第623話 送りだされる貨幣

統一歴九十九年五月七日、昼 - キュッテル商会/サウマンディウム



 ランツクネヒト族の貴族は大きなホールのある建物を好む。小さな民家は別として、ある程度以上の規模を持つ屋敷となるとまず大きなホールを作り、そこを中心に様々な部屋や設備を付け足していくような設計の仕方が基本だった。貴族の屋敷ともなると目的別に複数のホールを作り、それらを廊下や部屋で繋いでいくという作り方をする。

 それは彼らが降臨者パウル・フォン・シュテッケルベルクからもたらされたドイツ文化の影響ではあるのだが、別にドイツの建築の全部が全部ホールを中心に作られているわけではもちろんない。これはパウルが同時に齎した、彼が生きていた《レアル》中世欧州を席巻していたヒロイックな騎士物語の数々によって、極端に美化された王宮のイメージを反映し、この世界ヴァーチャリアにおいて新たなランツクネヒト族文化として独自の発展を遂げた結果だった。


 サウマンディウムに建設されたキュッテル商会の商館もそうしたランツクネヒト建築様式を踏襲した造りになっており、サウマンディア属州領主プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵が家臣と共に招かれた画廊タブリヌムもまた、そうした建築様式に従って作られた賓客を招くためのホールであった。

 二階までの吹き抜けになった天井は高くドーム状になっており、二階部分の壁には採光のための窓が並んでいる。一階部分の壁には絵画や彫像がびっしりと並べられ、それらは贅沢にも昼間っから灯された香料入り鯨油ロウソクに照らされ、客の目を決して飽きさせない。それら芸術品の数々はキュッテル商会の財力を誇示するとともに、レーマ正教会の教えに則って融和と繁栄を訴えかけるものとなっていた。

 

 しかし、今このホールには融和とは少しばかり相いれない空気が流れ始めている。


「はて、『売り上げが他へ流れる』と申されますと‥‥‥?」


「うむ、其方そなたらがレーマで毛織物を売って利益をあげるのは良い。

 だが、その毛織物の元となる羊毛は我がサウマンディアで出来たものだ。

 サウマンディアの生産者が買いたたかれているとしたら、それは領主として見過ごせるものではない。

 サウマンディアの利益は、サウマンディアに還元してもらわなければな?」


「ふ~む‥‥‥我々は商品を適正価格で仕入れ、適正価格で販売することをモットーとしております。羊毛もまた、適正価格で仕入れさせていただいておると自負しております。」


 オイゲン・キュッテルは何を言われているのか身に覚えがないと言った様子で、だが決して相手をバカにする風ではなく慎重に言った。


「キュッテル殿、閣下は貴殿がアルビオンニアへ持ち出そうとしている大量の貨幣について言っておられるのだ。」


 サウマンディアの財務官クアエストルティベリウス・マエキリウス・ノウァートゥスが鼻先に持ってきた茶碗ポクルムから立ち昇る香茶の香りを楽しみながら、小唄でも口遊くちずさむ様に言うと、オイゲンはようやく思い当たったという様子で「ああ」と小さく言った。


「一千万セステルティウス‥‥‥其方らが近頃かき集めていた途方もない量の貨幣だ。

 貿易は信用取引が基本なのだろう?

 いったい何故それほどの貨幣を送らねばならん?」


 国や属州の外へ貨幣を持ち出す際は許認可が必要になる。その地域で出回る貨幣の量が増えたり減ったりすれば、インフレやデフレが起こってその地域の経済が安定しなくなってしまうからだ。貿易が信用取引で行われ、年に一度決済する際にのみ現金で帳尻を合わせるのは、そうした手続きを簡略化するためでもあった。取引ごとにイチイチ大量の貨幣を持ち出していたらその度に貨幣持ち出しの許認可を得る手続きをせねばならず、そして貴族社会・封建社会ではその度に相応のを払わねばならなくなるからだ。

 オイゲンは今回、一千万セステルティウス分の大量の貨幣をアルビオンニアへ送るための許認可を申請していた。プブリウスはそれをとがめていたのである。


「セステルティウス黄銅貨が六百万枚、他にアス青銅貨とセミス銅貨が三百万枚にトリエンス銅貨が百五十万枚……そしてセステルティウス銀貨が二百万枚だ。

 よくそこまで集めたものだ。

 そこまでの量、ブッカの貨物船クナール一隻では運びきれまい?」


 プブリウスが呆れたように言うとオイゲンはフフフと笑いをかみ殺すように答えた。


貨物船クナールでは五~六隻に分けねばならぬでしょうな。」


 合計千五百五十万枚の貨幣は収納・運搬するための木箱の重さも含めればざっと千七百タラント(五十トン弱)にも達してしまう。ブッカたちが使う標準的な大きさの貨物船クナールの積載量がだいたい三百五十タラント(約十・二トン)ほとなので、最低でも五隻に分けないと運べない。もっと大きい船に乗せれば一隻でも余裕で運べるのだが、大金の送り先は言うまでもなくアルトリウシアである。そしてアルトリウシアの表玄関とも言えるセーヘイムの港には浅いアルトリウシア湾の奥にあるため、喫水の浅い船しか入れない。千七百タラントもの貨物を一度に運べるだけの大きさの船となると、セーヘイムまではとてもではないが入ってはいけないのだ。


「いったい何を買うのです?

