第588話 遠隔地の朝

統一歴九十九年五月六日、朝 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 日の出前から重く分厚い雲が垂れこめているらしく、外は明るくはあるが空は見えない灰色の世界。霧にしては粒が大きく、霧雨にしては勢いのない何とも言いがたいモノによってあらゆるものが重く湿り、影の無い地面は全面がしっとりと濡れている。この季節にしては生暖かい風によって海上から運ばれてきた湿った空気は、アルトリウシアの陰鬱いんうつな朝を演出していた。

 こういう朝は起き出したくないという衝動を掻き立ててくれる。重くて湿った空気は、しかし乾燥した空気よりもよっぽど呼吸を楽にする。そして意外なくらい眠りを深いモノへとしてくれるようでもあった。また暖かいベッドの中は、それこそ母の胸に抱かれているかのような安心感をもたらしてくれる。そこから出たくない…誰もにそう思わせるのは、やはり哺乳動物の本能のなせるわざなのであろう。


 だが、朝起きないでいるという選択肢はこの世界ヴァーチャリアの住民にはまず無いと言って良い。特に貴族ノビリタスに仕える使用人ともなれば、よほど体調を崩しても居ない限り起きないでいることなど許されよう筈も無かった。

 けぶるような霧の中でも、使用人たちが朝の支度を整えるために忙しく働く生活音はいつもと変わらず鳴り響いている。もちろん、主人の朝の目覚めを邪魔することのないよう、声や音はなるべく控えていることは言うまでも無い。

 その中でももっとも忙しいのは厨房クリナだ。朝食イェンタークルムの用意に大わらわになっている。とはいっても、晩餐ケーナの用意ほど忙しいと言うわけではない。朝食で出す料理は基本的に昨夜の残り物であり、温めなおして配膳しなおすだけだからだ。それでも、昨夜は侯爵家一家が宿泊したこともあって、用意すべき食事の量は普段の三倍ほどもある。おまけに昨夜は晩餐が中断してしまったため、手を付けるどころか食卓に出されもしなかった(そして今朝出すことになった)料理がかなり余っていたのだ。


 昨夜、晩餐が中断になったのはアルビオンニウムでの事件を受けてのことであった。当初、晩餐は何の問題も無くなごやかな雰囲気で進んでいた。

 元々ティトゥス要塞カストルム・ティティへ帰る予定だった侯爵家の宿泊が急に決まったこともあって、料理のメニューも急遽きゅうきょ変更せざるを得なかった。必要となった食事の量が三倍に増えたのだから、用意していた料理では到底足らなくなってしまったのだ。そこで現在ある食材、そして急ぎで仕入れることのできる食材を元に、下拵したごしらえに時間のかからない料理を追加することになる。しかもそれらは上級貴族パトリキの食卓を飾るにふさわしい水準でなければならない。

 アルトリウスのお抱え料理人ルールスの奮闘によって必要な料理は用意できたのだが、量を水増しするために当初用意していた料理に別の料理を付け加えるという奇妙なメニュー構成になってしまった。突きだしアミューズとしてハムと卵のサラダ、二つの前菜の盛り合わせ、ジャガイモのスープ、ウナギの蒲焼き、ベシャメルソースとハムとチーズを層状に重ねて焼き上げたキッシュ、そこからいよいよメインディッシュというところでリュウイチの顔が急に曇ってしまう。


「どうかなさいましたか?」


 今回の晩餐ではエルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人は招待された側ということにはなっているが、実際のところはエルネスティーネはヴァーチャリア世界を代表して降臨者リュウイチを歓待する立場でもある。リュウイチに何か不快に思うようなことがあってはならない。

 エルネスティーネがいち早く気づいて尋ねると、リュウイチは躊躇ためらいがちに答えた。


『いや、《地の精霊アース・エレメンタル》が…』


 その一言に、同席していた大人たちの顔に一瞬で緊張が走る。リュウイチをはそれを見て続きを言うべきか言うまいか迷ったが、数秒黙ったまま考えた後にやはりいう事にした。


『《地の精霊》が報告してきました。戦が始まったと…』


 その後、いくつかの問答がなされたのちに、どうやらアルビオンニウムで只事ではない事件が起きていると察した一同は急遽きゅうきょ晩餐を中断、アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア幕僚トリブヌスたちに緊急招集が下され、リュウイチを介して状況の分析が行われたのだった。


