第596話 パンケーキ!?

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



「あ、おい…」


 ネロが戸惑いながら小声で止めるのにも気づかず、ゴルディアヌスはサッと厨房クリナ目指して駆け出していた。かつてアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアで一、二を争う無頼漢として知られた男がドタドタと騒々しく外へ飛び出して行くと、小食堂トリクリニウム・ミヌスは再び静けさを取り戻す。


『もう要らない?

 もっと食べてもいいんだよ?

 それとも、他のがいい?』


「‥‥‥甘いのがいい。」


 リュウイチがポテトを差し出しながら尋ねると、エルゼは差し出されたポテトを受け取りながら答え、ポテトを口に運んだ。

 食卓メンサの上のポテトは既にあらかた片付いており、残るはフィッシュだけである。フィッシュの方は最初の一口に酢が染み込み過ぎていたせいか、不味い物だと思い込んでしまったようで、フィッシュをジッと見るエルゼに『食べる?』と訊いても首を振るだけだった。


『そっか…もうすぐ甘い飲み物が来るからね?』


 リュウイチがそう言うとエルゼはコクンと頷いた。リュウイチはそのままフィッシュを摘まんで自分の口に運ぶと、エルゼはその様子をジッと見ている。


 やっぱり食べたいのかな?


 衣はサクサクしているのに中の魚は柔らかく、上手に揚がっている。天麩羅とは微妙に異なる風味の揚げ物を黒ビールで流し込みながら、リュウイチは横目でエルゼの視線を観察した、


『やっぱり食べる?』


 エルゼはどうやら本当に酸っぱい物がキライらしく、フルフルと肩まで揺らすように激しく首を振った。


『そっかぁ』


 リュウイチが少し残念そうに言いながら最後のフィッシュを摘まみ上げて口に運ぶと、エルゼはリュウイチをジッと見上げて言った。


「…ケーキクーヘンがいい」


『ケーキ?』


「うん、甘いの」


 リュウイチはネロやネロと一緒に並んで待機している奴隷たちと顔を見合わせた。しかし、ただの奴隷でつい先月まで軍団兵レギオナリウスだった彼らに上級貴族パトリキの生活習慣や文化について知見があるわけもない。


『いつもお昼にケーキ食べてるの?』


 リュウイチが尋ねるとエルザはフルフルと首を振ってから、自分の顔を覗き込むリュウイチの顔をジッと見上げて答えた。


「お昼はね…食べないの。

 お昼を食べるのはね、卑しい人なの。」


『・・・・・・』


 今まさに昼食ブランディウムを食べていた本人に面と向かって言う幼女の言葉にネロたちの顔がサーッと青くなる。


ケーキクーヘンを食べるのはお茶の時間ティーツァイト

 朝ごはんフルシュトゥク食べて、いっぱい遊んだからお茶の時間なの。」


 レーマでは朝夕の一日二食が基本で昼食は間食扱いで、貴族ノビリタスはそれらとは別に夕食ケーナ後に酒宴コミッサーティオを開いたりする。ただし、古いキリスト教の教えを守るランツクネヒト族の聖職者と貴族は昼食ディナー夜食サパーの一日二食を基本としている。なお、肉体労働者が多い一般庶民プレブスはそれでは体力的にキツイので朝昼晩の一日三食を普通に摂っている。

 だがアルビオンニア侯爵家はそれらとは少し違う独特な習慣を持っていた。朝と昼の間ぐらいに朝食を摂り、午後に間食、そして夕食…場合によってはその後に酒宴を開く。これは一日二食という伝統を守りながら、かつ非キリスト教徒のレーマ貴族との交流をするうえで時間を合わせやすくするためだった。昼にガッツリ食べて夜に少しだけ食べる古い習慣を維持したままでは、昼は間食扱いで夜にガッツリ食べるレーマ貴族との交流に色々と支障をきたすのである。そこで、昼以降に会う事の多いレーマ貴族の習慣に合うように、昼はレーマ貴族と同じくほぼ間食とし、夜はガッツリとした夕食にする。すると朝を食べないわけにはいかないが、せめてキリスト教の教えで求められた「断食ファースト」の時間をなるべく多く確保するために朝と昼の間の中途半端な時間にブランチを摂るようになっていたのだった。


 そして今朝、侯爵家はカールと日曜礼拝を共にするためにマニウス要塞カストルム・マニに来ており、リュウイチの住む陣営本部プラエトーリウムに宿泊させてもらっている。なので、リュウイチの食習慣に合わせていつものブランチよりもずっと早い朝食を摂っていた。

