サウマンディアの動揺

第618話 イェルナク一家の朝食

統一歴九十九年五月七日、朝 - サウマンディア迎賓館ホスピティウム・サウマンディア/サウマンディウム



「それではまだエッケの本営には戻れないのですか?」


 今日はもう一度プブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵に御目通り願う……そう言ったイェルナクに妻ローランはどこか悲しくすがりつくように言った。幼い子を連れ、エッケ島のハン支援軍アウクシリア・ハンの本営から遠く離れ、このような敵地に身を置くことに、ローランは心細い思いをしていたのだ。

 しかし、愛妻の不安に気づく様子も無く、イェルナクはガツガツと食卓に出された朝食を口に入れながら意気込む。


「うむ、ここが正念場なのだ。

 伯爵に何としても御目通りし、メルクリウス団の陰謀を認めていただかねば、我らハン族の未来はない。」


 昨日、多数の捕虜を連れてアルビオンニウムからサウマンディウムへ戻ってきたイェルナクは、しかしプブリウスに面会することは叶わなかった。


 イェルナクはアルビオンニウムで捕らえた多数の捕虜と、捕虜から聞き出した(正確には誘導して言わせた)証言をもとに、今回の盗賊団の背後にメルクリウス団が存在することを示す資料を。これを基にプブリウスをもう一度説得し、先月のハン支援軍の蜂起が叛乱ではなく、メルクリウス団の陰謀によるものだ認めてもらわねばならない。それが叶えばハン支援軍はレーマ帝国内で存続する可能性が出て来る。そのためにはイェルナクはどんなことでもするつもりだった。

 だが、昨夜はプブリウスに会えなかった。


「イェルナク殿、その薄汚い盗賊どもを伯爵の住まう『青山邸』ヴィラ・カエルレウス・モンテスに連れて行くことなど出来ぬ。

 あそこは捕虜を収容するような場所ではありませんからな。

 捕虜たちはサウマンディウム要塞カストルム・サウマンディウムへ連れて行くがよろしかろう。捕虜を収容するよう、要塞司令プラエフェクトゥス・カストロルムに指示を出しておきます。

 イェルナク殿が捕虜を要塞カストルムへ連れて行っている間に、私は一足先に『青山邸』へ行って伯爵に報告しておきましょう。」


 イェルナクと同じ船でサウマンディウムへ戻ったサウマンディア軍団レギオー・サウマンディア軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムマルクス・ウァレリウス・カストゥスはサウマンディウムに到着するなりそう言った。プブリウスの家臣であるマルクスにそのように言われては、イェルナクとしては嫌も応もない。マルクスから要塞司令宛の指示書を書いてもらい、捕虜たちを引き連れて要塞へ向かった。そこで指示書の書式がどうのこうのと難癖をつけられ、散々時間を潰されてやっと捕虜を引き渡した時には既に陽は稜線りょうせんの彼方へ消えようとしていた。

 イェルナクは急いで『青山邸』へ向かおうとしたが馬車を貸してもらえず、仕方なくゴブリン兵に当たり散らしながら自らの足で要塞を飛び出した。しかし普段から運動などロクにしていないイェルナクに要塞から『青山邸』まで走るような体力などあるわけも無く、港町に入る前にへばってしまう。そこからゴブリン兵に乗り物を探させ、近くの商店の店主から脅すようにしてやっと借りた座與セッラに乗って『青山邸』へたどり着いた時には陽はとっくに暮れていた。月と星の支配する夜空の下、青く冷たい光を放つ『青山邸』の門扉もんぴはイェルナクの目の前で閉ざされたまま開かれることは無かった。


「伯爵は只今、大変重要なお客様との酒宴コミッサーティオに興じられておられます。

 せっかくのお越しですが、本日は伯爵はイェルナク様とはお会いになりません。

 イェルナク様の御用件はウァレリウス・カストゥスマルクス様より御報告がなされ、に改めて参られるよう仰せでございます。」


 門扉越しに伯爵家の家令は慇懃いんぎんにそう言い、イェルナクを門前に残したまま引っ込んでしまった。軍使レガトゥス・ミリトムである自分に会おうとしないなどイェルナクとしては到底看過できるものではなかったが、しかし何としても伯爵に取り入らねばならないのに伯爵に悪い印象を持たれる行動をとるわけにもいかず、イェルナクはほぞを噛みながら引き下がったのだった。