 晩餐が行われていたのとは別の食堂トリクリニウムにリュウイチとアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子、エルネスティーネ、軍団幕僚らが集まり、テーブルにアルビオンニウムの地図を広げて盗賊たちや軍団レギオーの配置、動きなどをリュウイチが《地の精霊》に念話で訊きながら説明する。残念ながら精霊エレメンタルは数の概念を理解できなかったので、各部隊や敵勢力の人数は分からなかったが、それでも大まかな流れは把握することが出来た。

 このヴァーチャリア世界において初めての遠隔地での戦闘のリアルタイム実況…それは彼らにとって新鮮かつ斬新な体験であり、それは戦闘の終結する深夜まで続くこととなった。おかげでそれに参加していた者は今朝は皆寝不足になっている。


 カール・フォン・アルビオンニア侯爵公子付家庭教師グヴェルナンテに任じられた新米将校ミヒャエル・ヒルデブラントは、幸運にもその遠隔実況に立ち会うことができた一人だった。本来なら彼のような新米将校が領主貴族パトリキ隣席で高級将校トリブヌスばかりが集まる会議に同席できるわけもなかったのだが、カールに付き添って晩餐に出席していた彼は、晩餐が中断されカールが寝室に引き取った後、特別に実況を聞く機会が与えられたのだ。

 もちろん、質問したり発言したりする機会までは与えられない。幕僚たちの後ろに立って話を聞きながら幕僚たちの隙間から地図を見るだけである。彼我の部隊の数や各部隊の名前や指揮官の名前などがわからないのはもどかしかったが、しかし眼前の地図上で起こっているのは、今まさに遠くアルビオンニウムで起こっている戦争そのものだったのである。まだ若い軍人である彼にとって、それは非常に刺激的な体験だった。


 実況が終わって全員が引き取った後も、彼の興奮は冷めやらなかった。信じられない体験だった。せっかくアルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアに入隊したというのに軍務から外され、カールの家庭教師にされてしまった。暫定的な人事とのことだが、短期間とはいえ新人時代に軍務から離されたことによって軍人としての栄達の夢が遠のいたように感じて内心落ち込んでいたのだが、そんな気分は完全に吹き飛ばされてしまった。


 あんな体験、他の将校たちじゃ絶対に出来ないぞ?

 小隊長ツゥクフューラーになるよりずっと凄い経験だ!


 結局、眠れないまま朝を迎えてしまっている。今朝、陣営本部プラエトーリウムへ出仕してきたミヒャエルが、態度や表情は実に元気溌剌はつらつとしているのに、瞼が落ちかかってどこか眠そうな顔つきをしているのはそう言うわけだった。

 カールの寝室クビクルム回廊ペリスタイルを歩くミヒャエルの目の前にあでやかな美女が姿を現わした。


「あっ!?」

「し、失礼しました!!」


 本来なら上級貴族や上官とすれ違う際はサッと脇に避けるものだが、回廊を歩いていたミヒャエルはちょうど階段を降りて来たリュキスカとぶつかりそうになり、避ける暇も無かった。互いに脚を止めて何とか衝突を回避し、その後でミヒャエルは咄嗟に身を引いて姿勢を正す。

 リュキスカはぶつかりそうになったことよりも、その後のミヒャエルのそのビシッとした動きと態度の方に驚いてしまった。何せ彼女はついこの間まで貴族ノビリタスとは縁もゆかりもない平民パトリキ…しかもその最下層の娼婦だったのである。客の中でも特に粗っぽくて態度の大きい傾向にある兵隊に、そんなかしこまった態度を取られるなんて想像すらしたこともなかったのだから、驚いてしまうのも当然と言えた。リュキスカはその驚きを誤魔化すように半笑いを浮かべる。


「ああ、ごめんよ。ぶつかりそうになっちゃって」


「とんでもございません!

