第595話 迷いこんだエルゼ

統一歴九十九年五月六日、昼 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 窓から覗いていたのはエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人の娘で次女のエルゼだった。兄カールと一緒に日曜礼拝を行うためにここへ来て、本来なら昨日のうちに母と共にティトゥス要塞カストルム・ティティへ帰るはずだったのだが、日曜礼拝の毒ロウソク事件を受けてエルネスティーネがもう一泊したため、エルゼもここへ残っていたのだった。そしてエルネスティーネは昨夜のアルビオンニウムでの戦闘を受け、朝から緊急で要塞司令部プリンキピアで家臣団を集めて会議をしており、その間することもなくて朝から空いている部屋で遊んでいた筈なのだが、どうやら抜け出してきたらしい。

 リュウイチと目が合うとパッと顔を引っ込めたが、髪飾りが窓の縁から覗いている。


『あれ、えっと…エルザちゃんだっけ?』


「エル様です、旦那様ドミヌス


 リュウイチが視線を食卓メンサに戻しながら尋ねると、ネロは窓の方を見たまま答えた。リュウイチはそのままポテトを摘まんで口に運ぶ。


『エルネスティーネさんはまだ会議から戻らないのかな?』


「会議が長引いておられるようです。」


 ネロが答えながら視線を戻すと、エルゼは再びそぉ~っと顔を覗かせてリュウイチの様子をうかがいはじめる。


 要塞司令部で行われている会議は本当ならとっくに終わってなければおかしかった。昨夜、リュウイチの実況中継で分かったアルビオンニウムの情勢を家臣団で共有することが目的であり、大まかな方針を決定したあと細部の調整を家臣団たちに任せ、エルネスティーネは先に退出して家族と共にティトゥス要塞へ帰るはずだったのだ。ところが、リュウイチの降臨とルクレティアが聖女サクラになったことがイェルナクにバレてしまったと言うサウマンディアからの情報が届いてしまった。おかげで今後どういうことが想定されるか、どう対処すべきかを急いで検討しなければならなくなったのだった。


 しかし、陣営本部に残されたままの子供たちにはそんなことは関係ない。長男のカールはまだ新しい家庭教師グヴェルナンテの下で勉強していたし、一番年上の姉ディートリンデは十歳になるだけあって落ち着きもあり、どうやら自室で本でも読んでいるらしい。末娘のカロリーネはまだ乳飲み子だ。だが好奇心旺盛な三歳のエルゼには退屈に耐える力は無かった。


 本当は面倒をみる専属の乳母キンダーメディヒェンが居るのだが、彼女にしろ他の侍女たちにしろ、昨日の騒ぎの疲労が抜けきらない彼女たちにとって、三歳の娘を退屈させないでいつづけるには突然できてしまった空白の時間はあまりにも長すぎた。そもそも、使用人は主人の子弟と遊んだりしない。子供に愛情を注いでいいのは親だけであり、子供が親以上に使用人と密接になっては教育上色々問題が生じるため、一般に使用人は主人の子供と仲良くしてはならないものなのだ。使用人で子供と仲良くして良いのは乳母や家庭教師等のごく一部の例外ぐらいなものである(乳母や家庭教師でも一定以上の距離感を保つことが求められる)。それなのにいきなりエルゼの子守をするように言われたのだから、色々と齟齬そごが生じるのもやむを得ないだろう。

 乳母のロミーは室内で道具無しで出来る幼児用の遊びのネタを使い果たしてしまっていたし、何よりも昨日の礼拝中に毒煙を吸わされてしまった影響から立ち直れていなかった。他の侍女たちも子供の相手に不慣れなため、エルゼを持て余した。なにせ優しくしすぎ、楽しませすぎて仲良くなりすぎてしまってはいけない。かといって何もせずに放置するわけにもいかない。普通の子供の相手とは勝手が違う。そしてエルゼは侍女たちに退屈し、カクレンボフェシュテクシュピエの途中で部屋から逃げ出して来てしまっていたのだった。


 リュウイチも普段ならば三歳の他人の子供なんか気にすることはない。まさかこの陣営本部の中で上級貴族パトリキの子供を誘拐したり害をなそうとする者がいるとは思えないし、そもそも日本人であるリュウイチは他人の子供に下手に構って問題になってしまわないよう、なるべく無視する習慣があった。

 だが、リュウイチはここんところずっと暇を持て余していた。おまけに彼の身の回りに居るのは大人ばかりであり、リュウイチを下にも置かぬ扱いをしながらも常に一定の距離を保つ…悪く言えば腫物はれものに触れるような付き合い方をする人間がほとんどだった。

 リュウイチが下手に距離を縮めようとすると、彼らは遠ざかろうとする。向こうは向こうなりに距離を縮めてこようとはするのだが、その方法はどこか貴族的で、庶民育ちのリュウイチからすると思わず身構えたくなるようなものばかりだった。それだからか、どこかで人間的な付き合いに飢えてしまっていたのかもしれない。


 そこへ現れたのがエルゼだった。貴族の子とは言え、まさか三歳の子供はそんなことはないだろう。


『エルゼちゃん、どうしたの?』


「!・・・・・・」


 リュウイチが窓から覗いているエルゼの方に声をかけると、エルゼはまたヒョイと顔を隠した。しかし、相変わらず髪飾りが窓枠から覗いている。ネロはどうすべきかわからず、ソワソワし始める。


 いくらなんでも降臨者様相手にあの態度は…でも、子供だし…

 いや、放置して何か問題があっては…しかし侯爵令嬢にどう注意すれば?


