第603話 焼きはじめ

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 パンケーキ…フライパンで焼くケーキという意味でそう呼ばれるようになった、シンプルなケーキの総称である。一般に小麦粉、牛乳、卵を主原料とし、それらを混ぜ合わせてフライパンで焼くだけで出来上がる。ホットケーキと呼ばれることもあるが、パンケーキの生地にベーキングパウダーや重曹といった膨張剤を加えてふっくら仕上げたモノを差別化してそう呼んだりするものらしいが、特にそういう基準があるわけではない。あくまでも俗説だ。

 日本ではホットケーキという呼び方の方が一般的だ。ホットケーキという呼び方が一般化してしまった理由としては、あらかじめ小麦粉に砂糖とベーキングパウダーを混ぜたホットケーキ専用の粉が「ホットケーキミックス」という商品名で売られた影響が大きいと思われる。


 ホットケーキをふっくらと柔らかく膨らませるためにはベーキングパウダーの役割も重要だが、より大きく影響するのは生地の作り方であろう。ボウルに粉を入れ、牛乳や卵を入れてダマが残らないようにしっかりかき混ぜる…こうやって作ったホットケーキは膨らまない。ペタッと潰れた貧相なパンケーキになってしまう。

 卵、牛乳、そして砂糖などの甘味料を先に混ぜて卵液を作る。しっかり混ぜた卵液へ粉を投入し、混ぜる。決して。一応粉と卵液は混ざっているけど完全には混ざり切っておらず、泡だて器ですくっても垂れ落ちないくらいに硬い生地が理想だ。

 何故なら生地の中にたっぷりと空気を含ませなければならないからだ。空気は小麦粉の粒と粒の隙間に保持される。ところが、生地をしっかり混ぜてしまうと、粉の粒と粒の間の空気が抜けてしまい、卵液が入り込んで隙間を埋めてしまう。そして何よりも小麦粉と水分が混ざり合う事でグルテンが出来てしまう。生地の中に空気が含まれていれば、焼いているうちに熱膨張で膨らんでふんわりした仕上がりになるが、しっかり混ぜてトロトロにしてしまった生地を焼いても空気は抜けてしまっているうえに、グルテンによって膨張が阻害されてしまうので膨らみようがないのだ。ケーキを単に膨らませたいだけなら卵の白身を泡立ててメレンゲにする方法もあるが、それはもはやホットケーキではなく、スフレケーキと呼ぶべきであろう。


 しかし、同じ原材料を使うケーキでもバウムクーヘンは違う。バウムクーヘンは軸となる心棒に生地を塗りつけ、それを炙って焼いていくのだが、ホットケーキで理想とされるような硬い生地では軸に均一に塗り付けることができない。おまけにホットケーキ用の生地は焼いているうちに膨らんでいくので、均一な形状を保つことができないからだ。

 バウムクーヘン用の生地は粉と卵液をダマが残らないようにしっかりと混ぜ、泡だて器で掬い上げるとすぐにトロトロと垂れ落ちるくらいの柔らかい生地が理想なのである。


 リュウイチから簡単に話を聞いたルールスが指導し、カールとエルゼが混ぜた生地はまさに理想通りの生地だった。ダマが全くなくトロトロと垂れるくらい柔らかく均質に混ざっている。なお、カールとエルゼが混ぜたのはボウル二つに増えてしまったうちの一つだけであり、もう一方はルールスの配下の料理人が混ぜている。そして、エルゼとカールが混ぜた方も二人だけで混ぜたと言うわけではない。二人とも体力が無いし、エルゼに至っては集中力も無いので、乳母キンダーメディヒェンのロミーと家庭教師グヴェルナンテのミヒャエルが手伝っている…というか、実際の労力としてはロミーとミヒャエルが中心だったと言っていいかもしれない。

 ともあれ、いよいよ出来上がった生地を焼く段階へと入った。


「ほ、ほんとに良いのですか?」


 リュウイチとリュキスカ以外の大人は躊躇ためらいを禁じ得ない。何故なら彼らはこれまで誰も経験したことのなかったであろう方法でケーキを焼こうとしていたからだ。


『うん、大丈夫だよ。

 大丈夫だろ?』


 彼らの目の前には地上から約一フィート(約三十センチ)の高さの何もない空中に、縦横四フィート(約一・二メートル)四方の範囲で青い炎の絨毯が浮かんでいた。無論、その正体は《火の精霊ファイア・エレメンタル》である。彼らはこれから、彼らが神とも崇める《火の精霊》を使ってケーキを焼こうとしているのだった。

 その下の石畳には水が撒かれており、《火の精霊》はリュウイチに『下の水を沸騰させるなよ?周りの人を火傷させたり、服を燃やしたりするなよ?あとケーキ焦がすなよ?』と事前にしっかりと言いつけられている。


『無論だ、あるじよ。さっさとやるがよい。』


 《火の精霊》の声色からはどこかヤケクソじみた雰囲気が感じられなくもない。派手に激しく燃え上がってこその炎…それなのに何も燃やすことなく、ただケーキの生地を炙るだけで焦がすことすらしてはならない。非常に不本意であるのは間違いなかった。


「その…青い火って、大丈夫なんですか?

 何か、地獄の炎のような…禍々まがまがしさを感じますが…」


『うん、大丈夫大丈夫。

 火っていうのは酸素が十分あって効率よく燃えているとこんな色になるんだよ。

 普通の焚火たきびとかだと火の温度が低いから黄色とかオレンジ色になるだけで…


 さ、始めよう!

