第534話 《地の精霊》の警告

統一歴九十九年五月七日、夕 - ライムント街道/アルビオンニウム



『では、長らく留めてしまったようじゃの。

 そろそろ、いとまするとしよう。

 ルクレティアよ、息災そくさいでの。』


 アルビオン海峡をつかさどる《水の精霊ウォーター・エレメンタル》アルビオーネは使い魔のカモメを介してルクレティアと十分ばかり話をした後、そう言い残して退散した。前回、アルビオーネがルクレティアたちの前に姿を現わした時はその場にいた全員に聞こえるように念話を発していたが、使い魔を仲介していたせいか今回はルクレティア以外には念話の内容は聞こえていなかった。ルクレティアが「御託宣ごたくせんたまわり、ありがとうございました。」と礼を言い、カモメが飛び去ったことでアルビオーネとの会話が終わったと理解した周囲の従者たちや軍団兵レギオナリウスたちは、ようやくひざまずかしこまった姿勢を解いて楽にする。


「ルクレティア様!」

お嬢様ドミナ!?」


「ええ、大丈夫よ。問題ないわ。」


 ルクレティアも立ち上がってホッと息をつくと、侍女のクロエリアや従兄弟のスカエウァが気遣きづかい、声をかけてくる。


「ルクレティア様!!」


「ああカウデクス殿、お騒がせしました。」


 ルクレティアが身近にいた者たちと互いに安堵を共有していると、騒ぎを聞きつけて少し離れたところで跪いていた護衛隊長のセルウィウス・カウデクスがガシャガシャと軍装を鳴らしながら駆け寄った。


「いえ、精霊エレメンタル様からの御神託と伺いましたが、今の鳥が?」


「はい、アルビオン海峡の精霊アルビオーネ様の御遣みつかいです。」


 忘れもしない、セルウィウスもあの日あの時、アルビオン湾口で隣の船からアルビオーネの姿を見ており、その存在は知っていた。


「アルビオーネ様!?

 海峡の精霊がこのようなところまでわざわざ、いったい何を!?」


「いえ、その…今日のヴァナディーズ先生の船旅の安全をお願いしていたのですが、サウマンディウムへ無事についたと御報おしらせくださったのです。」


「「「「おおお~~~」」」」


 ルクレティアが何でもないという風に微笑みながら言うと、周囲にいた者たちから一斉にどよめきが上がる。

 この世界ヴァーチャリアにおいて、各地方ごとに崇められている土地の守護神の正体はだいたい強力な精霊であろうと思われている。強力な精霊は文字通り神のごとき力を有しており、実際に気まぐれにだが人の願いを叶えることもある。だが多くの場合、彼らは人間の相手などしない。彼らからすれば人間など存在が矮小すぎて相手にする価値もないからだ。そういう傾向は精霊が強くなればなるほどより顕著であり、そうであるがゆえにあまりにも強力過ぎる精霊は、却ってその存在を人間に知られていなかったりする場合もあった。アルビオーネはその典型と言っていいだろう。

 アルビオン海峡…東西の大洋からそれぞれ、毎秒百六十~二百万トンもの海水が流れ込み、反対側へ抜けていくと推定され、その凄まじいエネルギーが集中している。毎秒数トン程度の水量しかない滝でさえ《水の精霊》が宿っているのだから、この莫大なエネルギーに精霊が宿らないわけがない。アルビオン海峡にも当然、強力な精霊は居るであろうと予想はされていたが、その存在は先月まで確認されたことは無かった。これまでに水属性に適性のある神官が幾度となく接触を試みたことがあったが、海峡に全体に漠然と強い魔力を感じることはできても、具体的に《水の精霊》の存在を確認することはできなかったのだ。


 それがリュウイチが降臨して以来、状況が大きく変化している。今まで人間の相手なぞ全くしなかった《水の精霊》が突如姿を現わし、リュウイチに恭順の意を示したのみならず、ルクレティアの願いを聞き、おまけにその結果を使い魔を使って報告しに来たという。

 それはリュウイチがいかに強大な力を持っているかを如実に示す一つの例であったし、同時にその聖女サクラとなったルクレティアがどれだけ強い力を持つに至ったかをも示していた。


