第604話 焼き上がるバウムクーヘン

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 バウムクーヘンと言えばドイツの伝統菓子である。その起源については諸説あってハッキリしない。古代ギリシャ時代にはオベリアスという似たような菓子が存在していたことが分かっているが、古代ギリシャのオベリアスと今のドイツのバウムクーヘンとが同じ系譜として繋がっていることを示す証拠の様なものは存在しない。フランスのガトー・ア・ラ・ブロッシュが原型だとか、ポーランドのシャコティスやセンカチュという菓子が原型だとか言う説が有力視されているようだが、これだと断定するに足る証拠の様なものは無く、いつごろ登場したのかさえ不確かなままとなっている。


 日本人でバウムクーヘンを知らない者はほぼいないと言っていいだろう。食べたことのない日本人を探すのはおそらく非常に難しいのではないだろうか。

 日本全国どこでもスーパーやコンビニの菓子売り場では一口大に小分けにされたバウムクーヘンが普通に売られているし、各地の土産物店に行けば地域の特産品を混ぜ込んだ御当地バウムクーヘンが売られてたりもする。また、バウムクーヘン専門店も点在している。なにか祝い事があった時の贈答品用の高級洋菓子として選ばれる率も高い。

 ごく稀にではあるが、ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプや子供会等のイベントで焚火を使って作ることもあるし、好きな人は自分で作ったりすることもある。


 それくらい日本では認知度が高く愛されている菓子ではあるが、当のドイツではそれほど有名ではない。むしろバウムクーヘンなんて知らないドイツ人の方が多いくらいで、日本の漫画やアニメを通じてその存在を知ったとか、日本に来て初めて食べたとかいうドイツ人が意外なくらい多かったりする。

 もしかしたら日本人は本場のドイツ人を差し置いてバウムクーヘンを世界で最も愛している民族なのかも知れない。


 ただ、日本人とドイツ人では好まれるバウムクーヘンに大きな違いがあった。形状である。

 日本では一般にきれいな円筒形のバウムクーヘンが好まれる。対してドイツでは日本人が理想とするようなきれいな円筒形を必ずしも好まれない。まるでソロバンの球のように横が外へ大きく膨らんでいたり、あるいは焼いている最中にケーキ生地のしずくが垂れてそのまま固まり、それが成長してできた“枝”が生えているものが珍重ちんちょうされたりする。その方がバウムっぽいからだ。

 しかし、断面の木の年輪を思わせる模様の精巧さが求められる点は全く同じだ。あの年輪こそバウムクーヘンが木のケーキバウム・クーヘンと呼ばれる所以ゆえんなのだから当然であろう。


 もちろん、あの幅が均一なキレイな同心円を描く年輪のような精巧な模様は、本物の腕を持つ職人でなければ作れない。素人が趣味で作るバウムクーヘン、ボーイスカウトやガールスカウトがキャンプで作るバウムクーヘンにあのような模様は期待できない。それどころか外形すらきれいな円筒にはならない。

 いびつで、木の棒にごってりと巻き付けられたケーキの塊…それがホームメイドのバウムクーヘンである。バウムクーヘンとは名ばかりで見た目の実態は「マンガ肉」そのものだったりするのだ。

 そもそも生地からして違う。本物のバウムクーヘンの生地には牛乳は使わない。小麦粉とバターと卵で作るのが基本だ。リュウイチたちが小麦粉と牛乳と卵で作っているのは、田所龍一リュウイチが子供の頃に体験したバウムクーヘンづくりでホットケーキ用の材料をそのまま使っていたからに他ならないのだが、これには事情があった。

 リュウイチが体験したバウムクーヘンづくりは子供会の夏のイベントでのアトラクションの一つでのことだった。大人数用のバウムクーヘンを作るために屋外で大量のバターをねるのは手間だし、真夏にキャンプ場までバターを溶けないように持って行くだけでも面倒だ。おまけにケーキ作りに欠かせない無塩バターはトースト用に売られている有塩のバターよりも割高だったし、製菓業者や普段からケーキ作りを趣味にしている人でないと少しばかり入手しにくい。そこで無塩バターじゃなくてどこででも手っ取り早く入手できる牛乳を使ってしまっていたのだ。もっとも当時子供だったリュウイチは、子供にバウムクーヘンづくりを体験させようとイベントを企画し運営していた大人たちのそんな事情など知りはしない。


 ともあれ、リュウイチたちが作っているバウムクーヘンも、さすがに「マンガ肉」ほど酷くは無かったが、そうした素人が作る歪なホームメイド・バウムクーヘンそのものだった。

 六尺棒クォータースタッフに塗りつけられたケーキ生地は《火の精霊ファイア・エレメンタル》が作り出した煙の出ない青い炎に炙られ、層を重ねてだいぶ太くなってきている。生地を一層塗ってはエルゼが歌い、生地の表面が乾いてきたら再び生地を重ね塗りする…「均一に塗ってね」とは言ってあったが所詮は子供の遊び、しかも今回が初めてとあっては均一になどなるはずもない。十回を数えるころにはバウムクーヘンは二本ともあからさまに外観がデコボコとしてきていた。

