュキスカに関わる問題に違いない。


 そうか、に関してはカッシウス・アレティウスクィントゥスが窓口だと言ってあったんだったな……


 アルトリウスはもう一度茶碗ポクルムを手に取ると、口の中に残っているパンを喉へ流し込んだ。


カッシウス・アレティウスクィントゥスは?」


表敬訪問サルタティオに来ており、別室で控えております。」

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