第588話 遠隔地の朝
統一歴九十九年五月六日、朝 -
日の出前から重く分厚い雲が垂れこめているらしく、外は明るくはあるが空は見えない灰色の世界。霧にしては粒が大きく、霧雨にしては勢いのない何とも言いがたいモノによってあらゆるものが重く湿り、影の無い地面は全面がしっとりと濡れている。この季節にしては生暖かい風によって海上から運ばれてきた湿った空気は、アルトリウシアの
こういう朝は起き出したくないという衝動を掻き立ててくれる。重くて湿った空気は、しかし乾燥した空気よりもよっぽど呼吸を楽にする。そして意外なくらい眠りを深いモノへとしてくれるようでもあった。また暖かいベッドの中は、それこそ母の胸に抱かれているかのような安心感をもたらしてくれる。そこから出たくない…誰もにそう思わせるのは、やはり哺乳動物の本能のなせるわざなのであろう。
だが、朝起きないでいるという選択肢は
その中でももっとも忙しいのは
昨夜、晩餐が中断になったのはアルビオンニウムでの事件を受けてのことであった。当初、晩餐は何の問題も無く
元々
アルトリウスのお抱え料理人ルールスの奮闘によって必要な料理は用意できたのだが、量を水増しするために当初用意していた料理に別の料理を付け加えるという奇妙なメニュー構成になってしまった。
「どうかなさいましたか?」
今回の晩餐ではエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人は招待された側ということにはなっているが、実際のところはエルネスティーネはヴァーチャリア世界を代表して降臨者リュウイチを歓待する立場でもある。リュウイチに何か不快に思うようなことがあってはならない。
エルネスティーネがいち早く気づいて尋ねると、リュウイチは
『いや、《
その一言に、同席していた大人たちの顔に一瞬で緊張が走る。リュウイチをはそれを見て続きを言うべきか言うまいか迷ったが、数秒黙ったまま考えた後にやはりいう事にした。
『《地の精霊》が報告してきました。戦が始まったと…』
その後、いくつかの問答がなされたのちに、どうやらアルビオンニウムで只事ではない事件が起きていると察した一同は
晩餐が行われていたのとは別の
このヴァーチャリア世界において初めての遠隔地での戦闘のリアルタイム実況…それは彼らにとって新鮮かつ斬新な体験であり、それは戦闘の終結する深夜まで続くこととなった。おかげでそれに参加していた者は今朝は皆寝不足になっている。
カール・フォン・アルビオンニア侯爵公子付
もちろん、質問したり発言したりする機会までは与えられない。幕僚たちの後ろに立って話を聞きながら幕僚たちの隙間から地図を見るだけである。彼我の部隊の数や各部隊の名前や指揮官の名前などがわからないのはもどかしかったが、しかし眼前の地図上で起こっているのは、今まさに遠くアルビオンニウムで起こっている戦争そのものだったのである。まだ若い軍人である彼にとって、それは非常に刺激的な体験だった。
実況が終わって全員が引き取った後も、彼の興奮は冷めやらなかった。信じられない体験だった。せっかく
あんな体験、他の将校たちじゃ絶対に出来ないぞ?
結局、眠れないまま朝を迎えてしまっている。今朝、
カールの
「あっ!?」
「し、失礼しました!!」
本来なら上級貴族や上官とすれ違う際はサッと脇に避けるものだが、回廊を歩いていたミヒャエルはちょうど階段を降りて来たリュキスカとぶつかりそうになり、避ける暇も無かった。互いに脚を止めて何とか衝突を回避し、その後でミヒャエルは咄嗟に身を引いて姿勢を正す。
リュキスカはぶつかりそうになったことよりも、その後のミヒャエルのそのビシッとした動きと態度の方に驚いてしまった。何せ彼女はついこの間まで
「ああ、ごめんよ。ぶつかりそうになっちゃって」
「とんでもございません!
リュキスカ様こそ、大事ございませんでしたか?」
リュキスカに道を譲るために壁を背にして直立不動の姿勢をとったミヒャエルはリュキスカの顔を見ることも無く、誰も居ない真正面を見たまま答える。
「ああ、アタイは別に大丈夫さ。
それよりもアンタ、カール様の
たしか、ヒルデブラントさん?」
「ハッ!御記憶いただき恐縮であります。
先日より身に余る大役を拝命いたしております。
どうぞ、ヒルデブラントとお呼びください!」
「ああ、ありがとう…
それでさ、ちょっと聞きたいんだけどさ…いいかい?」
リュキスカはこれから朝食に行く途中だった。もちろん、既に
「ハッ、何なりと!」
「夕べさ、アンタも軍人さんたちと一緒にリュウイチ様からアルビオンニウムの様子を聞いたんだろ?
あれって、どうなったんだい?」
リュキスカは晩餐の後の軍議には参加していなかった。もちろんルクレティアのことは心配だったし気にもなったが、晩餐が中断された後で退席を余儀なくされたのだ。晩餐には侯爵家の子供たちも同席しており、リュウイチが『戦が始まった』と言いだしてから
だからリュキスカは昨夜の話の続きを知らない。ミヒャエルとちょうど会えたのをいいことに話を聞こうと言うのだった。
「そ、それは…」
「…なんだい、話せないのかい?」
身を寄せ囁きかけるリュキスカの体温と体臭が思春期のミヒャエルを刺激する。
ヤバい、耳まで熱くなってきた…
「ぐ、軍機に触れますので…自分には、どこまでお話しして良いかわかりません。」
「そんなこと言わないでさ…ルクレティア様は?ご無事なんだろ?」
「ハッ!それは間違いございません!」
「人死には…たくさん出たのかい?」
「なっ、何人かは…ですが、損害は微小とのことであります!」
「み、みんなは無事なのかい?」
「みんなと申されましても…ゴクリっ」
「ほら、リウィウスさんとかさ…あと、ゴルディアヌスにカルスに…」
「もっ、申し訳ございません。
その方たちについて特にお話はございませんでした!」
ミヒャエルは身体中を駆け巡る血流が一点に集まり出すのを感じていた。それでも直立不動の姿勢を保ったままではあったが、思わず途中から目を閉じて半分
スッと身を引くと…少し残念そうな表情を見せ、素直にミヒャエルに詫びる。
「そう…そうかい…な、なんか呼び止めちゃって悪かったね。
教えてくれてありがとう…じゃあね」
そう言うとリュキスカはミヒャエルの前から去って行った。リュキスカがそこからさほど離れていない食堂へ姿を消したところで、ミヒャエルはフゥーッと盛大に息を吹いてようやく身体から力を抜いて姿勢を崩す。心臓は、まだバクバクと鳴っていた。
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