アルトリウシアへ

第505話 明日の予定

統一歴九十九年五月六日、夕 - ケレース神殿テンプルム・ケレース/アルビオンニウム



 ただでさえ緯度が高く、東西を山岳に挟まれたアルビオンニウムの冬は積雪こそ少ないが割と寒冷な気候である。当然、アルビオンニウムに建てられる建築物の多くは寒さに対する備えは充実しており、貴族ノビリタス屋敷ドムスならば床暖房ハイポコーストゥムぐらいは当たり前の設備だ。

 ハイポコーストゥム(英語ではハイポコースト)とは《レアル》古代ローマで普及した原始的なセントラル・ヒーティング・システムである。建物が床全体をピラエ・スタックスと呼ばれる多数の柱で持ち上げた高床式になっており、地下(あるいは半地下)に炉室プラエフルニウムを設置し、壁にも内壁と外壁の間に隙間を設けてある。炉室で火を焚くと熱を持った煙が床下や壁の内側に行き渡り、建物全体を温める方式だ。朝鮮半島で普及したオンドルに似ている。

 この世界ヴァーチャリアでは床全体を高床式にして壁に隙間を設けるのは同じだが、床下に直接煙を流し込むのではなく、小さな炉を複数設け、そこから銅でできた煙管を張り巡らせて煙突から煙を排出するようにしている。これは《火の精霊ファイア・エレメンタル》対策の一環だった。鉄を溶かすような強い火や複数の建物をまるごと焼くような大きな火には精霊エレメンタルが宿って《火の精霊》と化してしまうのだが、普通の火であってもあまりにも長時間燃やし続けるとやはり精霊が宿ってしまう。寒冷地での暖房用の火ともなれば絶やすことなく燃やし続けるため、そのままでは《火の精霊》が顕現してしまうのは避けられない。

 そこで小さな炉を複数設け、順番に交代で火を燃やすことで一つの火を長時間燃やし続けなくても、暖房の熱自体は絶やさずに済むように工夫されたのだった。


 当然、ケレース神殿にもこの床暖房は設置されているのだが、それにもかかわらず昨夜から今朝にかけて寒い一夜を過ごすことになってしまったのは、ひとえにファドが放火して火災を起こしてしまったからに他ならない。火災の影響で建物の一部が焼けてしまったため、床暖房で焚いた火の熱気や煙がどこから漏れだすか分からず、使用不能になっていた。下手に煙路にダメージがあればそこから熱気や煙が漏れてしまい、火災が起きたりガス中毒などの事故を引き起こしてしまう恐れがあったからだ。

 これは、《レアル》古代ローマのハイコポーストゥムからヴァーチャリア世界に最適化した過程で生じてしまった欠点の一つと言えるだろう。煙を直接床下に充満させるローマ方式では床や壁そのものに耐火性や耐熱性が持たされていたが、ヴァーチャリア式では煙は銅製の煙管を通すため、床や壁の耐火性や耐熱性は考慮されなくなっていたからだ。

 しかし、本日の昼間に被害状況が確認され、床暖房や御風呂バルネウムは使っても構わないと判断を下されたことから、それ以降は遠慮なく火が焚かれている。もしも昨夜、《地の精霊アース・エレメンタル》が魔法『大地の津波アース・サージ』で火災現場に大量の土を流し込んで消火してくれてなかったら、ルクレティアたちは屋外で一夜を明かさねばならないことになっていたかもしれなかった。


 ちなみに捕虜になったメークミー・サンドウィッチは神官用の住居区画とは反対側にある地脈の観測施設となっている棟に収容されていた。そっちの床暖房は独立しているので使おうと思えば使えたのだが、昨夜はイェルナクがいたためメークミーの存在を知られないようにするためにもあえて床暖房を使わないようにしていた。ただ、こちらもイェルナクが昼の内に船でサウマンディウムへ去ってしまったので、昼からは床暖房が使われ始めている。


 昼以降、寒さを感じずに済む程度に暖かくなった屋内は、やや焦げ臭いのを気にしなければ、人が生活を営むのには十分快適な環境を確保できている。その中にある食堂トリクリニウムの一室で、ルクレティアとヴァナディーズは一緒に夕食ケーナを摂っていた。レーマでは家族以外の男女は基本的に食卓を別とするのが普通であり、また身分の違う者同士でも食卓は共にしないのが普通だったからだ。ルクレティアは上級貴族パトリキでヴァナディーズは平民プレブスなのだから常識に従うならば食事を共にすることは無いのだが、ヴァナディーズはルクレティアの家庭教師という特殊な立場であるため、例外的に食卓を共にしているのだった。


「では明日、私はサウマンディウムへ送られるの?」


 食事の手を止め、ヴァナディーズはルクレティアに尋ねた。午前中、ヴァナディーズは昨夜のショックで体調を崩して寝込んだままだったし、昼間はルクレティアはメークミーの尋問や軍人たちとの会議に参加したりで忙しかったため、今日の二人が会話する機会が今の今までなかった。このため、この機会にルクレティアが現在分かっている情況と先ほどの会議で決められた明日以降の状況について説明したのだった。


