入れ替わる前線と後方

緊急戦況報告

第587話 襲撃部隊、出撃

統一歴九十九年五月六日、早朝 - アルトリウシア平野/アルトリウシア



 一般的に一日を通して早朝が最も冷え込む時間帯である。陽が沈んで大地や大気を温める熱源たる陽光が途絶えると、火山等の熱源でもない限り大気はどんどん冷やされ続ける…ふたたび朝日が昇って大気を温める熱源が現れるまでの間、冷え続けた大気は夜明け前がもっとも冷たくなるのは道理である。しかし、いつでもどこでも必ずそうなると言うわけでもない。

 西の海上を赤道付近から南下してくる暖流とその上を吹き抜けて来る偏西風の調子次第で、アルトリウシアの朝は意外と暖かくなることも少なくない。そして、日中は日中で上空を分厚い雲に覆われ、さほど気温が上がらないこともある。そこら辺は暖流と偏西風の気分次第だ。


 今朝はと言うと気温はさほど高くはない。この季節としては少し暖かいかもしれないが、南半球の五月上旬としてはこんなものだろう。ただ、アルトリウシア平野は朝から非常に濃い霧が立ち込めており、視界は十ピルム(約十八メートル半)あるかどうかと言ったところだ。

 ここ、アルトリウシア平野に築かれたハン支援軍アウクシリア・ハンの前進基地は未だ陽の昇る前で暗い。空はそろそろ夜のとばりをあけて朝の青さを取り戻そうとしているところだ。暗さと濃密な霧の両方のせいで、視界は非常に悪いが誰も火を灯さず、松明たいまつの一本、篝火かがりびや焚火の一つも用意されてはいない。それは灯した火によってぼんやりと照らされた霧が遠くから見えてしまうことを警戒しての処置だった。

 世界のすべてを覆い隠し、そこはかとなく不安を掻き立ててくれる乳白色の闇は、しかしこれから秘密の作戦を開始しようとしているハン支援軍アウクシリア・ハンの騎兵隊にとって都合が良いモノであるかのようにドナートには思えた。


「隊長、こんな中を本当に行くんですかい?」


 副長のディンクルが出立しようとしているドナートを見上げながら心配そうに尋ねる。こんな視界の悪い中でアルトリウシア平野の葦原あしはらを抜けようというのだ。しかもこれまで行った事のないルートを進むのである。いくらダイアウルフといえど位置を見失い、道に迷うくらいしてもおかしくはない。『単騎駆け』の異名を持つ英雄ドナート本人は大丈夫だとしても、部下たちが途中ではぐれてしまうのではないか心配なのだ。


「ああ、こういう霧の中なら却って都合がいい。」


 ダイアウルフの上からディンクルを見下ろしながらドナートが答える。彼の目の前には選抜した三人の部下が装備の最後の点検をし、次々と騎乗しはじめていた。ディンクルはそれを心配そうに眺める。


「隊長は大丈夫だろうけどよ…」


 ディンクルの視線の先に居る三人の部下…そのうち最古参のディンクルが実力を認めるのはプチェンただ一人だけである。残りの二人は隊の中では中堅どころだが、ディンクルに言わせればまだまだヒヨッコだ。集団戦闘は問題なくこなせるが、単独での任務はどこかおぼつかない。短い距離での伝令ぐらいは問題なくできるが、単騎で敵中に潜入して偵察を行うような任務となるとまず無理である。ドナートがこれから遂行しようとしている作戦に参加させるには、ディンクルの見たところまだ実力が足らない。だが、そんな未熟者でも動員しなければ、もうどうにもならないところまで彼らは来てしまっていた。


 ハン支援軍はアルビオンニウムに来て以来、度重なる不幸な事故と戦禍によって数を減らし続けている。かつてアーカヂ平野を追放された当時、ハン支援軍は正面兵力だけで五千を超え、引き連れている将兵の家族らも含めれば二万には達しようかという大軍勢であった。にもかかわらず今や総数で三百を下回っている。

 ハン支援軍の主力であるはずのハン騎兵においてもそれは変わらない。騎乗すべきダイアウルフだけで六十六頭しかおらず、さらにダイアウルフに乗れる騎兵は十五名にまで減ってしまったのだ。今、新たにダイアウルフが背中に乗せるのを許してくれるゴブリン兵を選抜し、騎兵として錬成しているところだが、乗れるようになるまでには上手くいったとしても最低で半年はかかるだろう。それも、乗って自分の意思で移動できるようになるまでに必要な練兵期間だ。戦闘で使えるようになるにはそこから更に半年以上は必要になるだろうし、伝令や偵察などと言った単独での任務をこなせるようになるには年単位の期間が必要になって来る。

 つまり、ドナートたちの騎兵隊は額面上は二十騎近い頭数を回復してきてはいるが、実戦力としては今も十五騎しかないのだ…いや、先日シュロハが銃撃を受けて脱落してしまったため十四騎である。その中でディンクルも実力を認めるベテランは半分も居なかった。


 ディンクルの不安はドナートも理解している。ドナート自身、彼らには無理ではないかと思わないではないのだ。だが、だからといって果たすべき任務が無くなるわけではない。


 アルトリウシア平野を横断し、セヴェリ川を越えてグナエウス峠に到達する。そしてダイアウルフにグナエウス街道を行き来する荷馬車を襲わせ、ダイアウルフの逃亡が真実であるかのように偽装する。それによってレーマ帝国側の危機感をあおり、ハン支援軍によるアルトリウシア平野での捜索活動を認めさせる。


