舞台裏の蠢動
第609話 ハン族の狙い
統一歴九十九年五月六日、午前 - 《
夜明けとともに降り始め、煙るように世界を覆いつくしていた霧雨が止んでも空気はまだ冷たく濡れ、どこか纏わりつくように全身の体毛を重く湿らせている。陽はとっくに昇っているが、重く雲の立ち込めた空に日輪の輝きは無く、辺りが明るくなった今もくっきりと影を際立たせることなく、どこか景色をボンヤリとぼやけたものにしていた。それは朝から集まっていたリクハルドヘイムの
席上、ラウリからは先日、
要旨としてはヤルマリ橋建設資材盗難の
ヤルマリ橋建設資材が盗まれた件は、ヤルマリ橋再建を遅らせたいリクハルドによる自作自演である。だから捜査などする必要も無く、下手人もとっくに準備できているため、議題としてはサラッと流された。問題は次の話題である。
「でぇっ、てことはハン族の奴ら、今更オレッちに
リクハルドは詰まらなそうに鼻を鳴らしながら言うと、手を伸ばして脇に置いてあった煙草盆を引き寄せた。キセルを取り出し、刻み煙草をモゾモゾと詰め始める。
「相手がカシラだとまでは…ですが、キンナの旦那はそう睨んでいるようです。」
ラウリが言うとリクハルドはフーッと鼻息を吐きながら、煙草を詰めたキセルを口に咥え、火鉢の炭火で煙草に火を点ける。
アルトリウシア平野で遠吠えを繰り返すダイアウルフ……あれは
ハン族が接触しようとしている相手…もしもそんな相手がいるとすれば、それはリクハルドに間違いなかった。
「ブフーーーッ……
奴ら、今更オレッちにいってぇ何の用があるってぇんだ?」
天井に向かって盛大に煙を吹き出し、面倒くさそうに顔を
「そりゃあ、また仲を取り持ってほしいってこっちゃねぇっすかね?」
「バカ言え!
冗談じゃねぇや!
あれだけ気持ちよく暴れておいて、今更こっちに戻って来たいってぇのか?」
たしかにリクハルドはハン族に色々と便宜を図ってきたが、それは彼らや彼らの起こす面倒ごとが自分たちにとって利用できると思ったからだ。実際、リクハルドはハン族とレーマ貴族やアルトリウシア住民らとの問題を解決していくことで、方々に貸しを作り、また多少の利益をあげることにも成功している。ヤクザ者にとって揉め事は小遣い稼ぎの良い機会なのだ。
ただ、レーマ貴族やアルトリウシア住民たちもハン族との付き合い方を覚えて来ると、リクハルドが乗り出さねばならない類の面倒ごとは少なくなってくる。レーマ貴族やアルトリウシア住民に貸しを作る機会や小遣いを稼ぐ機会は減っているのに、ハン族の起こす面倒ごとは一向に減らない。理由はアルビオンニウムからの避難民だ。
フライターク山が噴火し、アルビオンニウムの放棄が決まってから大量の避難民がアルトリウシアに流れ込んできた。彼らの中にはハン族との付き合い方の分からない者が多く、また他所から逃げて来た避難民という弱者である彼らをハン族は見下して接することが多かった。結果、ハン族と避難民の間で揉め事が頻発するようになったのである。
だが、避難民とハン族の揉め事はハッキリ言って金にならない。揉め事が金になるのは、揉め事を解決することでそれなりの謝礼を貰えるからだ。しかし金を持っている避難民は
貧乏人のトラブルを解決しても謝礼などとれないし、得る物は何もない。骨折り損のくたびれ儲けだ。そんな金にもならない面倒ごとを増やされてはたまったものではない。そこでリクハルドは根本的に問題を解消することにした。ハン支援軍にアルトリウシアから御退場願う事にしたのだ。
数万にも達する貧民街の住民の方に退場してもらうわけにはいかないが、ハン族は数百人しかいない。その上レーマに異常なほどの不満を抱いている。ハン支援軍が叛乱を起こすのはごく自然な成り行きだったと言って良いだろう。どうせ、リクハルドが背を押さなくても、遅かれ早かれハン支援軍は逃亡か叛乱の道を選んだに違いないのだから。
