第599話 増えるギャラリー

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 ケーキ作りのための道具や食材が運び込まれた庭園ペリスティリウムにはあれよあれよという間に随分と人が集まってしまっていた。

 リュウイチはもちろん、エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の次女エルゼ、エルゼの乳母キンダーメディヒェンロミー、そしてリュウイチの奴隷でマニウス要塞カストルム・マニに残留していた五人、料理長アルキマギールスのルールスと配下の料理人たち、二階から見ていて興味が湧いてきたのかリュキスカも赤ん坊を抱えたまま降りてきている。他の使用人たちも遠くからなるべく目立たないようにではあったが、時折チラチラと顔を出して庭園の様子を伺っていた。


「それでは、パンケーキの生地でバウムクーヘンを御作りになられるのですか?」


 ルールスはパンケーキのことは知っていたが、バウムクーヘンについては話に聞いたことがあるだけで実物を見たことも食べたこともないし作り方も知らなかった。

 ルールスは元々レーマ生まれレーマ育ちの料理人であるため、帝都レーマで知られていた料理ならだいたい知っている。だがバウムクーヘンはランツクネヒト族のマイナーなケーキという位置づけであり、ランツクネヒト族も結婚式の時などの特別な祝い事がある時に焼く程度で帝都レーマでは全くと言っていいほど知られていなかったのだ。そして、アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子に招聘しょうへいされる形でアルトリウシアへ来て様々なランツクネヒト料理に触れて来てはいたが、当時はアルトリウシアにランツクネヒト族の貴族ノビリタスと言えばアイゼンファウストの郷士ドゥーチェメルヒオール・フォン・アイゼンファウストぐらいなもので子爵家のお抱え料理人がランツクネヒト族の結婚式の料理に接する機会など無く、フライターク山が噴火してから後は多数のランツクネヒト貴族がアルトリウシアへ移り住んできたものの、災害対応に追われてバウムクーヘンどころではなくなってしまっていたのだった。

 ランツクネヒト料理や南蛮料理に興味があったこともあってアルトリウスの招聘に応じてわざわざアルトリウシアへ移り住んだものの中々接する機会のなかったバウムクーヘンを、よりにもよって降臨者のリュウイチが作ると言うのである。色々と質問したくなるのも当然であろう。


『ああ、うん…

 その、私が知っているのは素人が遊びで作るような簡単な奴で、本格的に職人が作る奴はまた別なんだろうけどね。

 ホットケーキの生地で…ああ、ホットケーキよりも軟らかめに生地を作るのかな?粉と卵と牛乳を良く捏ねて、ダマができないようにトロトロにして…』


 熱心に質問をしてくる専門家ルールスにリュウイチは内心たじたじになっていた。

 リュウイチが知っているのはリュウイチ自身が言っているように素人が遊びで作る簡単なバウムクーヘンである。子供会のキャンプなどのイベントで、子供たち自身に作らせる体験教室みたいな一種のアトラクションとして焼くバウムクーヘンのレシピだ。リュウイチ自身が子供の頃に体験したもので、あまりにも簡単だったので却って印象に残っている。

 ただ、ホットケーキの生地を棒に塗りつけて、それを回しながら焼いていくだけなので全くもって簡単なのだが、もちろん出来上がりは職人が作る本物のバウムクーヘンには見た目も味も遠く及ばない。子供を喜ばせるには十分に面白いし、美味しくもある…ただそれだけの代物だ。

 リュウイチは自分が作ろうとしているのが素人のインチキ・バウムクーヘンだと知っているので、こうもギャラリーが増えたうえにプロの料理人までもが出てきて興味深そうにしていることにかなり気まずい思いをしていた。


 ヤバい…気づかないうちにハードルが天井まであがっちゃってる?

 これであんな出来の悪いバウムクーヘンなんかできたら、思いっきりガッカリされちまうんじゃ…?


「軟らかく?

 パンケーキの生地は焼くときに膨らみやすくするように、あえて混ざりきらないように硬めに練りますが…」


『ああ、うん…焼いている時に膨らんじゃったらあんまりよくないんだ。

 焼いてるうちに形が崩れていっちゃうからね。

 だから、ボウルに粉を先に入れて卵と牛乳を後から加えてダマが出来ないようによぉ~く混ぜたのを生地にするんだ。

 それを棒に塗って、棒を回しながら炭火であぶって、表面に焼き色がついたらその上からまた生地を塗り重ねて炙ってっていうのを何回も繰り返すんだよ。』


 探求心溢れるルールスは気づいてなかったがリュウイチは内心でかなり動揺していた。


 ひょっとして、自分の言ったナンチャッテ・バウムクーヘン・レシピがバウムクーヘンの正統レシピとしてこの世界ヴァーチャリアに広まってしまうんじゃないだろうか?


