第597話 予定変更

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



「え、作るんですか!?」


 リュウイチの『よし、作っちゃおうか』の一言にネロは驚いた。


『うん、簡単だし?』


「いや、お待ちください旦那様ドミヌス

 ケーキプラケンタとはいえスキルで作られた物を人に与えては…」


 ネロが慌ててリュウイチに思いとどまらせようとすると、リュウイチは両手を広げて笑って見せた。


『まさか、スキルなんか使わないよ。

 ちゃんと小麦粉と卵と牛乳で生地を作って焼くのさ。

 台所を借りれるかな?』


 立ち上がり、両手を腰に当てて伸びをするように胸を張って上体を左右に捻りながらリュウイチが言うと、ネロ以外の奴隷たちも慌て始める。


「え、旦那様ドミヌス自ら焼くんですかぃ!?」

「そんな、待ってください!」


『え、何かまずい?』


 意外なくらいに奴隷たちが狼狽うろたえることに驚き、リュウイチが尋ねると奴隷たちは互いに顔を見合った。

 厨房クリナは料理をする場所ではあるが、同時にその屋敷ドムスで唯一の下水溝のある場所でもある。なので、下水へ流す汚物…よりはっきり言うとオマルなどへ出された排泄物なども厨房へ運び込まれて処理されたりする。おまけに下水溝からはネズミが遡上そじょうして来ることもあるため、実は厨房はレーマの一般的な屋敷の中で最も不潔な場所でもあるのだ。通常、屋敷の主人やその家族といった身分の高い者が足を踏み入れることはない。料理なんていうものは、奴隷など身分の卑しい者にさせる仕事なのである。

 たしかに以前、カールに盛られた毒の経路を探るために一度だけリュウイチが他の上級貴族パトリキたちと共に足を踏み入れたことはあったが、ああいうのは例外中の例外である。たまに美食家の貴族が料理法について蘊蓄うんちくを語ったり本を書いたりしているが、彼らにしても実際のところは厨房の外で料理人にあれこれ注文したり話を聞いたりするだけで、実際に厨房に足を踏み入れている例はそれほどなかったりするのだ。


 そんなところへこの世界ヴァーチャリアで最も高貴な降臨者様を、本人が望まれたからと言って招き入れていいのか?


 ネロたちが答えに苦しむのも無理はないだろう。答えに困っているネロたちを見てリュウイチは顎に手を当て、考えながらふと窓の外へ視線を移した。


『ああ、そっか…厨房で働いている人たちが迷惑するか…』


「い、いや旦那様ドミヌスが迷惑だなんてとんでもありません!」

「そうです!ただ、あそこは旦那様ドミヌスみてぇな方が行くような場所じゃあ…」

「そうそう、あんな臭ぇ場所に行くことなんかねぇですよ!」


『そうは言ってもな…』


 リュウイチはそのまま窓の外を眺めながら顎をさする。朝から結構な勢いで降っていた霧雨はとっくに止んでおり、今は清々しいくらいの晴れ間がのぞいていた。庭園ペリスティリウムに植えられた晩秋の花は今朝の雨に濡れたまま光を陽の光を受けてみずみずしく輝いて見える。


『よし、じゃあ外で焼こう!』


「はっ!?」

「え、外で!?」

「外でって庭園ペリスティリウムで!?」


 彼らの知るケーキプラケンタは菓子の中でも手の込んだものだ。道具や材料の整った厨房で、腕の良い料理人が時間をかけてようやく出来る物である。だというのにリュウイチは今目の前にいるお腹を空かせた女の子のために、何もない庭園でスキルも使わずにケーキを焼くと言う。


 いくらなんでも…いや、《レアル》の叡智えいちなら出来るのか?

 ああ、《暗黒騎士リュウイチ》様なら出来るのかもしれない。いや、出来るんだろう。

 だけど、それっていいのか?

 《レアル》の叡智を用いた食べ物を作る…それは大協約で禁じる「恩寵おんちょうの独占」に抵触するんじゃないのか?


 狼狽えるネロたちの様子が目に入らないかのようにリュウイチは窓の外を見たまま注文を出し始めた。


『うん、簡単だよ。

 道具と材料借りてきてくれないか?

 材料は小麦粉と卵と牛乳と砂糖と、あとバターとハチミツ?

 油もあった方が良いかな?』


「お、お待ちください!

 旦那様ドミヌスが手づから料理をなさるとなると…」


『例の「恩寵の独占」とか言う話?

 そんな大層なものじゃないし、多分みんなが知らないだけでとっくにこっちに伝わってる物だと思うよ。

 それにレシピとかならすぐに誰でも真似ることぐらいできるんだから、秘密にしたり独占したりしなけりゃ「恩寵の独占」ってことにはならないんじゃないの?』


 言ってることは間違いない。純然たる知識で誰でも真似ることができるようなものなら、ムセイオンに報告しさえすればよいのだ。

 ネロたちは再び奴隷たち同士で顔を見合わせた。


『エルゼちゃんだってホットケーキ食べたいよな?』


 リュウイチは身体を折って笑顔でエルゼの顔を覗き込んだ。もちろん、この時リュウイチが期待したのは「うんヤー」と言う返事である。しかし、エルゼの反応は少し違った。


「パンクーヘン?」


 どうやらエルゼはホットケーキを知っていたようである。エルゼの言った「パンクーヘン」という言葉は、念話によってリュウイチの頭の中にホットケーキそのまんまのイメージを結んだ。が、エルゼはリュウイチの顔を不思議そうな顔で見返してくる。


