第614話 キンナの依頼
統一歴九十九年五月六日、夕 - アンブースティア・ティグリス邸/アルトリウシア
「へぇ、俺の昔の
ティグリスは目の前で香茶を
アルトリウシアの新興集落の一つアンブースティア地区。そこを建設し、今も治めている
同じアルビオンニウムの暗黒街出身であっても、メルヒオールが両親の顔も名前も知らない孤児として生まれ育ち、個人の力で頭角を現して立身出世していったのに対し、ティグリスの方は祖父の代からのギャングだった。いわば暗黒街のサラブレッドである。
ティグリスの祖父は若い頃は
その後、脱出して南蛮からアルビオンニウムへ逃げ帰ることに成功する。ティグリスが後に聞いた話によると、脱走兵と
ティグリスの祖父は鉱山から脱走する際にいくばくかの宝石を持ち出していた。働いていたのは銅鉱山だったのだが、掘り出される鉱石の中にトパーズや蛍石などの宝石が混ざっていることがよくあり、それを見つけては気づかれないようくすねて貯めていたのだ。それらを元手に商人となったのだが、元々軍人だっただけあって商売はどうもうまく行かなかったらしく、せっかく持ち帰った宝石で稼いだ金は二年と経たずに底をついてしまう。そこで始めたのが南蛮との密貿易だった。
南蛮人は米を神聖な穀物として珍重しているが、アルビオンニアはもちろん、それより南の南蛮の地では寒冷すぎて米があまり育たない。そこで、チューアから米を取り寄せて南蛮に持ち込み、かつて自分が働かされていた銅鉱山の南蛮人から宝石などを買い取るようになったのだ。
その密貿易は図に当たり、莫大な利益を生み出した。莫大な利益を生みはするのだが、同時に非常に高いリスクも伴った。何せ、レーマ帝国の敵である南蛮人との密貿易である。南蛮側にとってもレーマ帝国側にとっても重罪だ。途中には山賊もいるし、両軍の警備の目をかいくぐり、山越え谷越え裏街道を歩いて渡らねばならないのである。それでもティグリスの祖父は軍人や役人に袖の下を渡し、山賊を
それは銅鉱山のある地域がレーマ軍によって攻略され、クプファーハーフェンと名を変えるまで続けられたわけだが、気づけばティグリスの祖父はかなり大規模な密輸団をつくりあげていた。一応、表の商売もしており中堅の卸売業者といったところだったが、裏稼業ではアルビオンニウムの一角を占めるまでに至っている。
その組織はやがてティグリスの父に引き継がれ、そしてティグリスへと引き継がれた。あいにくとアルビオンニウムはフライターク山噴火によって壊滅に近い被害を被り、アルビオンニウムに残していた組織もほぼ消滅してしまったが、アルビオンニウムからクプファーハーフェンに至る地域には、かつてティグリスの傘下にあった組織が今でも点在している。もちろん、かつて手を染めていた密貿易は出来なくなっているし、ティグリスもアルトリウシアで
「お前さんに頼まれちゃ無下にはしねぇがよ。
俺の昔の伝手って
お前さんの領分じゃないんじゃないのかい?」
ティグリスの昔の伝手とはかつての密輸団のことに違いない。そして、元・密輸団たちは今のブルグトアドルフからシュバルツゼーブルグを経てクプファーハーフェンに至る地域に点在している。だが、いずれもアルトリウシア子爵領の外であり、彼らが何かしでかしたとしてもアグリッパが所管する筈は無かった。
片眉をあげて
「ええ、もちろんです。
ですが、これから関係してきそうなのです。」
「これから?
例の、シュバルツゼーブルグ周辺の盗賊どもを
「さすがはアンブーストゥス卿、御存知でしたか?」
シュバルツゼーブルグにはティグリスの息のかかった商人たち、すなわち、かつての密輸団が数多く残っている。彼らは商人という表の顔を持っているが、裏では相変わらず何らかの稼業を行っており、それなりに連帯を保っていた。当然、シュバルツゼーブルグ周辺で起きている異変についてはティグリスの耳にも届いている。
「聞いてるぜ。
なんか、訳の分かんねぇのがシュバルツゼーブルグ周辺の盗賊どもを襲っては手下に加えているらしいな。もう頭数三百ぐれぇにはなるんじゃねぇかって話だ。
今んところ目立った被害は出てねぇが、シュバルツゼーブルグ卿も手が出ねぇみてぇだし、いずれ何とかしなきゃいけねぇんじゃねぇかってよ。アッチの連中も警戒しているみてぇだ。
そいつがこっちに来るってのか?