 アルトリウシア平野でのハン支援軍の活動が公式に求められれば、万が一レーマ軍によるエッケ島攻略が現実味を帯びてきたとしても逃走ルートを確保できる。アルトリウシア平野はハン支援軍の得意とする草原であり、エッケ島よりは生残性せいざんせいを確保できるだろう。それに、アルトリウシア平野で狩りが出来れば食糧事情もだいぶ改善するに違いない。

 この作戦には今後のハン支援軍の存亡がかかっているのだ。最悪、ドナート一人ででもやり遂げねばならない重要な作戦なのである。人が足らないからと言って、中断や延期など認められるわけがない。


「お前の方こそ、留守を頼んだぞディンクル?」


 ドナートは行く末を心配するディンクルを見下ろしながらフフンと笑った。今回、ドナートに次ぐ実力者である彼を連れて行かないのは、彼には別の任務があるからに他ならない。


「もちろん、隊長の留守は守って見せますよ。」


 ディンクルは身体をぴょんと跳ねさせるようにして半笑いを浮かべて答えた。彼の任務ももちろん重要で、危険が伴う。だが、ドナートがこれから行う任務に比べれば困難と言うほどの物でもない。


「留守を守るだけじゃない。分かっているだろう?」


「ええ、“海の回廊”を見つけることと、新人の教育…どちらも滞らせません。」


 ドナートが釘を刺すとディンクルは身体ごとドナートに向き直って姿勢を正し、ベテランらしい自身に溢れた笑顔をつくって見せた。


 ディンクルの言った“海の回廊”とは、エッケ島の南端とアルトリウシア平野を結ぶ浅瀬のことである。この浅瀬は潮が引いていればエッケ島とアルトリウシア平野の間を歩いて渡れるという噂があるが、これまで誰も実際に確認したことはない。彼らはこのあるかどうかわからない歩いて渡れるルートを“海の回廊”と呼んでいた。

 今、ハン支援軍は大破して航行不能になった『バランベル』号と、アルトリウシアから奪った七隻の貨物船クナールしか持っていない。『バランベル』号は浜に引き上げはしたものの未だ修理の目途さえ立っておらず、貨物船もいずれ返却するようにレーマ側から迫られている。今はなんやかんや言い訳をしながら引き渡し時期を引き延ばしているが、いずれは返さねばならないだろう。そして船を失えばハン支援軍はいよいよエッケ島に閉じ込められることになってしまう。

 だがもしも“海の回廊”が実在するのであれば、船が無くてもハン支援軍はエッケ島から脱出できることになる。ハン族存続への可能性が開けるのだ。

 

 しかし、浅瀬は浅いとはいっても西側は外洋である。時折大きな波がくることもあり、泳ぎの出来ないゴブリン兵が実際に歩いて渡れるルートを探すのは危険極まりない。なので、多少の波が来ても体格ゆえに耐えることができ、なおかつ少しくらいなら泳げるダイアウルフを使って最も安全で浅いルートを探らねばならないのだ。

 しかもそれは急いでやらねばならない。もうすぐ冬になるからである。いくらダイアウルフとは言え、冷たい冬の海に長時間浸かって浅瀬を探るようなことはできないし、アルトリウシア湾で漁を営んでいるレーマ帝国の漁師たちに見つからないように時間帯も選ばねばならないのだ。

 ディンクルの任務もまた、ドナートに負けず劣らず重要で、そして危険な任務だった。


「なら安心だ。

 お前ならできるさ、ディンクル。

 あと、シュロハの面倒も頼む。」


 先日、セヴェリ川越しにまさかの銃撃を受けてしまったシュロハは結局、撃たれた腕を失う事になってしまった。銃弾に骨を粉砕された腕は添え木だけでは固定しきれず、撤退の際にダイアウルフの背中で揺すられ過ぎたこともあって、この前進基地に戻ってきた時には素人目にも回復の見込みのない酷い状態になってしまっていたのだった。

 シュロハはこの前進基地で腕を切断され、化膿止めのために傷口を煮えた油で熱消毒された。もちろんその際はポーションを大量に服用させ、ポーションの麻薬効果によって意識を混濁させたうえで行っている。

 現在、シュロハは大量のポーションをガブ飲みさせられたために急性麻薬中毒のような状態になっており、意識もまだ戻ってはいない。大量の麻薬の服用と堪えがたい苦痛…この世界ヴァーチャリアで重傷を負ってしまった者が受ける医療処置とはそんなものである。そこから麻薬の後遺症や心的外傷を乗り越えてまともに復帰できる者は、残念ながら少ないのが実情だ。


「任せてください!」


 昨夜遅くの定期便で意識の戻らないままダイアウルフと共にエッケ島に送られたシュロハを思い出し、どこか冷めた様子で笑いながらディンクルが答える。


「隊長こそ、シュロハのかたき、頼んましたよ?」


 二人は互いの拳と付き合わせる。


「ああ、任せろ!

 奴らに思い知らせてやるさ。」


 その後、プチェンが出発準備が整ったことを報告し、ドナートたちは前進基地の隊員たちに見送られながら出発する。


「隊長!ご武運を!!」

「やっつけてきてください!!」

「お前ら、隊長の足引っ張んじゃねえぞ!?」

「隊長についていけば大丈夫だ!」

「目にもの見せてやれ!!」

「ハン族万歳!!」「ハン族万歳!!」「ハン族万歳!!」

「『単騎駆け』!!」「『単騎駆け』!!」「『単騎駆け』!!」


 ドナートたちは声援を背中に受けながら、乳白色の闇の向こうへ姿を消した。姿が見えなくなると、ゴブリンたちはそれぞれの持ち場へ戻っていく。だがディンクルは一人、最後まで残って見えなくなったドナートの後ろ姿を虚空の彼方へ追い続けた。


 くそ…こんな霧の中でも、息って白くなるんだな…

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