第598話 探されていたエルゼ

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



「あ、ちょっとロミーさん!

 いたよ!やっぱりこっちに居た!!」


 エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の次女エルゼを肩車したリュウイチが居間代わりに使っていた小食堂トリクリニウム・ミヌスから庭園ペリスティリウムへ出ると二階からリュキスカの声が響いた。見上げると庭園ペリスティリウムを囲む回廊ペリスタイルの二階から赤ん坊を抱いたリュキスカが別の方を向いてリュウイチたちの方を指差している。


「まあ!エルゼ様!?」


「ロミー~~っ」


 何だろうと思っていると、リュキスカが向いていた方から別の女性の声がした。見るとエルゼの乳母キンダーメディヒェンのロミーが両手を口元に当て、顔を青くして立ちすくんでいる。それを見てエルゼは嬉しそうに手を振ってロミーの名を呼ぶ。

 後で聞いた話によるとロミーはエルゼとカクレンボフェシュテクシュピエをしていたのだが、途中でエルゼの姿が見えなくなり、他の使用人たちも動員してエルゼを探していたらしい。ひょっとしてこっちへ行ったのかと隣接する中庭アトリウムの方から戻ってきたロミーは二階からリュキスカに教えられ、《暗黒騎士リュウイチ》に肩車されたエルゼを見つけて度肝を抜かれたというわけだ。

 だが、エルゼの乳母ともあろうものが度肝を抜かれたままでいられようはずもなく、驚愕の表情のまま両手を震わせ口をパクパクさせて固まっていたのも数秒、すぐに混乱から我に返ると胸の前で十字を切るや否や、両手でスカートの裾をたくし上げ、「はぁぁぁぁ~~~」と悲鳴ともため息ともつかぬ声をあげながら小走りでリュウイチの下へ駆け寄ってきた。背はさほど高いわけでもないし、いつか見た娼婦の肉団子ベルナルデッタほどではないにしても良く肥えた女が駆け寄って来る様子はそれなりに迫力がある。


「お、お、お、おそれ多くも降臨者様にあそばされましては、エルゼ様がとんだ御迷惑を…」


 リュウイチは本来ならロミーなんかが直接声をかけてよい相手ではないが、さすがに自らが責任をもって預かっているエルゼのこととなると乳母としてなりふり構っていられない。

 横に大きな身体を小さく縮こませてプルプルと震えながら、ロミーは潤んだ瞳でリュウイチに慈悲を請い始めた。


『いやぁ、迷惑なんてかけてませんよ。』


「ロミー!これから降臨者様とケーキクーヘン作るのぉ!」


ケーキクーヘン!?

 まあ、エルゼ様!

 いやだ、降臨者様になんてことを…ああ、どうか、ああ、いったいどうしたら」


 リュウイチの頭上で無邪気にはしゃぐエルゼと対照的にロミーはオロオロと狼狽え続ける。その様子を少し離れたところからネロたちがヤキモキしながらも何もしてやることもできず、ただ気の毒そうに眺めていた。

 そこへ丁度、厨房クリナへエルゼのための飲み物を取りにっていたゴルディアヌスが戻って来る。ジュースの入ったコップを一つ載せたお盆を両手で持ち、この男に似合わず嬉々とした表情で息を弾ませている。


旦那様ドミヌス!お持ちしました!」


『おっ!?

 さあエルゼちゃん、フルーツジュースが来たぞぉ~。

 そこのベンチに座って飲もうか?』


うんヤー


 エルゼが嬉しそうに返事をするのを聞き、リュウイチはエルゼの腰を両手で掴んでヒョイと肩の上から地面に降ろした。その様子をロミーはハラハラと落ち着かない様子で「ああ、エルゼ様」とか「ああ、なんてこと」「主よ」などと小声で繰り返しながら見守る。