 だが今日こそは、今日こそはプブリウスに面会し、捕虜の証言を集めた調書を見せてプブリウスにメルクリウス団の陰謀を認めさせてやる。そのためにもイェルナクは精を付けるべく、目の前の料理を胃袋に流し込んだ。

 その様子をローランはどこか悲し気な目で見つめ、切なげに溜息をつく。


「殿、もう少し落ち着いてお召し上がりなさいませ。

 そのように飲み込まれては御身体に障りましょう。」


 ローランの様子にイェルナクはようやく気付くと、口に入っていた物を羊乳で流し込んだ。いつの間にか周りが見えなくなっていたかもしれない。


「んん?……んむ、そうかもしれんな。

 つい気が急いていたやもしれん。

 いや、其方そなたの言う通りだ。」


「いえ、出過ぎたことを申しました。どうかお許しください。」


 ハン族は本当はレーマ帝国以上の男尊女卑だんそんじょひ社会である。王族の娘として育てられたローランにとってもそれは魂にまで刷り込まれた価値基準であり、ただでさえ一回り以上も歳の離れた夫に対し、差し出口を叩いたことを本気で反省していた。

 身を縮こませる愛妻にイェルナクは食べるのをやめ、慌てて口元をぬぐうと椅子から尻をはみ出させるように身体を乗り出して上体を寄せる。


「いや、出過ぎたことではないぞ。其方の気遣いが無ければ、私は私を見失っていたかもしれん。礼を言う。」


「礼などと、勿体もったいのうございます。」


「勿体ないことなどあるものか。其方はよくできた妻だ。

 さ、其方らもたんと食べるがよい。」


 しかしローランは頬を染めて微笑みはするものの食指を伸ばそうとはしない。


「んん?

 さあどうした、ここの料理はエッケ島では口にできん物ばかりだぞ?

 イルテベル、食べておるか?」


「んっ、んっ、あい、父上ひちうえ


 イェルナクの息子イルテベルは両手に料理を鷲掴みにし、口元も溢れ出た料理で汚し、意地汚くむさぼり食っていた。その様子はまるで野獣である。イェルナクの方ばかりを気にしてそれまで息子の方に気が向いていなかったローランは驚き、だが優しく叱りつける。


「まあ、イルテベル!

 ちゃんと品よく食べねば、恥ずかしいですよ。」


 だが、息子の健啖ぶりを喜ぶイェルナクはローランの方をなだめた。


「良いではないか、腹いっぱい食うが良い。

 さあローラン、其方も食べるのだ。毒など入ってはおらんぞ?」


「ですが殿……」


 ローランは自分の前に出された朝食にほとんど手を付けていなかった。その上、イェルナクにこうも勧められてもなお手を出すことをためらっている。


「どうした、口に合わないか?」


「いえ、大層なごちそうです。ですが……」


「何だ?」


「エッケ島の本営では皆様粗末な物を召し上がっておられるのに、私たちだけこのような贅沢を……」


 イェルナクはローランが朝食を遠慮している理由を知って驚き、上体を起こした。


「それは違うぞローラン」


 ローランは自分がまた間違ったことを言ったのではないかと恐れ、イェルナクを見上げる。


「聞くのだローラン。

 確かにエッケ島ではムズク様をはじめ皆が粗末な食事に堪えておる。

 だが、だからといって我らがここで遠慮して何になろうか?

 我らはここで働き、我らが同胞はらからがこういう贅沢な食事を摂れるようにしてやらねばならんのだ。だが、腹が減っていては頭は回らんし力も出ん。いざと言う時にそれでは、事を仕損じてしまうやもしれん。

 それではならんのだ。

 我らはハン族の命運を背負ってここに来ておる。

 我らが仕損じれば、ハン族は滅びの道を歩むのみなのだ。

 それは絶対避けねばならん!

 食べられるときに食べられるだけ食べて力を付けるのだ。

 今は、食べることが戦いなのだぞ。」


 イェルナクがローランの肩に手を置いてそう言うと、ローランはようやく理解したようだった。


「そ、そうでしょうか……」


「そうだとも、おそらくいつか其方らも伯爵閣下にお目見えする機会もあろう。

 レーマの貴族にはそういう習慣があるのだ。

 その時に其方らが痩せ細っておっては、伯爵閣下に軽んじられよう。

 心身ともに意気軒昂いきけんこうであることを見せねば、交渉で不利になるやもしれん。

 エッケ島の王族たちにはちゃんと食料も買って帰るから心配せんで良い。

 だから今は、其方も食べるのだ。」


 イェルナクに力強く説得され、ローランはようやく「はい」と小さく頷いた。

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