 普段なら信用取引で済ませる商人がそれだけの大金を動かさねばならない必要があるとは思えませんが……」


 ティベリウスが質問するとオイゲンはかぶりを振った。


「いえいえ、買うのではありません。貸し付けるのです。」


「誰にだね?」


「弟のグスタフ・キュッテルにですよ。最終的にはアルビオンニア侯爵夫人にお貸しすることになります。」


 オイゲンは背中を背もたれに預けるように上体をわずかに反らせた。それに対しティベリウスが挑みかかるように上体を前のめりにしてオイゲンの顔を覗き込むように問いかける。


「先月も一千万セステルティウスの貨幣を送っていたであろう?」


「はい、ハン支援軍アウクシリア・ハン叛乱の被害に見舞われたアルトリウシアの復興に、我がキュッテル商会としても微力ながらご支援申し上げたいと存じまして。」


「ふむ、見上げた心がけだ。」


 プブリウスが本気とも冗談ともつかぬ感想を口にすると、オイゲンは小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。ティベリウスはプブリウスをチラリと一瞥しながらも、質問を続ける。


「今回はその追加ということか?

 まさかこれから毎月一千万セステルティウス送り続けるつもりではなかろうな?」


「さすがに毎月これほどの大金を送り続けるほどの財力はありません。

 ですが、此度はグスタフめにどうしてもと頼まれましてな。」


「カワイイ弟や妹のためということかね?

 商人がそれほど人情に脆くては商売でやってはいけまい?」


 これにはさすがのオイゲンもハッハッハと笑った。


「確かにアルビオン公爵夫人は血を分けた妹、その御用商人であるグスタフも弟です。ですが、さすがにそれだけを理由にこれほどの大金は動かせません。」


「利益を回収できる……そういうことかね?」


 背後に立つ使用人に飲み干して空になった茶碗ポクルムかざし、無言で香茶のお代わりを催促するプブリウスの気のない質問に、オイゲンは自信を滲ませながら首肯しゅこうした。


「もちろんでございます。」


 空の茶碗ポクルムが下げられ、代わりにれたての香茶で満たされた新しい茶碗ポクルムが差し出されるのを目で追いながらプブリウスは続けて問いかける。


「分からんな。アルビオンニアの財政は最早破綻寸前だ。

 これまでに送ったのは一千万セステルティウスの貨幣ばかりではあるまいに、そこへ更に一千万セステルティウスを貸し付けても、回収できるまでに十年以上はかかるだろう。

 既に実の妹が属州女領主ドミナ・プロウィンキアエとなり、世継ぎもその息子で確定しておる。アルビオンニアにこれ以上つぎ込んでも、絞れるものはないのではないか?」


「それは伯爵閣下とて同じことでございましょう?

 アルビオンニア侯にはこれまでも一方ひとかたならぬご支援をなされ、此度もまたサウマンディアの財政が傾くのもいとうことなく、あつきご支援をなさっておいでです。」


 プブリウスが新しい茶碗ポクルムを口元へ運ぶのを目で追いながらオイゲンは微笑んだ。


「無論だ。私も彼女と同じ属州領主ドミヌス・プロウィンキアエで、帝国の安定のために務めを果たさねばならぬ。

 それに、先代のアルビオンニア侯と私は親友でもあったしな。」


「存じておりますとも。

 閣下と先代アルビオンニア侯はレーマ留学では机を並べた仲だったと伺っております。そして、閣下もご存じのようにそれはグスタフも同じ。」


 フッフッフと二人は肩を揺らして笑った。

 今は亡き先代のアルビオンニア侯爵マクシミリアンとプブリウスは同い年であり、レーマ留学では同じ南部の上級貴族パトリキ出身の同級生として親交を深めた仲だった。グスタフ・キュッテルも時を同じくして留学しており、サウマンディア商人の息子である彼は自分の属州の領主の息子であるプブリウスの傍に常にはべっていた。後にエルネスティーネがマクシミリアンに嫁ぐのは、実はこの時の縁が関係している。

 ひとしきり笑い、香茶を一口すするとプブリウスは話を再開した。


「私が援助をしているのを知っておるならば、其方が金を貸さずともアルビオンニア侯爵家が倒れることなど無いであろうことぐらいわかるであろう?

 そして、いくら回収の見込みがあるとしても、あえて不要な金を貸す必要もない。

 却って侯爵家の負担が増えるだけだ。

 なのに何故、一千万セステルティウスもの貨幣を送る?

 貨幣ではなく、何か物を買って送ってやる方が良いのではないか?」


「閣下の御支援はアルビオンニア侯爵夫人の兄として、その御用商人であるグスタフ・キュッテルの兄として、そしてアルビオンニア軍団軍団長レガトゥス・レギオニス・アルビオンニアアロイス・キュッテルの兄として、謹んで感謝申し上げます。

 ですが、今不足しているのは貨幣であり、遅滞なく送ってやる必要があるのです。」

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