第597話 予定変更
統一歴九十九年五月六日、昼 -
「え、作るんですか!?」
リュウイチの『よし、作っちゃおうか』の一言にネロは驚いた。
『うん、簡単だし?』
「いや、お待ちください
ネロが慌ててリュウイチに思いとどまらせようとすると、リュウイチは両手を広げて笑って見せた。
『まさか、スキルなんか使わないよ。
ちゃんと小麦粉と卵と牛乳で生地を作って焼くのさ。
台所を借りれるかな?』
立ち上がり、両手を腰に当てて伸びをするように胸を張って上体を左右に捻りながらリュウイチが言うと、ネロ以外の奴隷たちも慌て始める。
「え、
「そんな、待ってください!」
『え、何かまずい?』
意外なくらいに奴隷たちが
たしかに以前、カールに盛られた毒の経路を探るために一度だけリュウイチが他の
そんなところへ
ネロたちが答えに苦しむのも無理はないだろう。答えに困っているネロたちを見てリュウイチは顎に手を当て、考えながらふと窓の外へ視線を移した。
『ああ、そっか…厨房で働いている人たちが迷惑するか…』
「い、いや
「そうです!ただ、あそこは
「そうそう、あんな臭ぇ場所に行くことなんかねぇですよ!」
『そうは言ってもな…』
リュウイチはそのまま窓の外を眺めながら顎をさする。朝から結構な勢いで降っていた霧雨はとっくに止んでおり、今は清々しいくらいの晴れ間がのぞいていた。
『よし、じゃあ外で焼こう!』
「はっ!?」
「え、外で!?」
「外でって
彼らの知る
いくらなんでも…いや、《レアル》の
ああ、《
だけど、それっていいのか?
《レアル》の叡智を用いた食べ物を作る…それは大協約で禁じる「
狼狽えるネロたちの様子が目に入らないかのようにリュウイチは窓の外を見たまま注文を出し始めた。
『うん、簡単だよ。
道具と材料借りてきてくれないか?
材料は小麦粉と卵と牛乳と砂糖と、あとバターとハチミツ?
油もあった方が良いかな?』
「お、お待ちください!
『例の「恩寵の独占」とか言う話?
そんな大層なものじゃないし、多分みんなが知らないだけでとっくにこっちに伝わってる物だと思うよ。
それにレシピとかならすぐに誰でも真似ることぐらいできるんだから、秘密にしたり独占したりしなけりゃ「恩寵の独占」ってことにはならないんじゃないの?』
言ってることは間違いない。純然たる知識で誰でも真似ることができるようなものなら、ムセイオンに報告しさえすればよいのだ。
ネロたちは再び奴隷たち同士で顔を見合わせた。
『エルゼちゃんだってホットケーキ食べたいよな?』
リュウイチは身体を折って笑顔でエルゼの顔を覗き込んだ。もちろん、この時リュウイチが期待したのは「
「パンクーヘン?」
どうやらエルゼはホットケーキを知っていたようである。エルゼの言った「パンクーヘン」という言葉は、念話によってリュウイチの頭の中にホットケーキそのまんまのイメージを結んだ。が、エルゼはリュウイチの顔を不思議そうな顔で見返してくる。
『そう…食べたいよね~?』
リュウイチの愛想笑いも虚しく、エルゼは首を横に振った。
「あのね、パンクーヘンは卑しい人の
だからエルゼは食べちゃいけないの。」
三歳児の
確かにパンケーキはリュウイチが予想したように既に《レアル》から伝わってきている食べ物の一つだ。他に様々な料理やお菓子のレシピが伝わってきているというのに、あれだけシンプルで世界的にポピュラーな食べ物が伝わって来てないわけがない。
だが、安価な材料で簡単に作れるシンプルな菓子であるがゆえに庶民の間でも普通に広まって定着しており、そうであるがゆえに貴族は食べない傾向がある。貴族とは権威でなければならず、威厳を保たねばならない。それは身につける物や立ち居振る舞い、そして食べる物において、庶民には容易に真似できない隔絶した存在であることを示すことによって成されるのだ。ゆえに、貴族たちは必然的に庶民のための食べ物や飲み物をなるべく避け、庶民には手の届かない物を好んで口にするようになる。
おそらくエルゼは使用人か、あるいは外の者がパンケーキを食べているのを見たことがあるのだろう。そしてそれを欲しがったのかもしれない。だが、それは決して貴族的とは言えない。
それに、貴族の子供に安易にお菓子などを与えれば、子供はその者に好意を抱くようになるだろう。それは見方を変えれば餌付けと同じだ。ただでさえ使用人が自分の子供に優しく接し愛情を注ぐことを嫌うのが貴族である。
使用人が自分のオヤツにパンケーキを食べているところをうっかり見られてしまった。かといって子供にパンケーキを与えれば間違いなく主人に叱られる。卑しい庶民用のお菓子で貴族の子を餌付けしたと…となれば、何とか与えずに済む方法を考えねばならない。そこでこう言うわけだ…
あれは卑しい者たちの卑しい食べ物です。高貴な身分の方が口にしてよいものではありません。
三歳のエルゼは大人に言われたことを批判的に評価する力などないのだから、当然のようにそれを素直に受け入れてしまったわけだ。
しかし、
「
顔を青くしたネロが必死で言い
『大丈夫…そっかぁ…じゃあどうしよっかな…
そうだ!バウムクーヘンはどうだい?
バウムクーヘンなら大丈夫かな?』
リュウイチは特に機嫌を損ねたような様子もなく、めげずに尋ねた。
バウムクーヘンならリュウイチは子供の頃に作った記憶があった。地域の子供会か何かのイベントで、キャンブ場でホットケーキの生地を竹竿に塗りながら焚火であぶって焼いただけのもので、職人が作ったバウムクーヘンや店で売ってるようなモノには到底敵わないが、しかし作れたのは事実だし作り方も憶えている。
「ばうむ…クーヘン?」
エルゼはバウムクーヘンを知らなかったようだ。小首を
『そ、バウムクーヘン…あれなら大丈夫だろ?』
リュウイチのバウムクーヘンがどういうものか知らないエルゼはどう答えたらいいか分からず首を傾げるだけだった。
よし、駄目じゃないならイイだろ…
一人で満足したようにリュウイチは身体を起こすとパンと胸の前で両手を打った。どうやら作るのは決まったようだと察したネロが恐る恐る尋ねる。
「
ネロたちはバウムクーヘンを知らない。リュウイチがケーキを作ると言うからにはケーキなのだろう。ドイツ語でケーキを指す「クーヘン」と言ってるし…
しかし、それがどういうものであるかわからない以上、やはり不安はあった。作るのが《
『うんっ…いや、いっそみんなで作ろうか!』
リュウイチが初めてバウムクーヘンづくりに挑戦したのは、地域の子供会のイベントだった。それを思い出したリュウイチはその時のようにその場でいるみんなで作るのが良いと思いつき、嬉しそうに笑みを浮かべながら明るい声で言った。
それに驚いたのは奴隷たちである。彼らは元
「「「みんなで!?」」」
『そう!エルゼちゃんも一緒にケーキ作ろっか?』
「
エルゼはようやく笑顔を見せて「うん」と言った。
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