第528話 みじめな敗退

統一歴九十九年五月七日、午後 - アルビオンニウム郊外/アルビオンニウム



 秋らしくやたらと高く見える青い空は早くも夕暮れの黄色をわずかに帯び始め、紅葉を終えて秋から冬へ装いを改めた山肌を冷たい風が吹き抜けていく。遠目には鏡のような静かな水面をたたえたアルビオン湾の東岸を、とぼとぼと馬を引きながら歩く四人のずぶ濡れの少年たちの表情を一言で表すなら茫然自失ぼうぜんじしつといったところだろう。それはまさに戦に敗れた敗残兵そのものとだった。勝てるはずのない戦いを挑み、手も足も出ないまま叩きのめされた…そんな感じだった。


 彼らが戦った相手、アルビオン海峡をつかさどる《水の精霊ウォーター・エレメンタル》アルビオーネ…思いもかけずに出くわした相手はとんでもないだった。


 「海峡を司る」だって?……ハッ、じゃないか。

 まさに「神」か…あんなの、勝てるわけがない…


 歩くたびに…足を持ち上げるたびにズボッ、ズボッっと、重たいブーツの中から空気が抜ける音がする。地に足を付けるたびにズチャッ、ズチャッと水の吹き出す音がする。風が吹くたびに濡れた身体から体温が奪われてブルッと震える。身体のあちこちにできた小さい傷に海水が沁みて痛む。

 ともすれば現実逃避してしまう意識を、そうした不快極まりない感覚が彼らを現実へ引き戻す。


 何であんなのと戦うハメになっちまったんだ…


 その理由は明らかだ。彼らのリーダー、ティフ・ブルーボールが相手の実力を見誤り、過小評価したあげくに一方的に突っかかって行ったからだ。


 あんな強い相手だなんて…何で誰も教えてくれなかったんだ…


 いや、彼女は最初から自分で名乗っていた。「海峡を司る《水の精霊》アルビオーネ」だと。


 そりゃ確かに凄い精霊エレメンタルだってのは分かってたけどさ…あそこまでだなんて誰も思わないじゃないか…


 いや、ペイトウィン・ホエールキングとスマッグ・トムボーイは気づいていた。戦っていい相手じゃないと、かなう相手じゃないと…それに多分、ペトミー・フーマンも気づいていた。だから彼らは必死にティフを止めたのだ。なのにティフは彼らの制止を無視したのだ。


 だって、こっちの攻撃が当たりまくってたんだぞ!?

 しかもそれで身体が派手に吹っ飛んでた…効いてるって思うのも当然だし、勝てるって思ったとしても仕方ないじゃないか。そんなに強いなら攻撃くらいかわすか防ぐかするだろ普通!?


 相手は神だ。普通の相手じゃない。普通の相手じゃない以上、自分たちの常識を当てめて考えるべきではなかったのだ。彼女が攻撃を受けていたのは、彼女にとっては大した攻撃じゃなかったからだ。喰らってもダメージを負う心配が全くなかったから無視していただけなのだ。人間だって秋の野道を歩くとき、目に映らない小さな虫がぶつかって来るのを、イチイチ全部避けて通ったりしない。


 あんな化け物まで呼び出しやがって…


 アルビオーネは圧倒的だった。

 雑魚モンスターを伴わないなら勝てる…少なくともそのチャンスはあると思っていた。百メートルの断崖絶壁の上では海のモンスターなんか連れてこれないだろう…そうたかをくくっていた。

 が、それすらティフのただの思い込みだった。


『そう言えば、ここならばわらわも眷属を召喚できんとか言っておったのう?』


 海峡を流れる海水そのものが自分の正体だ…そう告げられて茫然と海を見つめる四人に対し、アルビオーネはそう言うと実際に眷属を召喚して見せた。

 それは誰も見たこともないモンスター…馬ほどもあるオットセイの身体に人間のような上半身が生えた、海版のケンタウロスとでもいうような魔物だった。人間の上半身と言っても、顔は豚のような鼻面はなづらと耳まで裂けた口を持ち、赤い目が光っている。肩から生えた両腕は屈まなくても地面に届きそうなほど長く、指先からは鉄さえ引き裂きそうな鋭い爪が伸びていた。だが、一番の特徴は形ではない。皮膚が無かったのだ。いや、あるのかもしれないが、透明なゼリーのようなものに全身を覆われており、身体の組織が外から透けて見えていた。白い骨格、白く濁った半透明の筋肉や内臓、そしてそれらに絡みつくように全身に伸びた黄色い血管が脈打っている。

 そんなおぞましい化け物がアルビオーネの仕草一つで一挙に二十~三十体も現れ、彼らを取り囲んでしまった。


『見たことあるかえ?