「はい先生、伯爵公子閣下が船を手配なさっておいでです。

 本当は伯爵公子閣下もサウマンディウムへお戻りになられるご予定だったので、それに同行するという形になる筈だったのですが、『勇者団ブレーブス』の対応があるので御帰郷は延期成されるそうで…

 でも、ご安心ください。サウマンディウムへ渡ってしまえば彼らの手は届きません。向こうはきっと安全ですよ。」


「そう…そうかも…しれないわね…

 でも、あなたはどうするのルクレティア?」


 できれば一緒にサウマンディウムへ行ってほしいという気持ちがヴァナディーズにはある。サウマンディウムに仲の良い知り合いなど居ないし、降臨を起こそうとする『勇者団』に関わっていた以上はそれなりの取り調べも受けるだろう。一応、参考人であって容疑者ではないので丁重に扱われるとは聞いているが、不安を感じないわけにはいかない。

 だが、これ以上ここに留まっていても『勇者団』からつけ狙われ続けることには変わりがない。命を狙われるよりはサウマンディウムへ行く方がマシというものだ。


「それはまだ、わかりません。」


 はにかみながらもどこか不安そうな視線をどこかへ投げて言うルクレティアにヴァナディーズは驚いた。


「え!?まさかこのまま『勇者団ブレーブス』と?」


「いえっ!そうじゃないです!」


 ヴァナディーズの想像があまりにも突飛なのでルクレティアは慌てて打ち消した。


「もちろんアルトリウシアへ帰ります。

 ただ、その日程がまだどうなるかわからないのです。」


「明日帰るんじゃないの?

 クロエリアさんからそう伺ったけど?」


 本当なら今日出発して来た道を戻るはずだったが、護衛の軍団兵レギオナリウスが疲弊しているので今日は一日休養を取らせ、出発を明日に延期する…ヴァナディーズはルクレティアの侍女からそのように聞いていた。ところが、ルクレティアは「わからない」と言うし、さては今日の会議で『勇者団』対策に駆り出されることになったのかと思いきや、そんなことも無いと言う。ヴァナディーズはわけがわからないと言った様子で眉を寄せてルクレティアの顔を覗き込んだ。


「えっと、実は一昨日アルトリウシアから援軍が出たそうなのです。」


「援軍?」


 ヴァナディーズは訝しむように首を傾げた。


「はい、その…中継基地スタティオが襲撃されたという報告が届いたせいだと思うのですけど…それがおそらく今日、シュバルツゼーブルグに到着しているはずなので、その援軍と合流するのか、あるいは共同して何かするのか、調整しなきゃいけなくなったそうなので…それでそのためにもう少し、ここに留まることになりそうなのです。」


 残念そうに話すルクレティアとは対照的に、ヴァナディーズは素直にそれを良いことだと受け取ったようだった。むしろ何でルクレティアがそんなに残念そうなのか分からないとでも言うようにヒョイと背を伸ばして驚いたようなしぐさを見せる。


「あら!…でも援軍が来るんなら良かったじゃない!?

 あのブルグトアドルフの人たちも十分守ってあげられるでしょう?」


「ええ、そう…そう、なのですけどね…」


「?……何か気がかりなことでもあるの?」


 どこか目を泳がせて言い淀むルクレティアが何か隠しているような気がしてヴァナディーズは前のめりになってルクレティアの顔を覗き込んだ。


「いえ、大したことは…ただ、そのせいでアルトリウシアへ帰るのがまた遅れそうで…」


「ああ!…なるほど…」


 子供の頃から聖女サクラに憧れ、リュウイチが降臨してからはリュウイチの聖女になりたいと頑張ってきたルクレティアからすると、リュウイチからこうして遠く離れているのは決して本意ではない。それでも今回こうしてアルビオンニウムへ来たのは、ルクレティアが神官フラーメンとしての役目を心置きなく果たせるようにというリュウイチの気遣いと、そして何よりもその為にリュウイチが譲ってくれた魔道具マジック・アイテムがあったからこそだ。

 リュウイチが十八に満たぬ娘に手は出さぬの宣言した以上、このままでは十八の誕生日を迎えるまであと二年、ルクレティアは聖女になれない。だが、リュウイチから魔道具マジック・アイテムを受け取ればすぐにでも聖女になれてしまう。そのためにもリュウイチの意に沿うよう、アルビオンニウムへ祭祀をしに行くという勤めを果たさねばならない。ルクレティアは本心を言うと、そのためにアルビオンニウムへ来たのだ。


 ただ、そのアルビオンニウムへ来た理由は既にない。用は済んでしまった。

 結果的に祭祀は従兄弟のスカエウァにやってもらったわけだが、しかしルクレティアが来なければ『大水晶球』マグナ・クリスタル・ピラの復活も無く、スカエウァでも祭祀を行う事は出来なかったのだから無駄足だったわけではない。無駄足ではなかったが、アルビオンニウムへ来なければならなかった理由が無くなった以上はすぐにでも飛んで帰りたかった。

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