第608話 母と娘

統一歴九十九年五月六日、午後 - マニウス街道/アルトリウシア



 バウムクーヘン・パーティーを終えるとエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人は、パーティーのために着替えていた長女ディートリンデに再び礼拝用のシックなドレスに着替えなおさせ、一緒にティトゥス要塞カストルム・ティティへ戻る家臣団たちと共に馬車を連ねた。車列がマニウス街道を北上し、マニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニを抜けてヤルマリ川を越え、まもなく《陶片テスタチェウス》へ差し掛かろうかという頃になると空を覆っていた雲が徐々に厚くなりはじめ、陽の傾きも相まって周囲は徐々に暗くなり始めていた。

 自分でバウムクーヘンを作ったのがよほど楽しかったのだろう、次女エルゼは馬車に乗ってからも終始ご満悦で、バウムクーヘンが美味しかったとか、兄のカールがこんなことをしただとか、卵を割るのがとても難しかっただとか、今度は母上もリンデディートリンデも一緒にみんなで作ろうだとかハシャギまくり、そしてハシャギ疲れて今はエルネスティーネにもたれ掛かってヨダレを垂らしながら夢の中だ。おそらく夢の中でも楽しい思いをしているのだろう。その顔には一点の曇りもなく、無垢な天使そのものである。


 四人乗りの馬車のキャビンで今も起きているのはエルネスティーネとディートリンデの二人だけ。他にエルゼとまだ赤ん坊の末娘カロリーネとカロリーネの乳母キンダーメディヒェンが乗っているが、三人とも眠ってしまっている。


「よほど楽しかったのね……」


 自分にもたれ掛かって眠るいとし子の黒い髪の毛をいつくしむように撫でながらつぶやくエルネスティーネの声は慈母そのものであった。


「エルゼがこんなにお転婆てんばだとは思わなかったわ。

 いつも知らない人に会うときは私や母上の後ろに隠れているのに……」


 知らない人に合うと挨拶もせずに後ろへ隠れようとする……それを叱って引っ張り出し、挨拶をさせるのはこのところずっとディートリンデの役目になっていた。そのせいか、時々エルゼはディートリンデを怖がるようになってきてもいる。


「これくらいの子は仕方ないわよ。

 アナタだってそうだったのよ、リンデ?」


「憶えてないわ、そんなの……」


「そう?

 いっつも私のスカートから離れようとしなかったんだから…」


 エルゼを覗き込んでいたディートリンデは記憶にないことで揶揄からかわれ、照れ臭さ半分、不満半分といった顔でボフンと背もたれに身体を預けた。


「マックスはアナタのこと猫可愛がりするばっかりだし、私は甘やかしすぎて挨拶できない子になっちゃうんじゃないかって随分心配したんだから……」


 マックスとはエルネスティーネの亡き夫、先代侯爵のマクシミリアン・フォン・アルビオンニアのことである。男親は娘に、女親は息子にどうしても甘くなる傾向があるものだが、マクシミリアンもまたそうであった。その溺愛ぶりはエルネスティーネをして随分と心配させたものである。


「もうっ、いいでしょ!?

 今はそんなことないもの!」


 どうやらエルネスティーネの昔話をしつこく感じたようである。ディートリンデは恥ずかしそうに車窓の外へ視線をずらし、口を尖らせた。今にも雨が降ってきそうな暗さになっている。


「そうね……リュウイチ様もリンデのことは感心してらしたわ。

 歳の割に随分しっかりしてるって……

 でも、今日みたいなことは困るわね。」


 エルネスティーネの口調が変わり、母が小言モードに入ったことを察したディートリンデはギクリとして姿勢を正した。


「きょ、今日みたいなことって……」


 何となく予想は付いていたが誤魔化したいディートリンデが慎重に様子を伺いながらとぼけると、エルネスティーネは目だけでジロリとディートリンデを見る。大きな目は機嫌よくしている時こそ愛くるしいが、こういう時は迫力があった。


「エルゼの事よ。

 アナタ、エルゼのこと面倒見ずにほったらかしたんでしょ?」


「それはだって、ロミーが居たじゃない!」


 エルゼの面倒を見るのはエルゼ専属の乳母であるロミーの仕事だ。現にロミーがその場にいてロミーが面倒を見ているというのに、何故自分に責任が来るのか……ディートリンデには納得ができなかった。


「ロミーはロミーで後でちゃんと叱っておきます。

 今はアナタよ、ディートリンデ!

