第613話 ティグリス邸の来客

統一歴九十九年五月六日、夕 - アンブースティア・ティグリス邸/アルトリウシア



 日中、一時は束の間の晴れ間を覗かせる程度に薄くなった雲は午後になると再び厚く、そして重く垂れこめ始め、陽はまだ水平線の上にあるはずだが辺りは急速に暗くなり始めていた。


 電気という文明的な灯りのない世界において、人工的な灯りは基本的に火のみである。もちろん人為的に灯される火にはそれなりにコストがかかるものであるから、経済的に裕福ではない平民プレブスたちの生活は日の出とともに始まり、日の出とともに終わるような自然任せのスタイルにならざるを得ない。夕食ケーナは日没前に済ませ、日の入りと共に寝床に就くのが堅気かたぎの生活というものだ。

 しかし秋は、特に晩秋ともなるとそう単純な話にはならない。日中時間はどんどん短くなるが、人々の生活リズムには夏の感覚がまだ残っており、食事を摂って寝床に就くと言う生活サイクルは太陽のリズムよりも遅くなりがちである。ましてや緯度の高いアルビオンニアでは真冬になると日中時間が夜の半分くらいにまで短くなってしまうのだ。

 そういうわけで、街の辻々には贅沢なことに早くも明かりがチラホラと灯されている。ただでさえ日の入りの時間がどんどん短くなって生活リズムが追い付いて行かないのに、今日は天候のせいで日没前に暗くなり始めてしまったからだ。夕食をまだ摂っていない者たちのために営業を続けている居酒屋タベルナ食堂バールが本格的に暗くなる前に店の前に松明たいまつやらランタンやらを灯し、客を呼び込みやすくするのは当たり前の営業努力の一つである。


 まだ足元が見えなくなるほどではないが、物陰に立つ人の顔が暗くて見分けがつかなくなる程度の明るさは、馬車で軽快に進むには少しばかり心もとない。そもそも、さほど広くない通りは馬車が通るには人通りが多すぎた。

 貴族ノビリタスは普通、馬車に乗っていようが臥與レクティカに乗っていようが自分の脚で歩いていようが、街を行く際は自分の前に名告げ人ノーメンクラートルを走らせ、周囲に取り巻きラウディケーヌスはべらせ、とにかく目立とうとするものなのだが、あいにくと今この街を進む馬車は明らかに下級貴族ノビレス用の馬車であるにも拘らず名告げ人ノーメンクラートルも走らせず取り巻きラウディケーヌスも引き連れていなかった。おかげで道行く人々は馬車がすぐ近くに来るまでそれが貴族の馬車と気づかず、かれる寸前になって慌てて避けるという有様で、馬車の方も思うように速度を出せずにいる。

 このある意味失礼な、レーマの文化的常識からすると粗暴と言って良いこの馬車はやがて高級住宅街へと入って行き、そして一軒の立派な屋敷ドムスの前にきてようやく停車した。


 ヨルク川とウオレヴィ川に挟まれたアンブースティア地区を治める郷士ドゥーチェティグリス・アンブーストゥスの住まう屋敷は、アンブースティアの中心を占める下級貴族ノビレスや商人たちが数多く住む高級住宅街のど真ん中にありながら、決して周囲に埋没することなくなおも威容を誇る立派な建物であった。大きさもさることながら壁の造りも立派で、玄関オスティウムに至ってはまるで神殿テンプルムのようである。

 通常、レーマの下級貴族ノビレスたちは屋敷ドムスの通りに面している玄関以外の部分には小さな店舗スペースを設け、居酒屋タベルナ軽食堂バールを営業させて家賃収入を得るようにするものなのだが、ティグリスの屋敷にはそういった店舗スペースは設けられておらず、何もない壁だけになっている。そのため人々はそこがティグリスの屋敷だとすぐに見分けることが出来るのも、ティグリスの屋敷が特別な存在感を放つ大きな理由にもなっている。


 その屋敷の前に馬車が停まると嫌でも目立つ。あらかじ先触れプラエクルソルによって来訪を予告されていたのであろう、馬車が停まると即座に中から使用人たちが出てきて門扉もんぴを開き、馬車からサッ降りと立った客人を迎え入れた。

 こういう場面で普通なら名告げ人ノーメンクラートルが誰が来たかを声高に吹聴するものだが、やはり名告げ人ノーメンクラートルはおろか周囲の誰も馬車から降りた者の名を告げる者は居ない。だが、周囲でたまたまその様子を目撃した人たちはそれが誰なのか、教えられるでもなく知っていた。アルトリウシアの街をそのように移動する下級貴族ノビレスは一人しかいないからだ。すなわち、子爵家の法務官プラエトルアグリッパ・アルビニウス・キンナである。


「おう、良く来たなぁ!

 歓迎するぜ、アルビニウス・キンナ卿?」


「急に押し掛けたにも拘わらず目通りをお許しいただきありがとうございます、アンブーストゥス卿」


 ティグリス御自慢の屋敷の中心にあるティグリス御自慢の執務室タブリヌムへ通されたアグリッパは迎え入れてくれたティグリスに慇懃いんぎんに挨拶を返し、礼を述べた。


「なに、良いって事よ。

 アルトリウシアの治安を預かる法務官様プラエトルが会いてぇっつうんだ。郷士としちゃ会わねぇわけにゃいくめえよ。

 まあ、掛けろぃ。話を聞こうじゃねぇか?