『そんなとこに居ないで、入っておいで』


 ネロは迷っているうちにリュウイチがエルゼを呼び込みはじめたため驚き、慌てた。さすがに、いくら貴族の子とは言えあの年頃の子供は何をしでかすか分からない。貴族の子がある程度の年齢に達するまでは社交界にデビューすることなく、来客の際も客から隠されるのにはそれなりの理由があるのだ。

 なのに、今この場に侯爵家で礼法を身につけた家族も使用人も居ないのに、このような子を高貴極まる降臨者と会わせてもしも粗相そそうがあったらどうすればよいのか!?


旦那様ドミヌス!?」


『いいから、いいから』


 狼狽うろたえたネロが迷っているうちに、エルゼは素直に入ってきた。


『どうしたのかな?お腹が空いた?』


 リュウイチが尋ねるとエルゼはジィーっと母親似の大きな目でリュウイチを見たまま、コクンと頷いた。


『こっちにおいで!』


 エルゼを呼び寄せると、リュウイチは自分の隣に座らせる。そしてポテトを一切れ取って『食べる?』といって渡すと、エルゼはポテトとリュウイチの顔を見比べてから、おずおずと受け取ってパクっと食べ始めた。


旦那様ドミヌス、よろしいのですか?」


 リュウイチは既に半分くらいは食べていたが、元々用意されたフィッシュ・アンド・チップスの量もさほど多かったわけではない。贅沢を好まないリュウイチの意向で、あまりたくさん作りすぎないようにしていたのだ。


『いいからいいから、おいしい?』


「…しょっぱい…」


 食べっぷりからすると不味いわけではなさそうだが、普段食べているものより塩気が強かったようだ。塩はポテトを揚げ終えてからまとめてパッと振っていたため、味が濃い物と薄い物でバラつきができてしまっていたので、もしかしたら味の濃いものを口にしてしまったのかもしれない。


『こっち食べる?』


 リュウイチは今度はフィッシュの方を手に取って手渡した。エルゼは先ほどと同じようにパクっと勢いよく口にしたが、急に顔をしかめるとウエッと吐き出してしまった。吐き出された食べかけのフィッシュが床に落ちる。


「あっ!?」

『ああ!?…どうしたの?変な味がした?』


 エルゼは顔をしかめたまま頷き、「ひゅっぱい」と言った。どうやら、酢が染み込みすぎた部分を口にしてしまったようだ。


『酸っぱいの嫌い?』


 そう訊きながらリュウイチが床に落ちたフィッシュに手を伸ばそうとすると、ネロがバッと飛び出してきて先に掴んで拾いあげる。


 レーマでは床に落ちた食べ物は死者に捧げられたものと見做みなされる。つまり、一度でも床に落ちた食べ物はもう冥界の食べ物なのだ。そして冥界の食べ物を食べた者は、冥界に永久に囚われるとされている。よって、生者は冥界の食べ物を絶対に食べてはならない。

 リュウイチが落ちた食べ物を拾って、さすがに食べるかもとはネロも思わなかったが、それでも冥界の食べ物に触れた手で別の食べ物を手に取り食べれば、手についた冥界の食べ物の欠片を気づかずに口にしてしまうかもしれない。だからネロは慌ててリュウイチよりも先に拾いあげ、リュウイチが触れないようにしたのだった。


 ネロのその行動に驚きはしたものの、リュウイチは特にネロを気にする風でもなく、エルザの方を見るとエルザはコクンと頷いた。


『そっかぁ…じゃあしょうがないね。

 でも、嫌いだからって食べ物を投げ捨てちゃいけないよ?』


 リュウイチは優しくそう言いながらポテトを摘まんで手渡すと、エルゼは何か訴えたそうな目でリュウイチを見ながらコクンと頷き、ポテトを食べる。だが、与えれば与えるほどパクパク食べるのだが、どこか辛そうにも見えなくもない。


旦那様ドミヌス、ひょっとして喉が渇いてんじゃないですかね?」


『なるほど、何か飲む?』


 ネロと一緒に並んで待機していた奴隷のゴルディアヌスに言われて気づいたリュウイチが問いかけると、エルゼは円卓の上の黒ビールを見てコクンと頷いた。


『そう…あ、でも黒ビールコレは駄目だよ?

 これは大人の飲み物だからね…


 ゴルディアヌス、この子に何か飲み物を用意できる?』


 エルゼの視線に気づいたリュウイチが飲みかけの黒ビールの入ったコップをエルゼから遠ざけながら言うと、ゴルディアヌスは自分の予想が当たったことに気を良くしたのか、このどこか粗暴な男に似合わずニッと笑った。


「へぃっ、果汁飲料ティーフルトゥムがあると思いやすんで、持ってきます!」

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