『そう…食べたいよね~?』


 リュウイチの愛想笑いも虚しく、エルゼは首を横に振った。


「あのね、パンクーヘンは卑しい人のケーキクーヘンなの。

 だからエルゼは食べちゃいけないの。」


 三歳児の辛辣しんらつな言葉にリュウイチもネロたちも一瞬で凍りついてしまった。どうやらエルゼの教育を担っている家庭教師グヴェルナンテはエルゼを貴族としてしつけることに随分と精力を傾けているらしい。


 確かにパンケーキはリュウイチが予想したように既に《レアル》から伝わってきている食べ物の一つだ。他に様々な料理やお菓子のレシピが伝わってきているというのに、あれだけシンプルで世界的にポピュラーな食べ物が伝わって来てないわけがない。

 だが、安価な材料で簡単に作れるシンプルな菓子であるがゆえに庶民の間でも普通に広まって定着しており、そうであるがゆえに貴族は食べない傾向がある。貴族とは権威でなければならず、威厳を保たねばならない。それは身につける物や立ち居振る舞い、そして食べる物において、庶民には容易に真似できない隔絶した存在であることを示すことによって成されるのだ。ゆえに、貴族たちは必然的に庶民のための食べ物や飲み物をなるべく避け、庶民には手の届かない物を好んで口にするようになる。


 おそらくエルゼは使用人か、あるいは外の者がパンケーキを食べているのを見たことがあるのだろう。そしてそれを欲しがったのかもしれない。だが、それは決して貴族的とは言えない。

 それに、貴族の子供に安易にお菓子などを与えれば、子供はその者に好意を抱くようになるだろう。それは見方を変えればと同じだ。ただでさえ使用人が自分の子供に優しく接し愛情を注ぐことを嫌うのが貴族である。

 使用人が自分のオヤツにパンケーキを食べているところをうっかり見られてしまった。かといって子供にパンケーキを与えれば間違いなく主人に叱られる。卑しい庶民用のお菓子で貴族の子を餌付けしたと…となれば、何とか与えずに済む方法を考えねばならない。そこでこう言うわけだ…


 あれは卑しい者たちの卑しい食べ物です。高貴な身分の方が口にしてよいものではありません。


 三歳のエルゼは大人に言われたことを批判的に評価する力などないのだから、当然のようにそれを素直に受け入れてしまったわけだ。

 しかし、この世界ヴァーチャリアで最も高貴な降臨者に向かって二度までも「卑しい人」などと言い、その好意を無下に断るなどあってはならない。これで《暗黒騎士リュウイチ》を怒らせでもしたらとんでもないことになってしまう。わずか三歳の子供のために世界が破滅しかねない…


旦那様ドミヌス…これはその…」


 顔を青くしたネロが必死で言いつくろおうとするのを、リュウイチはサッと手をかざして止めた。奴隷たちはそれを見て一斉に唾を飲み込み、身を固くする。


『大丈夫…そっかぁ…じゃあどうしよっかな…

 そうだ!バウムクーヘンはどうだい?

 バウムクーヘンなら大丈夫かな?』


 リュウイチは特に機嫌を損ねたような様子もなく、めげずに尋ねた。

 バウムクーヘンならリュウイチは子供の頃に作った記憶があった。地域の子供会か何かのイベントで、キャンブ場でホットケーキの生地を竹竿に塗りながら焚火であぶって焼いただけのもので、職人が作ったバウムクーヘンや店で売ってるようなモノには到底敵わないが、しかし作れたのは事実だし作り方も憶えている。


「ばうむ…クーヘン?」


 エルゼはバウムクーヘンを知らなかったようだ。小首をかしげてリュウイチを訊き返すが、エルゼの言葉はリュウイチの頭の中に何のイメージも結ばない。


『そ、バウムクーヘン…あれなら大丈夫だろ?』


 リュウイチのバウムクーヘンがどういうものか知らないエルゼはどう答えたらいいか分からず首を傾げるだけだった。


 よし、駄目じゃないならイイだろ…


 一人で満足したようにリュウイチは身体を起こすとパンと胸の前で両手を打った。どうやら作るのは決まったようだと察したネロが恐る恐る尋ねる。


旦那様ドミヌス、それは…あのぅ…旦那様ドミヌスが御作りになるのですか?」


 ネロたちはバウムクーヘンを知らない。リュウイチがケーキを作ると言うからにはケーキなのだろう。ドイツ語でケーキを指す「クーヘン」と言ってるし…

 しかし、それがどういうものであるかわからない以上、やはり不安はあった。作るのが《暗黒騎士リュウイチ》で、しかもそれを食べさせようと言うのが侯爵令嬢エルゼ・フォン・アルビオンニアとなれば、何か間違いが起こる可能性があるのならなるべく未然に排除せねばならない。


『うんっ…いや、いっそみんなで作ろうか!』


 リュウイチが初めてバウムクーヘンづくりに挑戦したのは、地域の子供会のイベントだった。それを思い出したリュウイチはその時のようにその場でいるみんなで作るのが良いと思いつき、嬉しそうに笑みを浮かべながら明るい声で言った。

 それに驚いたのは奴隷たちである。彼らは元軍団兵レギオナリウスである以上、料理くらいはしたことあるがケーキを作った経験など持ち合わせてはいない。


「「「みんなで!?」」」


『そう!エルゼちゃんも一緒にケーキ作ろっか?』


うんヤーっ、ケーキ作る!!」


 エルゼはようやく笑顔を見せて「うん」と言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る