第626話 新たな融資

統一歴九十九年五月七日、午後 - サウマンディウム港/サウマンディウム



 キュッテル商会を訪れたプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵はサウマンディア属州におけるキュッテル商会の最高位者であるオイゲン・キュッテルに対し、アルビオンニアへの送金を断念させるつもりでいた。現金ではなく別の物を送るよう、説得するつもりだったのだ。


 レーマ帝国において、通貨は数種類の貨幣のみが流通している。四種類の金貨、二種類の銀貨、そして六種類の銅貨である。このうち銀貨はデナリウス銀貨とセステルティウス銀貨だが、セステルティウス銀貨の方は既に廃止が決まっていて発行済みの物がまだ流通してはいるが、新規に発行されることはもうない。

 貨幣の発行は一括して帝都レーマでのみ行われており、レーマ本国以外では勝手に貨幣を作ることは許されていない。各属州は貨幣の流通量を増やそうと思ったら、レーマ本国に商品を売るか、野戦軍コミターテンセスを誘致してレーマ本国から送られてくる軍団兵レギオナリウスの給料等の金を地元に落としてもらうか、あるいは帝国主導による公共事業でもやってもらうほかない。そのほか、何らかの名目で資金援助を受けると言う方法もあるが、それだと帝国内での属州領主ドミヌス・プロウィンキアエの立場はかなり弱くなり、下手すると元老院セナートスの有力者あたりに領主の座を奪われることにもなりかねないので、できれば避けねばならない方法だ。


 ともあれ、属州内で流通する貨幣の量を増やすことはあまり簡単ではない。それでいて属州で上がった税収の一部はレーマ本国へ送らねばならないのであるから、レーマや他の属州との交易によって貨幣を呼び込まねば、下手すると属州内で流通する貨幣の量がどんどん減って行きデフレが起きてしまう。

 そうした、貨幣の流通量の極端な増減によって属州内の経済に悪影響を及ぼさないようにするためにも、属州の外へ大量の貨幣が流出することは制限されねばならない。貿易が基本的に信用取引で行われ年に一度の決済の時にのみ、通貨でのやり取りが行われるようになっているのも、また属州を越えての通貨のやり取りが基本的に金貨のみで行われるのも、貨幣の流出入が庶民経済に影響を及ぼしにくくするための方策の一つになっていた。


 である以上、一千万セステルティウスもの大量の貨幣を立て続けに二度もアルビオンニアへ運び出されるのは、決して好ましいことではない。既に海峡の向こうではアルビオンニア侯爵夫人とアルトリウシア子爵の二人の領主が私財をなげうつような勢いで復興事業を推し進めている影響でインフレが起き始めている。その煽りを受け、ここサウマンディウムでも建築資材を中心に物価が上昇し始めていた。

 金の動きがスムーズにいけば、アルビオンニアへ送った金は輸出業者を通じてサウマンディアへ戻ってくるし、それが輸出業者以外へも還元されるのだからサウマンディアの景気は確実に良くなっていくだろう。だが、今の金と物の動きは急激すぎる。一気に大量に送られた貨幣は確かにいずれ輸出によってサウマンディアに返って来るが、貿易で貨幣が移動するのは基本的に年に一度の決算を経てからだ。決算は年末に行われるから半年以上は帰ってこないことになる。その間、サウマンディアでは流通する貨幣の量が減少したままであるため、デフレが発生してしまう懸念があった。


 そのことを財務官クアエストルのティベリウス・マエキリウス・ノウァートゥスに説明されたプブリウスは、今日アルビオンニアへ派遣した軍団レギオーの見送りと、今日帰って来る息子カエソーの出迎えで港へ行くついでにキュッテル商会を訪れたのだった。だが結局は認めざるを得なかった。


 暴騰しているうちに金貨を売ってしまおう‥‥‥その試みがオイゲンにバレていた。金貨の両替はしないと元老院議員セナートルのアントニウス・レムシウス・エブルヌスに約束していたにもかかわらず、もしバレたらアルトリウシアの復興支援のためにどうしても必要だったと言い訳すればよいだろうとやってしまっていたのだ。

 オイゲンがその約束の事を知っている筈はないのだが、自分は禁じられていた金貨の両替までやって現金を調達しようとしていたのに、キュッテル商会が現金をアルビオンニアに送るのは止めさせたとあっては、用意した言い訳が苦しくなってしまう。後で痛くも無い腹を探られないようにするためには、キュッテル商会の送金を認めざるを得なかったのだ。


「ええい、これでは結局何をしに行ったのかわからんではないか。」


 キュッテル商会の商館を後にしたプブリウスは馬車の中でティベリウスに不満をぶつけた。難癖付けたあげく逆に触れられたくないところを突っ込まれ引っ込まざるを得なかった。しかも押しかけて行ってお茶を御馳走になった上でのことだから、とんだ醜態である。わざわざ恥をかきに行ったようなものだ。


「申し訳ありません。

 まさかキュッテルが金貨の両替に触れて来るとは思いもよりませんで‥‥」


「ちょっと派手にやりすぎたのだ‥‥

 キュッテルめに気付かれたとあれば、他にももう気づかれておるのではないか?