 かなり前にここらに住んでおった小さき者たちは、ナックラヴィーとか呼んでおったかのう。

 おお!近づかぬが良いぞ?

 こやつらの吐く息は毒気を含んでおるでのう、下手に吸うと病気になって死んでしまうぞよ?

 まあ、それが無くとも一体で其方そなたら一人と同じくらいの強さであろうな。』


 気色の悪い化け物に囲まれた彼らにとっては楽し気なアルビオーネの説明など、もうどうでも良かった。完全に戦意を喪失した彼らは、アルビオーネから『顔を洗って出直してまいれ』と叱責され、うのていで逃げ出したのだった。


「なぁ~、ティフ~。

 もう気にすんなよ~。」


 気分が落ち着いてきたのか、頃合いを見計らってペトミーが声をかけた。結局彼らは圧倒的な実力差を見せつけられたあげく、顔を洗って出直して来いと追い払われてしまった…つまり、「敵」として相手してもらうことさえされなかったのだ。

 そのことがよっぽどショックだったのか、あれからティフは一言もしゃべらず、トボトボと肩を落とし背中を丸めて自分の馬のくつわを取ってしょんぼりと歩き続けている。ペトミーは仲間ティフのそんな姿は見たくなかったのだ。


「幸い、こっちには被害は無かったんだしさぁ~」


 あえて能天気な調子で話すペトミーにペイトウィンが乗っかって来る。


「そうだぞティフ、こんな失敗するたんびにイチイチ落ち込まれてちゃ、付き合うコッチはたまったもんじゃないんだぞ!?

 気楽にいけよ、気楽にぃ~」


「ホエールキング様!

 もう少し言い様が…」


 スマッグがあまりにぞんざいな言い様に慌てて注意すると、ペイトウィンはまったく意に介さずに続けた。


「いいんだよ、ティフのこの手の失敗は初めてじゃないんだ。

 むしろ、ティフが何か失敗するっていったら大抵こんなのだよな?」


「言うなよペイトウィン!」

「そっ、そうなんですか!?」


 ペトミーは古傷をえぐろうとするペイトウィンをたしなめたが、スマッグの方は意外だったのか食いついてきた。


「ああ、俺たちはお前スマッグが産まれてくる前からの付き合いだからな、色々やってんだよ。

 ママの迷宮ダンジョンに行った時とかもさ、食人鬼オーガと間違って一眼鬼サイクロプスを攻撃したり、骸骨スケルトンと間違って死霊王ワイトに突っかかって行ったり?

 なあ、ペトミー?」


「あ?ああ…」


 ペトミーはティフの気持ちを気にしてペイトウィンの話にはあまり乗り気ではなかったが、ペイトウィンははばかることなく話を続ける。ペイトウィンは元々こういうどこか無神経なところがあったのだが、もしかしたら昨日の意趣返しのつもりなのかもしれない。


「イノシシを狩ろうとしたらそいつがママの飼ってたベヒモスでさ、逆に散々追い回された挙句、後でこっぴどく怒られたこともあったよな。」


「それは流石に…」


 それらはどれもスマッグにとって初めて耳にする話ばかりだった。いつも冷静で思慮深く、知的で綿密な作戦を立てる策略家としてのティフのイメージが、スマッグの中でガラガラと音を立てて崩れていくようだ。


「だろ?

 ティフは昔からそうなんだ。

 自分と同程度以下の相手だと割と正確に戦力を把握して冷静に作戦を練ることができるんだ。でも、相手が初対面で自分の想像を超えちゃうような実力を持ってたりすると、何でか知んないけど不思議なくらいに過小評価しちゃうんだ。

 そんでさっきみたいな失敗をしちゃうのさ。

 多分、頭で考えすぎちゃうんだよ。

 だから自分の理解が及ばない相手にはちゃんと対処できないんだ。

 そうだろティフ?」


 ありがたくもないペイトウィンの指摘を、ティフは怒るでも悲しむでもなく、無言のまま聞き流していた。

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