もうすぐ冬だぜ?」
今は五月上旬、あと半月もすればライムント地方とアルトリウシアを隔てる
そうなってからでは盗賊団でも豪雪の峠を越えてアルトリウシアへ来ることなど出来ないし、そうなる前にアルトリウシアへ来れば今度はライムントへ逃げ帰れなくなる。盗賊団なんてものは地元の地の利を活かすからこそ、役人や軍隊から逃げ回ることができるのだ。地の利のないアルトリウシアへ来れば、しかも地元へ戻る道が雪で閉ざされてしまえば、あっという間に一網打尽にされてしまうのがオチだろう。
「盗賊団などはどうでもいいのです。
彼らは既にほぼ壊滅しました。」
「壊滅した!?」
アグリッパの話に驚き、ティグリスは椅子から飛び起きるように身を乗り出した。
「ええ……ほら、ちょうどルク……スパルタカシア様の御一行がアルビオンニウムへお向かいになられておられましたでしょう?」
「おう、まさかスパルタカシア様を襲ったってのかい!?」
「いえ、そう言うわけではありませんが……詳しいことはまだ申せませんが、護衛の
なんでも死者と捕虜とで二百を超え、生き残っているのは数十程度だろうとのこと。」
「そいつぁいつの話だい?」
「今日、届いた最新の情報です。」
「へぇ~~」
ティグリスは前のめりにしていた身体を起こし、感嘆の声を漏らした。
「てこたぁ、話ってのは盗賊団とは関係ないのかい?」
三百人に膨れ上がっていた盗賊団……それはシュバルツゼーブルグ周辺の脅威となっていた。アグリッパの言い様ではそれが関係していそうな話だったのだが、肝心の盗賊団が軍隊とぶつかって壊滅したというのであれば最早脅威なわけがない。
「関係ないと言えば関係ないし、関係あると言えば関係あるし……」
「何だいそりゃ?
「ええ、盗賊団はどうでもいいのですが、盗賊団を率いていた連中……そいつらの背後を洗いたいのですよ。」
「背後だと?
盗賊団を率いていた連中じゃなくて?」
「それはある程度正体に目星がついておりましてね。」
「へぇっ!?いったい何者だい?」
「具体的には……ただ、貴い血筋の家出息子とだけ言っておきましょう。」
「ふぅ~ん……」
ティグリスは顔を
ティグリスのようなヤクザ者にとって他人の揉め事や醜聞は本来なら飯のタネになるものなのだが、相手が自分より力が無いからこそ飯のタネになるのだ。相手が自分より絶対的強者であり、事件をもみ消すだけの実力を持った貴族なら飯のタネどころの話ではない。関わらない方が良いのだ。
おそらく、どこぞの貴族の生まれながら、家を継げずに追い出されたか家出したかした者が、たまたまライムントまできて“武者修行”でもしているのだろう。そういうのは割とどこでもあることだった。犯罪者として討ち取るのはともかく、貴族の家の名が出ては困る。名前が出ないように片付けねばならない。うっかり名前が出たりすると、もみ消しのために口封じされかねないからだ。力のある貴族なら相手が一地方の郷士が相手でもそれくらい平気でやる。この一帯でも最有力の
「で、その家出息子ってのがどうでもいいってのはわかった。
その背後を洗えってのは?」
「ええ、いくら盗賊とはいえ三百もの集団がまとまって動くとなれば、当然補給の問題が出てきます。」
「盗賊なんだからどっかで奪って来たんじゃねぇのか?」
「私もそうかとは思いましたが、しかしシュバルツゼーブルグの周辺でそれほど大規模な食糧の収奪があったという話はありません。」
「つまり、誰かが盗賊三百人の食い
「ええ、シュバルツゼーブルグでか、あるいは他の街で買うかして、盗賊団の下へ運びこんだ者がいるはずなのです。」
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