 なお、せっかく用意していたのに生地に混ぜるのを忘れていた蜂蜜の存在を途中で思い出してからは、生地を塗り重ねる前に蜂蜜を塗る行程が追加されている。おかげで、断面は本物の木のように中心部分は白っぽく、外側は蜂蜜のおかげでやや濃い色になっていた。同時に辺りには蜂蜜の甘い香りが漂い始める。


「ねえ~、まだぁ?もう出来た?」


 エルゼ・フォン・アルビオンニア侯爵令嬢はもう待ちきれない様子である。さすがに同じ作業を幾度も繰り返せば、三歳児の集中力などとっくに切れてもおかしくはない。ケーキを焼くという“遊び”よりも、目の前で美味しそうな臭いを発しているバウムクーヘンにすっかり食欲をそそられてしまって食べたくて食べたくてしょうがないのだ。


「あとこれだけ、これだけ塗ったら終わりですよ。」


 傍でエルゼのためにケーキ生地の入ったボウルを持っていたルールスが宥めるように言う。ボウルの中にはあと一回分、あるかどうかぐらいだ。生地はかなり大量に作られていたはずだったが、さすがに六フィート(約一・八メートル)の棒に塗り付けただけあって結構なペースで無くなっていく。もっとも、塗り方が乱暴だったせいで地面に垂れ落ちてしまった分がかなりあったのも事実だ。

 しかし、さっきから同じ説明を繰り返されていただけあって、エルゼの我慢もとっくに限界を超えている。踏み台の上でまるで踊りでも踊るように「フンフン」とリズムを摂りながら身体を揺すり、焼きあがっていくケーキを眺めて何事かブツブツと呟くように歌を歌ったりし始める。


「ああ、リンデ!リンデぇ~!!」


「ああ、いけませんお嬢様!」


 エルゼは向かい側の二階の廊下に姉のディートリンデを見つけ、刷毛を持ったまま両手を振った。おかげで生地の雫がいくつか飛び、ロミーが慌ててその手を抑えた。何滴か顔に喰らったルールスは顔をしかめ、無言のまま手でぬぐいとる。


「あら、エルゼ何をしているの!?

 カールも!?」


「お嬢様!いけません!」


 ディートリンデは部屋で本を読んでいたのだが、さすがに読み飽きて気分転換で外へ出てきたところだった。エルゼに呼ばれ、庭園ペリスティリウムで何かやっているのに気付くと、回廊ペリスタイルの手すりに寄り掛かるように身を乗り出して声をかける。それは十歳の少女に相応しい天真爛漫てんしんらんまんな行動ではあったが、上級貴族パトリキの令嬢に相応しいものではない。近くにいた侍女が慌てて小声で注意する。


ケーキクーヘン焼いてるの!

 バウムクーヘン!」


「お嬢様、お控えください!お嬢様!!」


 エルゼが元気に答える間も、ディートリンデの侍女は小声でしつこくいさめ続けるが、ディートリンデは無視して続けた。


「バウムクーヘン!?

 カール、アナタがエルゼに焼かせてるの!?」


 この陣営本部プラエトーリウムは降臨者 《暗黒騎士リュウイチ》の住まう屋敷ドムスであり、ディートリンデもエルゼも客人に過ぎない。なのに庭園のど真ん中でケーキを焼いている……とすれば、《暗黒騎士リュウイチ》に人質という名目で身柄を預けられているカールがやっていることかとディートリンデは思ったのだった。

 カールは「何で僕が?」と思いつつリュウイチの方を見る。そう、実はディートリンデのいるところからはベンチに座るリュウイチの姿は見えていなかった。ちょうど、噴水のガニメデ像の影に隠れていたのだ。どうやらディートリンデが客人用の寝室クビクルムから出て来たらしいことを察したリュウイチが立ちあがり、噴水の影からひょっこり姿を現わして手を振る。


『ディートリンデちゃんもおいで!』


「ハッ!リュウイチ様!?」


 ディートリンデは跳ねるように手すりから上体を起こし、後ずさると慌てて両手で口を押える。


 他人様にところを見られた!


 後悔してももう遅い。振り返ると侍女が「だから言ったのに」とでも言いたげな顔でディートリンデを見ている。侍女からはリュウイチの姿が見えていたのだ。他人の家だというのに油断したディートリンデが悪かったのだが、みるみる顔が熱くなってくる。

 これまでディートリンデの歳に似合わぬおしとやかな立ち居振る舞いしか見たことのなかったリュウイチにとってその様子は新鮮だった。


『ちょうど焼けるころだよ!

 一緒にお茶にしよう!』

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