 だが、エルゼはそういう小難しいことは分からない。いつもより早い時間に朝食を摂ったことに気付いてはいたが、いつも間食を摂っている「お茶の時間」がまだ先であることは知らない。ただ、朝食を摂ってから経った時間の感覚からすると、そろそろお茶の時間の筈なのである。


『お茶の時間なのかい?』


 リュウイチに訊かれるとエルゼはコクンと頷いた。


お茶ティーを飲んで、ケーキクーヘンを食べるの。」


『ケーキある?』


 リュウイチはネロを見た。リュウイチの視線にネロは首を振る。

 侯爵一家は予定では昼前にはもうティトゥス要塞カストルム・ティティへ帰ることになっていたのだ。だから侯爵家の家族たちのための食事は今朝の朝食の分までしか用意していない。ましてやケーキなんて用意するわけもない。


『急いで用意できるかな?』


「さすがにケーキプラケンタは…」


 簡単な菓子ぐらいなら何とかなるかもしれないが、手の込んだケーキとなると常識的に考えてそう簡単には出来ないだろう。ネロは料理はしないが、一応下級貴族ノビレス出身なだけあって実家で母がケーキを作ってくれたことが何度かあり、それが下手すると半日くらいかかる大仕事な事は知っていた。


『ホットケーキくらいなら出来ないかな?』


ホットケーキリブムですか…』


 リュウイチの言った「ホットケーキ」という単語は念話によってネロの頭の中でリブムという菓子のイメージに変換されて伝わった。リブムは《レアル》古代ローマから伝わった伝統的なチーズケーキの一種であり、特に神に捧げるためのケーキとして様々な祭祀にも用いられている。ローマ文化、そしてレーマ文化では最もポピュラーな菓子の一つだ。

 作り方はいたってシンプルでチーズを乳鉢にゅうばちりつぶすようにねてクリーム状にし、それを別の大きな鉢に移してフスマを取り除いた白い小麦粉を加えて手でよく練り込む。チーズと小麦粉を練り込んだ生地に溶いた生卵を加えて更に練り込む。この時、生地が柔らかくなりすぎるようなら小麦粉を足してパン生地やパイ生地くらいの硬さを保つ。十分に捏ねた生地を薄くて丸い円盤状に成形し、それを香りづけのために並べた月桂樹げっけいじゅの葉の上に乗せてオーブンで焼くのである。基本のレシピはそれだけだが、生地にハチミツを練り込んで甘みを加えたり牛乳を練り込んだりと色々なバリエーションがある。オーブンで焼くのでホットケーキの様な焼き色は付かないが、それ以外の見た目は確かにホットケーキによく似ている。


 たしかにリブムなら急げば半時間もかからない…のか?


 ネロがリュウイチに答えるために頭の中で考えていると、リュウイチは「ホットケーキ」という単語が通じてないと勘違いし、慌てて訂正した。


『ああ!いやっ…えっと、パンケーキって言うんだっけ?

 パンのケーキ?』


パンパニスケーキプラケンタ!?」


 リュウイチはホットケーキは海外ではパンケーキと呼ぶらしいということは知っていたが、同時に大きな勘違いをしていた。「パンケーキ」の「パン」が食べ物の「パン」だと思い込んでいたのだ。食べ物の「パン」という呼び方は元々ラテン語の「パニス【Panis】」がロマンス諸語へそれぞれ変化し(例えばイタリア語の「パーネ【Pane】」、フランス語のパン【Pain】」など)、そのうちポルトガル語の「パオン【Pão】」が鉄砲と共に日本に伝来して定着したものである。英語由来ではない。

 では「パンケーキ【Pancake】」の「パン【Pan】」は何かというと、フライパンなどの平たい鍋や容器のことである。フライパンで焼くケーキだからパンケーキと言うのであって、パンのケーキではない。日本で「パン」と呼ぶ食べ物は英語では「ブレッド【Bread】」なのだから、もし本当に「パンのケーキ」なら「パンケーキ」じゃなくて「ブレッドケーキ」にならなければおかしい。

 なお、日本でパンケーキが「ホットケーキ【Hotcake】」と呼ばれるようになった理由は諸説あってはっきりしていない。

 とまれ、リュウイチの勘違いに基づくこの訂正によって、ネロたちは混乱してしまう。


 パンパニスケーキプラケンタって何だ!?

 リブムじゃなかったのか!?


 ネロは隣にいた他の奴隷たちと顔を見合わせるが、皆それが何なのか訳が分からなかった。


『あれ?…ひょっとして、無いのかな?』


「その、旦那様ドミヌス

 すみませんがパンパニスケーキプラケンタってのがどういうものかわかりません。」


 ネロは素直に降参すると、リュウイチは顎に手を当てて数秒考えて言った。


『じゃあ、作っちゃおうか!』

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