第625話 足りない銀貨

統一歴九十九年五月七日、昼 - キュッテル商会/サウマンディウム



「待て!相手は属州女領主ドミナ・プロウィンキアエだぞ!?

 そりゃ、実際に契約している相手はキュッテル商会かもしれんが、御用商人だ。その背後にいるのは上級貴族パトリキ中の上級貴族パトリキではないか!」


 プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵は他人の領地のこととはいえ、思いもかけず領主が信用してもらえないという話をオイゲン・キュッテルから聞かされ、混乱したかのように慌てだした。


「閣下、たしかに平時であればそうでございましょう。

 普通の商人にとって上級貴族パトリキ相手の商売は喉から手が出るほど欲しい堅実な取引です。

 ですが侯爵夫人も子爵閣下も、此度こたびの件で既にかなりな借財を負われておいでです。いかな領主貴族パトリキといえど、無い金は出せますまい?」


「そ、それは‥‥‥そうだが……しかし……」


「ただでさえ懐の苦しい顧客が別のところから商品を手に入れてしまったら、そして納品できないうちに必要性が解消されてしまったら、それでも金を払ってくれるだろうか?

 商人たちはそんな不安を抱き始めているのです。」


「だが、領主貴族パトリキだぞ!?

 領地を持たない貴族ノビリタスならともかく、時間はかかっても払えるだろう!?」


おそれながら閣下。」


 納得できない様子のプブリウスに、財務官クアエストルのティベリウス・マエキリウス・ノウァートゥスが横から声をかける。


「なんだ!?」


「実は市中では既に、アルビオンニア侯御破算という噂がささやかれ始めております。」


「!?………ん、んん~~~むむむ‥‥‥」


 プブリウスは一瞬、ティベリウスの顔を見て驚き、事態を理解すると唸り声をあげながら、考え込むように右手で口元をおおった。

 たしかにアルビオン侯爵家の財政は火の車だ。破綻寸前だと言っていい。それは以前から言われていたことだ。だが、それでも属州領民だけは信用するだろう……プブリウスはそう信じていたのだ。


「閣下?」


「うむ‥‥‥いや、わかった。

 つまり現金があることを示さねばならないわけだな?

 それが、信用を買うということか‥‥‥」


 ティベリウスが声をかけるとプブリウスは俯き、目を卓上に泳がせたまま口を覆っていた右手を放し、翳すようにヒラヒラさせながら言った。話は理解した、事情も理解した、だがそれに対してどうすべきかという考えがまだ追いつかない……そんな様子だった。


「ご賢察のとおりでございます、閣下。」


 納得してもらえたことに満足したオイゲンがにこやかにお辞儀すると、プブリウスは何かを思い出したようにハッと顔をあげる。


「待て、では何故セステルティウス黄銅貨なのだ?

 いや、アス青銅貨やセミス銅貨なんて小さい額の銅貨なども含まれておるではないか。デナリウス銀貨の方が枚数も少なくて済むし、そういう大口の取引で使うのならデナリウス銀貨を使うだろう!?」


 プブリウスの指摘はもっともで、通常大口の取引では銀貨か金貨が用いられる。額面の小さい銅貨では嵩張かさばって運ぶのも大変だからだ。なのにオイゲンが送ろうとしているのは最も価値の高い貨幣でもセステルティウス貨であり、デナリウス銀貨の四分の一ほどの価値しかない。一億円用意しろと言われて千円札を積むようなものだ。

 オイゲンは苦笑しながら答えた。


「私どもも最初はデナリウス銀貨で送ろうと思ったのですが、手に入り辛くなっておるものですから‥‥‥」


「手に入りづらい?」


 プブリウスが怪訝な表情を浮かべると、その横でティベリウスが何か気まずそうに顔をしかめる。プブリウスは思い出せないようだが、ティベリウスの方には心当たりがあったのだ。


「市中のデナリウス銀貨が減っておるのです。それも急速に‥‥‥」


「減っているだと‥‥‥何故だ?」


 オイゲンはもちろん理由を把握しており、ヤレヤレと苦笑しそうになるのをこらえながら答えた。


「まず、リーボー商会も我々と同じことをやろうとしています。」


「リーボー商会‥‥‥御用商人のか?」


 リーボー商会はアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア兵站へいたん隊長の肩書を持つアルトリウシア子爵の御用商人ラール・ホラティウス・リーボーが営む商会である。このサウマンディウムにも支店を持っており、もちろんプブリウスはラールとも面識があった。


「はい、子爵閣下も侯爵夫人と同じ問題を抱えておりますから、リーボー商会も貨幣の調達に苦心しておるようで、今月に入ってからだけでも十数万枚程度のデナリウス銀貨を集めておるようです。」


「十数万……そ、それだけか?」


 たかが十数万枚程度で市中のデナリウス銀貨に不足が生じるわけはない。つい先月も、ちょうど給料月だったことからサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアや海軍の将兵たちに合計百数十万枚ものデナリウス銀貨を給与として支払ったばかりだ。軍団兵レギオナリウスの給料は年に三回に分けて支払われるため、本来なら給料月の翌月上旬である今は市中に最も多くのデナリウス銀貨が出回っているタイミングであるはずだった。

 呆気に取られたようなプブリウスの態度にオイゲンは苦笑いを強くし、ティベリウスは俯いてポリポリと頭を掻いた。オイゲンはプブリウスが途中で気づいてくれるであろうことを期待し、市中のデナリウス銀貨減少の理由をあえて小さい方から説明していたのだ。さすがに気まずくなったティベリウスがプブリウスに「閣下」と呼びかける。


「何だマエキリウスティベリウス!?