 アナタももう十歳でしょ!?

 お姉ちゃんなんだから、妹の面倒はちゃんとみてくれないと困ります!」


 ディートリンデの口がわずかにへの字に曲がる。


「アナタが面倒見ないから、エルゼが勝手にリュウイチ様のところへ行っちゃったんでしょ!?

 リュウイチ様がまだ慈悲深い御方だから問題にならなかったけど、これが間違って建物の外へ出ちゃったり、危ないところへ行っちゃったりしたらどうするの!?」


 母のあまりにも理不尽な良いようにディートリンデは俯き、頬を膨らませてプイッとそっぽを向いた。


「……そんなの、エルゼが悪いんじゃない!」


「三歳のエルゼに、そんなことわかるわけ無いでしょ?!」


 小声で愚痴るディートリンデを畳みかけるようにエルネスティーネが叱りつける。ディートリンデは膝の上に置いた両手をギュッと握りしめ、口を尖らせた。それを見てエルネスティーネはフゥーッと溜息をつき、ディートリンデの心がキュッと痛む。


「アナタにはこれからも侯爵家を支えてもらわなければならないのよ?

 カールに立派に家と属州を継いでもらって、アルビオンニア侯爵家を発展させることがマックスの、父上ファーターの願いなんですからね?」


「……わかってるわよ……


 いいじゃない、エルゼだって今日は喜んだんだし、リュウイチ様だって楽しそうだったわ。カールが一番楽しそうだったかも……」


 カールに侯爵を継がせる、領地を発展させる、父上の願い…それはディートリンデがこれまでに耳に胼胝たこができるほど散々聞かされた決まり文句だった。ディートリンデだってその思いは同じである。父に最も溺愛されたディートリンデは、そうだからこそ父に対する想いは母に負けないつもりでいるのだ。なのに、何度も何度も同じことを言われる。それはまるで、自分が父の遺志を理解していないか、ないがしろにしようとしているかのように思われている気がして非常に不愉快なことだった。

 エルネスティーネとしてはまだ言い足りない気がしたが、しかし目の前でヘソを曲げそうになっている娘を見てこれ以上は言うべきではないと理性を働かせる。それでも、まだ吐き出したりない気持ちが、溜息となって「はぁぁぁぁ」と口から半ば噛み殺されながらこぼれ出、ディートリンデをますます嫌な気持ちにさせた。


「……そうね、たしかに……結果的には良かったのかもしれないわね。」


 言い過ぎた…エルネスティーネの非凡なところは感情的になっても理性のブレーキを利かせることができる点にある。相手はまだ十歳の娘だ。それなのに、まるで侯爵家の未来をになわせるかのように叱ってしまった。エルネスティーネはたびたびこれをやってしまう。反省はするのだが、どうしても気持ちが走りすぎてしまう。

 女親であるエルネスティーネは、どうしても長女のディートリンデに過度に期待を持ちすぎてしまう傾向があった。エルネスティーネもうすうす自覚はしているのだが、彼女自身が侯爵夫人マルキオニッサとしての立場と、属州を息子カールに引き継がせる責任とを気負い過ぎているのだ。そしてその重圧に耐えかねている。ゆえに、無意識のうちに長女ディートリンデに甘えてしまうのだろう。

 エルネスティーネ自身に、ディートリンデに甘えているという自覚は無い。何故か分からないが、ディートリンデに強く言いすぎてしまう。無理をさせようとしてしまう。そしてその都度それに気づくからこそ、エルネスティーネはまた反省と自己嫌悪を重ねるのだった。


「ええ、そうよ。

 アナタたちとリュウイチ様がお近づきになれたのは良かったわ。

 そこは、感謝すべきかもしれないわね。」


 エルネスティーネは気落ちしたかのように急に声の調子を落とし、自分の脇に寄り掛かって眠っているエルゼを見ながらこぼすように言った。それで小言モードが終わったことに気付いたディートリンデはフーッと鼻から少し大きく息を吐き出す。


「そう言えば母上、見てた?

 エルゼったら、リュウイチ様と一緒にのよ?」


「ええ!?」


 エルネスティーネが少し驚いてディートリンデを見た。


「見てなかったの!?

 リュウイチ様に抱きかかえられて、一緒に包丁を持って切ってたの。」


 ディートリンデは母を見てそう言うと悪戯っぽく微笑んだ。

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