 リュキスカ様こそ、大事ございませんでしたか?」


 リュキスカに道を譲るために壁を背にして直立不動の姿勢をとったミヒャエルはリュキスカの顔を見ることも無く、誰も居ない真正面を見たまま答える。


「ああ、アタイは別に大丈夫さ。

 それよりもアンタ、カール様の先生トゥートルだっけ?

 たしか、ヒルデブラントさん?」


「ハッ!御記憶いただき恐縮であります。

 先日より身に余る大役を拝命いたしております。

 どうぞ、ヒルデブラントとお呼びください!」


「ああ、ありがとう…

 それでさ、ちょっと聞きたいんだけどさ…いいかい?」


 鯱張しゃちほこばったミヒャエルに少し面食らいながらも、リュキスカが少し声を抑えて尋ねると、ミヒャエルはチラっと目だけでリュキスカの方を見、それからすぐに姿勢と視線を戻した。

 リュキスカはこれから朝食に行く途中だった。もちろん、既に身形みなりは整えて服装もちゃんとしている。が、それでも齢十八の女性だ。対するミヒャエルは昨年レーマの兵学校を卒業し、昨年末に入隊したばかり…カールからは「老師」アルター・マイスターなどと呼ばれているが年齢は十七になったばかりである。若いミヒャエルには服を着ていてすらリュキスカの放つ色香は刺激が強すぎた。顔が急激に火照って来る。


「ハッ、何なりと!」


「夕べさ、アンタも軍人さんたちと一緒にリュウイチ様からアルビオンニウムの様子を聞いたんだろ?

 あれって、どうなったんだい?」


 リュキスカは晩餐の後の軍議には参加していなかった。もちろんルクレティアのことは心配だったし気にもなったが、晩餐が中断された後で退席を余儀なくされたのだ。晩餐には侯爵家の子供たちも同席しており、リュウイチが『戦が始まった』と言いだしてから興味津々きょうみしんしんで興奮してしまっていたのである。晩餐中断後、子供たちを大人しく退席させるには、大人がまず率先して退席して見せねばならなかった。リュキスカはそこで子供たちをなだめながら自らも退席することで、その場に一役買っていたのである。

 だからリュキスカは昨夜の話の続きを知らない。ミヒャエルとちょうど会えたのをいいことに話を聞こうと言うのだった。


「そ、それは…」


「…なんだい、話せないのかい?」


 身を寄せ囁きかけるリュキスカの体温と体臭が思春期のミヒャエルを刺激する。


 ヤバい、耳まで熱くなってきた…


「ぐ、軍機に触れますので…自分には、どこまでお話しして良いかわかりません。」


「そんなこと言わないでさ…ルクレティア様は?ご無事なんだろ?」


「ハッ!それは間違いございません!」


「人死には…たくさん出たのかい?」


「なっ、何人かは…ですが、損害は微小とのことであります!」


「み、みんなは無事なのかい?」


「みんなと申されましても…ゴクリっ」


「ほら、リウィウスさんとかさ…あと、ゴルディアヌスにカルスに…」


「もっ、申し訳ございません。

 その方たちについて特にお話はございませんでした!」


 ミヒャエルは身体中を駆け巡る血流が一点に集まり出すのを感じていた。それでも直立不動の姿勢を保ったままではあったが、思わず途中から目を閉じて半分自棄ヤケになったように答える。リュキスカはそれが何故なのかはわからなかったが、どうやら自分が質問することでミヒャエルが迷惑を被っているらしいことは理解した。

 スッと身を引くと…少し残念そうな表情を見せ、素直にミヒャエルに詫びる。


「そう…そうかい…な、なんか呼び止めちゃって悪かったね。

 教えてくれてありがとう…じゃあね」


 そう言うとリュキスカはミヒャエルの前から去って行った。リュキスカがそこからさほど離れていない食堂へ姿を消したところで、ミヒャエルはフゥーッと盛大に息を吹いてようやく身体から力を抜いて姿勢を崩す。心臓は、まだバクバクと鳴っていた。

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