 はい、この棒を持って、向こう側とこっち側で支えて。』


 リュウイチはそう言うとネロたちに六尺棒クォータースタッフを二本手渡した。どちらにも事前に浄化魔法をかけてある。ネロとゴルディアヌス、ロムルスとアウィトゥスがそれぞれ六尺棒の両端を持ち、《火の精霊》を挟むように並んで六尺棒を火の上に渡して即席グリルの完成だ。


『はい、じゃあエルザちゃんはこっちの棒ね。

 カール君はそっちの棒に生地を塗って…なるべく全体に、均等にね。』


 せっかく二本、棒を用意したのでカールとエルゼのそれぞれに生地を塗らせることにした。リュウイチはエルゼが生地を塗る方の棒の脇に踏み台を置いてエルゼでも手が棒まで届くようにし、まずは自分で手本を見せる。


『こんな風に塗るんだよ。』


 大きいボウルから生地を小分けにしてきた小さいボウルをルールスから受け取り、刷毛ハケで生地を掬って棒全体に塗り始める。生地が柔らかいので下にポタポタ落ちはじめた。


『あ、言い忘れてたけど棒は回して。

 ゆっくりでいいから。』


「あ、はい」


 リュウイチに言われて棒を持っていたネロたちが棒をクルクルと回し始めると、生地のしたたり落ちる量が目に見えて減る。そのままリュウイチは刷毛で塗り付けた生地を、全体が均一になるように伸ばしていく。一通り塗り終わったところで、リュウイチは踏み台の上に立って待っていたエルゼに刷毛を手渡した。


『はい、じゃあ今塗った生地が乾いたら、上から同じように塗ってね。

 カール君も、そっちの棒にさっきやって見せたみたいに塗って。』


はいヤー


 エルゼはリュウイチから刷毛を受け取ると、それをジッと見つめて出番を待つ。そして即席グリルを挟んで反対側に立っていたカールは、さっそくミヒャエルが捧げ持つボウルに刷毛を突っ込み、生地を掬っては棒に塗り始めた。

 反対側で兄のカールが塗るのを見ているうちにエルゼはうずうずし始める。


「もう塗っていい?」


『ん~?んん~・・・もうちょっと待って。』


 棒に塗った生地はようやく一部が乾き始めたところだ。上から塗るのはまだ早い。焼き色が付くまで待たねばならないというわけでもないが、せめて全体的に表面が乾くくらいまでは待たないと、塗り重ねていくうちに形も崩れるだろうし、何よりも生焼けになってしまう。

 しかしエルゼは塗りたくってしょうがない。


「んーんー…塗たいぃ!」


お嬢様フロイライン、いけません。降臨者様にそんな…」


 ムズがるエルゼをすぐ後ろから見ていた乳母のロミーが心配そうにたしなめる。


『いや、いいんですよ。

 エルゼちゃん、でも美味しいケーキを焼くにはじっくり待つ時間も必要なんだ。』


 しかし、エルゼは両手に持った刷毛をジッと見つめたまま、口を尖らせてイヤイヤをするように身体を左右に捻る。どうやら我慢が出来ないらしい。その様子にロミーはハラハラした様子で、エルゼとリュウイチを交互に申し訳なさそうに見る。

 ロミーとしてはエルゼに我慢してもらいたいが、流石に場が場だし相手が相手だけに強く言う事が出来ない。リュウイチは少し考え、一つアイディアを思いついた。


『そうだ!エルゼちゃんは歌は歌えるかな?』


「歌?」


『そう、こうしてジッと待ってる時は歌を歌うと良いんだ。

 ケーキも歌を聞かされると美味しくなるんだよ。

 何か歌えるかい?』


 そう言われ、エルゼは「ん~」と首を傾げて少し考え、それからケーキに向かって歌いだす。


くすしき花は芽吹きたるエス・イスト・アイン・ロース・エンチュポーゲン

やわらかき根よりアウス・アイナー・ウォーツェル・ツァート

いにしえに歌われたるごとくヴィー・ウンス・ディ・アルテン・ゾンゲン

エッサイもかくなりきフォン・ジェッスィ・ワァ・ディ・アート

かくて小さき花は咲きたりウント・ハット・アイン・ブルゥムライン・ブラット

寒き冬の只中にミッテン・イム・カイテン・ヴィンター

おそらくは夜の半ばにヴォール・ツ・ハーベン・ナハト


 子供の歌だから何か楽し気な童謡みたいな歌を期待していたのだが、何やらおしとやかな調子の歌声にリュウイチは面食らった。どうやらエルゼは歌詞の意味を理解せずに“音”だけ憶えて歌っているらしく、歌詞の意味は念話で会話するリュウイチには全然伝わってこなかったが、普通の動揺や民謡なんかじゃなさそうなことを察したリュウイチは小声でロミーに尋ねた。


『…これって讃美歌か何か?』 


「はい、最近憶えたばかりなんです。」


 ロミーも小声で答えた。

 小さい子供は歌の意味とか考えず、ただ憶えた歌を歌ってしまう事はよくあることだ。別に讃美歌が悪いと言うわけでも嫌いというわけでもないが、リュウイチとしては何か微妙な気持ちになってしまう。

 一応、周囲を見回してみるが、他の者たちは特に気にしていない様子に見えなくもない。エルゼ自身は気持ちよさそうに歌っているから、まあいいだろう。


「もういい!?」


 エルゼは一番しか憶えていなかったらしく、歌い終わるとすぐに振り返ってリュウイチに尋ねる。


『あ!?…ああ!うん、いいよ。』


 リュウイチの許可をもらったエルゼは満面の笑みを浮かべ、脇でルールスが捧げ持つボウルから刷毛で生地を掬いだすと、生地がボタボタと垂れるのも気にせずに棒に塗りたくりはじめたのだった。

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