「わ、わざわざそれだけのことをお告げに参られたのですか?」


「いえ、他にも…そう、あの船は『勇者団ブレーブス』から攻撃を受けたのだそうです。」


「『勇者団』から攻撃!?」


「ええ、どうやら湾口のあたりで…ですがアルビオーネ様がお守りくださり、『勇者団』はアルビオーネ様の御力によりしりぞけられたそうです。

 その際、『勇者団』はアルビオーネ様に御無礼を働いたらしく、『勇者団』は海峡を渡らせないと申されました。」


「おおお~~…そ、それは…」


 なんと言っていいか分からずセルウィウスは目を丸める。周囲で話を聞いている者も似たような反応を示していた。ルクレティアにそういわれても、実際に何が起こったのか想像することは難しい。

 アルビオーネと『勇者団』の戦いとなえばおそらく魔法によるものだろう。だが彼らは魔法による戦闘というものを実際に見たことが無かったし、物語や演劇の中で触れたことがあるのみなのである。そして、物語や演劇といったものがどれだけ現実から乖離かいりしたものであるかぐらい、常識を身につけた者なら当たり前に承知していることなのだ。その物語や演劇の中でしか語られることのない魔法による戦闘が実際に行われたと聞いても、物語や演劇を「空想」「非常識」と認識している者にとっては、それを現実に当てはめて想像を巡らせること自体に無意識に抵抗を覚えるものなのである。

 ゆえに、彼らの思考は停止せざるを得ない。何を言っていいか分からず、何をどう解釈すればいいかすらわからない。そのため、しばらくルクレティアを呆けたような目で無言のまま見、そして与えられた情報から彼らの常識で理解できる範囲で有効な要素を拾いあげ、現状に結び付けていく。


 セルウィウスが顔をほころばせた。


「な、なるほど…

 しかし、それならもう我らの旅の安全も約束されたようなものですな…」


「と、いいますと?」


 セルウィウスの発言の意味がわからず、ルクレティアはキョトンとした顔で訊き返した。


「船が出たのは朝方…あの船はアルトリウシア艦隊で使っているような櫂船ではなく、帆船でした。アルビオン湾の中は風が弱いですから、帆船はどれだけ頑張っても湾から出るのに櫂船の倍以上の時間がかかります。

 だとすれば、船が湾口に差し掛かったのはおそらく昼頃、そこでアルビオーネ様と『勇者団』が戦ったのなら、今頃はようやくアルビオンニウムへ戻ってきたくらいでしょう。つまり我々には追い付けません。」


「ああ!…では!?」


 ルクレティアを始め、セルウィウスの説明を聞いた者たちの表情がパァっと明るくなる。セルウィウスは皆の反応に気を良くして続けた。


「はい、『勇者団』が我々がアルビオンニウムを出たことに気付いて慌てて追いかけたとしても早くて真夜中…闇夜の中では馬を走らせることもできんでしょうから実際には明日の朝方といったところでしょう。

 ですが、アルビオーネ様との戦いで消耗しているのに、回復を待たずに追撃して即戦闘とは参りますまい。

 そうなる前に我々はこの先でキュッテル閣下の大隊コホルスと合流しますから、『勇者団』が攻撃を仕掛けるチャンスはもうないと言う事です。」


『いや、そうはなるまい』


 突如、セルウィウスとセルウィウスの説明を聞いていた者たちの頭の中に直接、声が鳴り響く。そして、ルクレティアとセルウィウスの間くらいの所、ルクレティアの顔の高さぐらいのあたりに《地の精霊アース・エレメンタル》が姿を現わした。


「ア、《地の精霊》様!?」


 ルクレティアが驚きの声を上げると、ルクレティア以外の者たちが一斉に《地の精霊》に向けて頭を下げて跪く。


「《地の精霊》様、どうかされたのですか?

 そうはならないとはいったい?」


 ルクレティアの問いかけに《地の精霊》は南を指差した。 全員が一斉に《地の精霊》が指さした方へ視線を走らせる。

 そこには既に夕闇で黒く染まりつつあるブルグトアドルフの街があった。その手前にはカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子率いるサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの二個百人隊ケントゥリアが松明を掲げ、今にも街へ入ろうとしている。

 彼らはルクレティアたちがアルビオーネが来たせいで停止していたのに気づくのが遅れ、しばらく前進しつづけていたためだいぶ距離が開いてしまっていた。


『この先の集落、賊が潜んでおる。

 前を行く連中の半分ぐらいの勢力だが、武装を整え、待ち構えておるぞ。』

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