 今、キュッテルの話を……んっ!?なんだ貴様、知っておるのか?」


「はい、閣下」


 プブリウスに問われてバツの悪そうなティベリウスを同情するような目で見ながら、オイゲンは小さく気づかれないように溜息をつきながら、わずかに上体を退いた。


「何だ、何故デナリウス銀貨が減っておるのだ?」


「はい閣下……原因は、我々です。」


「我々だと!?」


 まだ気づかずに困惑するプブリウスに詰問され、居心地悪そうにしているティベリウスを哀れに思ったのか、ここでオイゲンが助け舟を出した。


「閣下はどうやら、随分たくさんの金貨を銀貨へ両替なさっておいでのようですな?」


「あっ!」


 先ほどまでの怒りと困惑が入り混じっていたような表情がプブリウスの顔から一瞬で消えた。

 ティベリウスはプブリウスの方へ向けていた身体をパッとオイゲンの方へ向けなおし、咳ばらいをすると取りつくろい始める。


「オホンッ!

 そうなのだキュッテル殿。

 我々もアルビオンニア侯をお助けすべく、デナリウス銀貨を集めておる。だが、先月は給料月で軍団兵レギオナリウスや役人どもに二百万枚からの銀貨を払わねばならなかったのでな。それで急遽、銀貨を調達すべく金貨を両替しておったのだ。」


 もちろんウソである。実際は先月、元老院議員セナートルのアントニウス・レムシウス・エブルヌスから今現在暴騰している金貨の価値が間もなく下落するという話を聞き、ため込んでいた金貨を銀貨へ替え始めていたのだ。本来なら一枚二十五デナリウス(百セステルティウス)相当のアウレリウス金貨が、今なら百四十~百五十デナリウス(五百六十~六百セステルティウス)になるのである。持っていればもう少し上がるだろうが、下がるのが分かっているのだから今のうちに銀貨へ替えてしまった方が良いに決まっている。伯爵家が抱え込んでいる金貨はそれなりに量があるのだから、ギリギリになって両替を始めたのでは金貨の下落に追いつかないかもしれない。

 アントニウスからは金貨を放出しないようにとは言われてはいたが、こんな美味い話をプブリウスがみすみす見逃すはずも無く、アルビオンニアへの資金援助を名目に銀貨への両替を始めてしまっていた。


「そそ、そうなのだ。いや、ああそうだった。今の今まで忘れておった。」


「いやぁ閣下が御失念とは、きっと疲れが出たのでございましょう。」


 思い出したプブリウスもぎこちない笑顔を作って急に上機嫌を装い、ティベリウスに話を合わせ、ティベリウスも調子を合わせて場を取り繕う。

 それを見てオイゲンは見透かしたようにほくそ笑みつつ、御追従を交えて二人に調子を合わせる。


「おお、流石は伯爵閣下、盟友のためにそこまでしておいでとは思いもよりませんでした。たしかに、ただ金貨を送りつけても金貨で決済ができる相手は限られますからな。アルビオンニア侯が使いやすいように予め銀貨に換えてお送りするとは、素晴らしいご配慮かと存じ上げます。

 このキュッテル、感服つかまつりましてございます。」


「おお、うむ……まあそうだな。

 アルビオンニア侯爵家とサウマンディウス伯爵家の繋がりを想えば、これくらいは当然のことよ。」


「では、我らの志すところは一つ……ということで、此度の貨幣のアルビオンニアへの御持ち出し、お許しいただけますでしょうか?」


「う!?……う、うむ。まあ仕方があるまい。了承しよう。」


 プブリウスは場の流れからやむなく了承せざるを得なかった。

 オイゲンはグスタフからの手紙で全てを知っていた。アルビオンニアで降臨が起きていることも、プブリウスやエルネスティーネらが結託してそれを秘匿していることも、リュウイチが膨大な金貨を持っていて両替できずにいることも、リュウイチが金貨を両替すれば、今暴騰している金貨の価値が一気に暴落するであろうことも、そしてプブリウスがそれを見越して金貨を両替し始めていたことも……だが、プブリウスたちはオイゲンがそれを知っていることは知らない。オイゲンもすべてを知っていることを打ち明けようかとも思ったが、今回はあえて知らないままでいることにした。その方が、もう少し儲けることができそうだと思えたからだ。

 知っているということは武器になる。だが、知られていないと言う事も武器になる。知っていながら、知っているとは知られていない……それは今後彼らと駆け引きをしていくうえで、大きな武器になるはずだった。

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