 エルゼを降ろしたリュウイチはエルゼをベンチに座らせようとしたが、ベンチがまだ今朝の雨で濡れているのに気づくと手のひらで座面の水滴をサッサッと払った。


「ああ!旦那様ドミヌス、それくらい我々が!」


 遅れて気付いたネロが慌ててリュウイチを止めるが、リュウイチは濡れてしまった自分の手を見、それから手についた水気を手を振って払って言った。


『いや、これくらいいいよ。それより道具と材料を持ってきて?』


「は、はい…お、おいっ!」


 リュウイチに言われ、ネロは近くにいたロムルスに声をかけると、ロムルスは「わかりました!」と言って厨房クリナへ走っていく。

 その間、ロミーはエルゼに駆け寄り、その前に跪いて「エルゼ様、大丈夫ですか?本当にロミーは心配したんですよ。」などと心配そうに伺いながら、肩車されていたせいで乱れた着衣をパッパと直していた。


『さあエルゼちゃん、ここへどうぞ。』


ありがとうダンケ!」


 エルゼがベンチに座ると、ゴルディアヌスがコップを載せたお盆を差し出す。


「はい、果汁飲料ティーフルトゥムでございやす。」


「まあ、ティーフルトゥム!?

 お嬢様フロイラインにわざわざ!?」


「へい、旦那様ドミヌスがエルゼ様にと…」


「まあ、なんてこと…降臨者様、エルゼ様に良くしていただきまして…

 なんと申し上げればよいか…」


『いや、いいんですよ。私は別に何もしてませんから…』


 ロミーはまるで我が子の悪戯を詫びる母親のように恐縮しきった様子で御礼やお詫びやらを繰り返す。

 まあそれも仕方のないことではあっただろう。彼女は自分の仕事に完全に失敗してしまっていたのだから…。乳母である彼女の仕事はもちろんエルゼの身の回りの世話である。食事、洗濯、着替え等々で日常生活での礼儀作法などの教育も行うが、教育を担当する家庭教師グヴェルナンテは別にいて普段ならこの時間は家庭教師が担当している筈だった。しかし、エルゼの家庭教師は一応リュウイチの降臨については教えられてはいたが、マニウス要塞カストルム・マニに来る時は同行してきていなかった。リュウイチの近辺に訪れるのにあまり多くの人間を引き連れてリュウイチの周辺を騒がしたくないという遠慮もあったし、あまりに多くの人間がマニウス要塞を頻繁に行き来することで必要以上に人目を引きたくないという秘匿上の配慮もあったのが理由だ。ともかく、普段この時間のエルザの面倒を見ている家庭教師がいないため、ロミーがエルゼの面倒を見なければならない。そして、この陣営本部プラエトーリウムでの彼女の最重要任務はエルゼがリュウイチに迷惑をかけないように抑えておくことだったのである。

 ところが、暇を持て余したエルゼが癇癪かんしゃくを起こして却って騒ぎになったりしないよう、あの手この手で時間を潰していたのだが、その過程でエルゼのリクエストでカクレンボを始めてしまった。所詮は三歳の娘と侮っていたのが運の尽き、エルゼはロミーから見つからないように隠れる場所を探して部屋から出て行ってしまい、そのままリュウイチのところへ行ってしまったのであった。


 ああ、なんてこと…一番避けなければならないことだったのに…


 本当なら激しく叱責されても仕方のないことだったが、幸か不幸か彼女を叱責する立場にあるエルネスティーネは公務のために要塞司令部プリンキピアに行ったままであり、この場にはリュウイチとその配下しかいない。

 だが、このままエルネスティーネに知られることなく穏便に済ますというわけにもいかないだろう。何故なら彼らのいる庭園の周りにはいつの間にかエルゼ捜索に駆り出されていた侯爵家の使用人たちが集まっており、遠巻きにエルゼやロミーたちを見ていたからだ。

 それに気づいたリュウイチが彼らに視線を投げかけると、使用人たちは慌てて姿を消していったが、あまり気持ちのいいものではない。


 そのうち、厨房クリナの方からロムルスや料理長アルキマギールスのルールスたちが道具や食材を持って姿を現わした。

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