 ふとした瞬間、リュウイチはそのことに気付いてしまったのである。その責任を考えると、何か自分がひどく軽率な行いをしているような気がしてしまい、出来る事ならこの場から逃げ出したいくらいの思いに駆られていた。


「お話し中のところ、失礼いたします旦那様ドミヌス


 話に割り込んできた救いの主はネロだった。


『あ、何かな?』


「その、ヒルデブラント様がカール様に魔法をかけていただきたいと…」


 エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の長男、カール・フォン・アルビオンニア侯爵公子は只今リュウイチが名目上の人質として身柄を預かっている。カールはアルビノで本来なら日光を浴びることができないのだが、リュウイチの下に居る間は、リュウイチが光属性のダメージを遮断する防御魔法をかけて外出できるようにしてやることになっていた。今日は午前の勉強の時間が終わったので、部屋から出たいから魔法をかけてほしいと言う事である。

 リュウイチにとってはまさに渡りに船というタイミングだった。これでルールスの質問攻めから逃げることができる。


『あ?ああ!分かった。


 じゃ、じゃあそういう事だから、ちょっと失礼』


「ああ、リュウイチ様…」


 話を中断されて残念そうなルールスを置いてリュウイチはここぞとばかりにその場から逃げ出した。まさかこんな大事になるとは思っていなかった。せいぜいエルゼと、ネロたちでワイワイ言いながらバウムクーヘンを焼いて食べて楽しんで終わりだと思っていたのに、まさか厨房クリナから本職の料理人が出て来るとは思ってもみなかった。

 ともあれ、何を作るつもりだったかは教えたし、あれ以上はこっちも答えようがないから、カールに魔法をかけに外れている間にいなくなってくれるだろう。


 リュウイチはそそくさとカールの寝室クビクルムへ入ると、退屈な勉強からの解放を告げる使者の到来を喜ぶカールの歓迎を受けた。そして魔法をかけてもらったカールは待ちきれないとばかりにリュウイチと、そしてカールの家庭教師グヴェルナンテを務める「老師アルター」ミヒャエル・ヒルデブラントとそろって外へ出る。そこでカールが見たのは先ほどリュウイチが逃れてきた庭園ペリスティリウム人集ひとだかりだった。


「リュウイチ様、あれは…いったい何をしているのですか?」


 当然のように抱いた疑問をカールは口にする。カールの視線の先の人集りの中にまだ料理人たちが残っているのを見、内心で「まだ早かったか」と思いながらリュウイチは答えた。


『ああ、あれは…エルゼちゃんがお茶の時間だからケーキを食べたいって言うから、でもケーキの用意がなかったからみんなでケーキを焼こうって集まってるんだ。』


ケーキクーヘン!?

 外で!?みんなで!?」


 カールは飛び上がるように驚き、目を丸くしてリュウイチを見上げた。あんな噴水と花壇しかない庭園でケーキが焼けるというのも驚きだが、何よりもみんなで一緒にケーキを焼くというのが凄く意外だったのだ。

 カールはもちろんケーキは大好きだ。ケーキはいいものだ。食べると幸せな気分になる。


 それをみんなで焼く!?


 カールにとってそれはとても素晴らしいことのように思えた。

 アルビノと言う体質によって人生のほとんどを寝室に閉じ込められる形で過ごし、さらにこれまでの人生の半分をという病に侵されたためにベッドから動くことも難しくなったカールは常に孤独を感じていた。父マクシミリアン・フォン・アルビオンニア侯爵と母エルネスティーネ、そして姉のディートリンデはカールが寂しくないよう、カールと共に過ごす時間を意識して作り、常にカールの傍で何かをしてくれていた。だがカールはそれをベッドの上から眺めるだけで、それに参加することはほとんど出来なかった。


 このベッドの外では父母や姉が楽しそうにしている。部屋の外には素晴らしい世界が広がっている。きっと、そこではもっと楽しいことがあるに違いない。


 しかし、カールには今までそれを物語を通じて知り、空想を膨らませるしかなかったのだ。

 だが、今ここで、目の前で、それまで物語の中でしか知り得なかったことが、空想するしかなかった事が…いや、それ以上のことが起きようとしていたのだ。


『え?う、うん?』


 眩しく輝くカールの赤い瞳に戸惑いながら、リュウイチは頷いた。リュウイチのその戸惑う様子にカールはひょっとして相手が困っているんじゃないかと察する。カールが何か無理なお願いをする時、困った大人が決まってそうした態度をとってきたからだ。

 普段ならそれを察した時点で諦めるカールだったが、今日は好奇心の方が勝った。


「ボ、ボクも、一緒にケーキ焼きたいです。」


 リュウイチは少し嫌な予感がしていた。ギャラリーが増えてこれ以上面倒なことになってもらっては困る…しかし、冷静に考えてみれば悪いことではない。みんなで作った方がいい…そう言ったのはリュウイチ自身だった。

 リュウイチはミヒャエルの顔をチラリと見た。ミヒャエルは緊張に顔を強張こわばらせていたが、それは単に《暗黒騎士リュウイチ》にまだ慣れていないからに過ぎない。ミヒャエル自身はリュウイチが何故自分を見たのかを察し、黙ってコクコクと大きく頷いた。


 うん、何も問題ないな‥‥‥


『よし、じゃあカール君も一緒に焼くか…』


「はいっ!」


 カールが元気よく返事をし、ギャラリーは二人増えることになった。いや、ギャラリーではない。一緒にケーキを焼く参加者だ。

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