そしてリクハルドはハン族の王族たちに、メルクリウス対策のためアルトリウシアが軍事的に手薄になる事を教えた。さらに南蛮の地に逃れればレーマ帝国の手は届かないし、誰のものでもない無人の草原が広がっていると吹き込んだのだ。
結果、ハン支援軍はリクハルドの目論見通りに蜂起した。ただ、リクハルドにとって計算違いだったのはハン支援軍を討ち取れなかった事だ。最初の計画では蜂起したハン支援軍をリクハルドが手勢を率いて急襲し、ハン族の王族を自ら討ち取って自身の手柄にする予定だったのに、出撃のタイミングを逸して逆に奇襲を食らったあげく、まんまとハン族を海の向こうへ逃がしてしまった。おまけにそのまま海の彼方でくたばってくれれば面倒がなかったのに、よりにもよってアルトリウシアの玄関先であるエッケ島へ籠られてしまった。
つくづく使えねぇ奴らだぜ……
ハン族の消息を知らされたリクハルドは心底呆れたものだ。そのハン支援軍が今更リクハルドに話を持ち掛けようとしているとしたら、それは笑えない冗談で済ませてもらいたいところであろう。
「まだ、カシラと決まったわけじゃありやせん。
もしかしたら、逃げ遅れた兵士や捕虜を探しているのかも……と、キンナの旦那は言ってやした。」
ラウリが慰めるように言うと、リクハルドは口をすぼませてキセルを吸い、自分で吐き出した煙を煙たがるように顔を
「あのバランベルにか?
それとも、バランベル以外にまだ誰か残ってるってぇのか?」
「そいつぁ何とも……」
リクハルドヘイムの羊飼いファンニによって発見されたハン支援軍の騎兵バランベル、彼が捕虜になっていることはハン支援軍には知られていない筈である。そして、バランベル以外のゴブリン兵がアルトリウシア内に潜んでいる可能性も無いと言っていいだろう。叛乱事件の後、死体捜索と瓦礫の撤去のためにアルトリウシアは一度大掃除されているのだ。おまけに、アルトリウシア平野でダイアウルフが遠吠えを始めたのが捕虜の捜索だというのなら、とっくに捕虜の側からセヴェリ川を渡るなどの反応が無ければおかしい。
やはり、もしもあの遠吠えが本当に誰かとの接触を図っているものだとしたら、その相手はリクハルドだとしか考えられなかった。
「問題は誰がオレっちに話をしようとしてるのか?…よ。」
自分以外考えられないと腹の中で割り切ったリクハルドは、キセルをパンッと煙草盆に叩きつけて灰を落とした。
ハン族の誰がリクハルドと話をしたがっているのか?それによってある程度は目的を絞り込める。もし、叛乱に否定的だったイェルナクやハン族の首領であるムズクが話を持ち掛けてきているのであれば、それはレーマとの和睦を求めている可能性が高い。だがそれ以外のディンキジクなど叛乱に積極的だった者たちならば、おそらく更なる脱出への支援を求めてのことであろう。
前者ならば相手にする気は無いが、後者ならもう少し利用のし甲斐があるかもしれない。
「ハン族の誰がってことですかい?」
「そうよ!
イェルナクの野郎はこの間、サウマンディウムへ渡ったそうじゃねぇか?
まさか王様気取りのムズクが直接ってこたぁあるめぇよ。
なんたってオレっちぁ、オクタルの野郎を殺しちまってんだからよ?」
リクハルドはあの日、ハン族の王ムズクの弟であるオクタルを討ち取っていた。ハン族も
レーマとの仲介を頼んで来るとしたらイェルナクだが、イェルナクは数日前にサウマンディウムへ渡ったことを伝え聞いている。イェルナクだとしたらリクハルドに話を持ち掛けようとしているタイミングでサウマンディウムへ渡るわけがない。
「虎の子のダイアウルフを動かしているとなると、ディンキジクですかね?」
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