 何なら、晩餐ケーナも食っていくかい?」


 笑いながらティグリスはアグリッパに椅子を指し示し、座るように促すと自分は執務室の真ん中に鎮座する豪華な肘掛け椅子にドスンと腰を下ろした。アグリッパはティグリスが話している途中ではあったが、「では失礼します」と小さく礼を言いながら腰を掛ける。


「いや結構!この後行かねばならないところがありますので。

 そう言えば、御夕食の邪魔をしてしまいましたかな?」


「いやまだだ。招待していた客人が遅れていてな。

 おい、お茶だ!客人と俺の分を用意しろ!」


 もしアグリッパが夕食への誘いに乗るようならと思ってティグリスはお茶を用意させていなかったのだが、アグリッパが断ったので使用人にお茶を用意するよう命じる。


「ほう、客人……

 アンブーストゥス卿に招待されながら遅参するとは、いずこの貴族ノビリタスですかな?」


 この世界ヴァーチャリアには時計はほとんど普及していない。このため、この世界の人間には時間にはかなりルーズだ。だがそうだとしても、既に時刻は日没に近くなっており、辺りは暗くなっている。まともな堅気な生活をしている者たちなら夕食をとっくに食べ終えていて良いはずの時間。だというのに、貴族ノビリタスの……それもアンブースティアを治める郷士ティグリスの招待を受けながらいまだに来ていないとすれば、それはかなり無礼な事である。

 しかし、ティグリスの様子からは怒っている様子はない。招待した相手が自分より格上の人物なのかもしれないが、アグリッパの知る限り今アルトリウシアにいる上級貴族パトリキがティグリスを訪れるような予定など無いはずだった。

 いぶかしみ、探るようなアグリッパの様子にティグリスは笑って答える。


「ああ?

 ハッハァーッ、お前さんもよくご存じの人物だ。

 アヴァロニウス・マローとヘレンニウス・ネポースだ。」


「スタティウス・アヴァロニウス・マローとクラウディウス・ヘレンニウス・ネポース?

 陣営隊長プラエフェクトゥス・カストロルムと、たしか第三大隊コホルス・テルティア大隊長ピルス・プリオルでしたか?」


 ティグリスの教えた名前は彼の言うようにアグリッパも良く知る人物だった。そして、その名を聞いた途端に客人が遅れている理由も察しがついた。二人とも今日の昼まで、マニウス要塞カストルム・マニでエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人やアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子列席の会議に、アグリッパと共に出席していたからだ。

 二人よりもアグリッパが早く到着したのは、アグリッパが陣営本部プラエトーリウムで行われたバウムクーヘン・パーティーが終わるのと同時にこちらへ急行していたからに過ぎない。これに対して二人はパーティーの後、要塞カストルム内で少し残務を整理していたはずだった。


「おうよ!

 アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの先代筆頭百人隊長プリムス・ピルス様と、マニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニでダイアウルフどもを蹴散らした英雄様よ。

 特にヘレンニウスの方とは、これから仲良くしなきゃいけねぇからよ?」


 陣営隊長のスタティウスは急遽きゅうきょかき集めた老兵エウォカトゥスたちで編成された部隊を率いてアンブースティアの復興作業を指揮していた。クラウディウスも彼の大隊コホルスごと、新たにそこに加わることになっている。

 クラウディウスは元々第三大隊を率いて西山地ヴェストリヒバーグで上水道建設工事に従事していたのだが、雪が降る前に山を下りて冬を越すためにアンブースティアに部隊ごと引っ越してくることになったのだ。彼の大隊の軍団兵レギオナリウスマニウス要塞カストルム・マニ内に兵舎があるのだが、上水道建設工事に従事していたのは軍団兵ばかりではない。民間の作業員が大部分であり、その家族や彼らを相手に商売するために工事現場に店を構えていた商人なども含めると、三万人近い人たちが雪を避けて山を下りて来なければならないにもかかわらず、今のアルトリウシアには彼らを収容する家屋が無い。それで、ハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱の際に焼野原になった貧民街に、彼らを収容するための家屋を急造しようという話になったのである。


 ティグリスからすればホクホクだった。

 今回の戦乱で焼き払われたのはバラックだらけの貧民街だけだったが、そのまま片付けてティトゥス要塞カストルム・ティティに収容されている避難民を呼び戻したところで、また無秩序なバラックだらけの貧民街が出来上がってしまうだけである。治安は悪くなるし、衛生環境も最悪で悪臭や疫病の原因にもなるのだ。

 それが現在上水道工事のために山に入ってる三万人分もの家屋を建設してくれるというのである。それも子爵家の金でだ。


 領主様が金を出してティグリスの治める地区に新たに街を作ってくれる‥‥‥これであの忌々しい貧民街がまたできてしまう事を防ぐことができるうえ、自分の地区の人口が一挙に増えるのである。半分はアイゼンファウストの方へ引っ越すそうだが、それでも一万五千人近い人口増だ。それも貧民ではなく、ちゃんと仕事と収入を約束された工事関係者なのだから文句のつけようもない。


「ああ、なるほど。」


 アグリッパは即座に理解し、苦笑した。

 ティグリスがクラウディウスを接待し、是非親密になって良い街を作ってもらいたいと思うのも当然であろう。

 ティグリスは使用人から差し出されたれたて香茶を手に取った。


「さっき先触れプラエクルソルが来て二人とも遅れるってしらされたがな。

 なに、お前さんと話をする時間が出来て好都合ってもんよ。

 さ、わざわざ忙しい中を来たんだ、用があるんだろう?

 聞こうじゃねぇか」


 ティグリスに本題に入るように促されたアグリッパも、香茶の茶碗ポクルムを手に取る。


「いやなに、少しアンブーストゥス卿の昔の伝手つてを頼らせてもらおうかと思いましてね。」

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