 秘密裏に両替してしまわねばならんかったというのに、キンキウスあたりに知られて見ろ、また小うるさいこと言われかねんぞ……」


 フェリクス・キンキウス・ガルバはサウマンディア伯爵家の御用商人の一人である。フェリクス本人はプブリウスの先代から御用商人として仕えており、彼のガルバ商会はサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの兵站を担ってもいた。商人としてというよりも兵站隊長として優れた手腕を持ち、サウマンディア属州内の物流インフラの整備に尽力し、サウマンディアからアルビオンニアの対南蛮戦に援軍を出した際には優れた功績を残している。

 サウマンディアにおける功労者ではあったが、今回の金貨の両替には関わらせていなかった。フェリクスのみならず、他の御用商人たちも関わらせてはいない。


 伯爵家だけが儲ければいいだけなら属州内で両替してしまえばいいのだが、金貨はいずれ価値が下がる一種の爆弾だ。伯爵家の金貨を銀貨に換えれば、金貨の値が下がった後に伯爵家は安泰だったとしても、その金貨が属州内に残っていれば属州の誰かが被害を被ることになる。その影響は結局は属州領主ドミヌス・プロウィンキアエたるプブリウスにも多少は及ぶのだ。

 だからプブリウスは金貨を属州の外で両替することを目論んだ。今は価値が高いがいずれ価値が下落……下手すれば暴落するリスクのある経済爆弾を、自分の被害の及ばない遠くへ捨てようとしたのだ。だがそのためには大量の金貨を属州の外へ運び出さねばならない。大量の金貨を属州の外へ運び出したうえで銀貨へ両替しようとすれば、数カ月の時間はどうしてもかかってしまう。多分、元老院議員セナートルのアントニウス・レムシウス・エブルヌスが帝都レーマへ帰り着く方が早いだろう。金貨の価値の下落は、早ければアントニウスがレーマへ帰着して間もなく始まるはずだ。もし、両替が間に合わなければ両替を依頼された両替業者は損害を被るかもしれない。

 それを恐れたプブリウスたちは、あえて自分の御用商人に両替をさせなかったのだ。今回はこれまで伯爵家と直接の付き合いのなかった両替商に金貨の両替を依頼している。


 しかし、その両替商はプブリウスの金貨を両替するための銀貨を、いったん属州の中からかき集めてしまったのだ。もちろん、金貨を属州の外へ持ち出すようにと厳重に言われてはいたし、本人も最終的にはそうするつもりである。だが、サウマンディアから運び出すには船に載せねばならないのに、その両替商は自前の船を持っていなかった。自前の船を持っていれば小分けにして何往復かさせようということになるのだろうが、他人の船をチャーターするのなら大きな船を借りて一度に運んだ方が安くつく。それでその両替商は一気に運んで一気に両替してしまおうと考えた。

 まずは属州中の商人から銀貨を借り集め、伯爵家にそれを金貨の代金として納め、先に伯爵家との取引を清算してから金貨を船で運び出し、属州の外で銀貨に換えてサウマンディアへ戻って来る……彼がそのプランを実行に移した結果、サウマンディウム周辺で銀貨の流通量が一時的に減少してしまったのである。


 オイゲン・キュッテルはそれを嗅ぎつけたのだ。オイゲンが嗅ぎつけたと言う事は、おそらく他の有力商人たちも皆気が付いている。フェリクスも気づいているだろうし、そうなれば「何でそんな儲け話を自分のところへ持ってきてくださらなかったのですか?」と問い詰めて来るに違いない。


「過ぎてしまった事は仕方がありません。

 我々は既に金貨を銀貨へ替えてしまったのです。

 ガルバ商会にはアルビオンニア支援を優先してもらいたかった……キンキウス殿にはそう言って納得してもらうしか無いでしょう。」


「あの老人がそれで納得してくれればいいがな。

 いい加減、息子に代替わりすればいいのに……」


「ですが、両替が外に知られてしまったとあれば、用意した言い訳を現実のものとせねばならなくなりました。」


「アルビオンニアに貸せということか!?」

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