第480話 遠慮

統一歴九十九年五月五日、夕 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 シュバルツゼーブルグ周辺の盗賊を結集して一大勢力を築き上げたのはムセイオンを脱走してきたハーフエルフたちであり、その目的は降臨を引き起こして自分たちの親に再会することだが、何故かアルビオンニウムへ向かったルクレティアたちに対して襲撃を繰り返している。リュウイチから伝え聞いた現地の様子はそういうことらしい。だがそれ以上の詳細を知ることはできなかった。


 まず、リュウイチは現地の様子をリュウイチがルクレティアにつけた《地の精霊アース・エレメンタル》に報告させているわけだが、どうやら《地の精霊》は数を数えることが出来ないらしく、“敵”である盗賊団やそれを率いるハーフエルフたち、そして味方の軍勢の数さえも数えることが出来ない。このため、彼我の兵数や犠牲者数などを知ることが出来ない。

 更に都合の悪いことには精霊エレメンタルは魔力を持たない普通の人間には全くと言ってよいほど興味を示さないらしく、現地にいる人間のことは固有名詞が全く分からないため、そこに誰が居て何をやっているかなどサッパリわからないのだった。


 これは精霊が使う念話の構造的な問題もあった。

 精霊は念話によってコミュニケーションをとるわけだが、念話では“言葉”は使われない。“意味”を直接、相手の脳に伝える。こちらからイメージを伝達し、相手の記憶にある物の中から最も適した情報と結びつけられて相手の脳内で再生される。このため、話し相手が知らない事については全く伝えることが出来ないし、相手が知っている事であってもこちら側とのイメージの間に差異があるとうまく伝わらないのだ。

 今回の場合、例えばリュウイチと《地の精霊》が同時に会ったことのある人物…すなわちルクレティアとヴァナディーズについては伝えることができる。二人で一緒に見ているので事前に共通認識が出来上がっているから、具体的にこの人物だと確定的に伝えることができる。

 だが、今回現地にいるカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子はリュウイチは会った事があったが《地の精霊》にとっては初対面の人物だ。こういう場合、《地の精霊》はカエソーのことを具体的に伝えることが出来ない。《地の精霊》がカエソーに対して抱いたボンヤリした印象を伝えることができる程度であり、その印象がリュウイチの中で「そのイメージに該当するのはカエソーだけだ」と明確に結び付けるに足るだけの具体性が無い場合は伝わらないのである。その上、《地の精霊》は魔力を持たない人間には等しく興味を持たないので、カエソーやマルクスなどの重要人物も全部「人間の軍隊の偉そうな奴」としてのみ伝わってしまう。これではリュウイチは誰の事だか分かりようがない。

 念話の意外な弱点であった。


 だからリュウイチもせっかく《地の精霊》と念話で来たのに、現地にカエソーやマルクスなどが来ている事も知ることが出来なかったし、サウマンディア軍団レギオー・サウマンディア大隊コホルスが既に合流していることも分からなかった。


 じゃあリュウイチ、《地の精霊》、ルクレティアの順で話を介することで、伝言ゲームのように現地の軍人の誰かと話が出来ないかと思ったが、残念ながらルクレティアは既に祭祀の準備に取り掛かっていた上に、軍人たちは別室で何やら会議を始めているとかでそれも出来そうにない状況だった。


 リュウイチを介した要領を得ない《地の精霊》との念話によって、現地の状況についてひとまずそれだけ知ったアルトリウスはヤキモキしていたが、そのもどかしさが解消されることはついになかった。


「エルネスティーネ・フォン・アルビオンニア侯爵夫人が参られました。」


 小食堂トリクリニウム・ミヌスの入口で控えていたネロがそう告げたのだ。

 アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子にとってエルネスティーネはどういう意味においても上位者である。そして上位者が入室してくる際は、起立して出迎えねばならない。アルトリウスはリュウイチとの話を中断して起立し、入口の方を向いた。リュキスカもそれに倣って立ち、そしてこの中で最上位者であるにも拘らずリュウイチも日本人らしい気質から周囲に合わせて起立してエルネスティーネを出迎えた。


「失礼いたしますリュウイチ様、皆様も」


「一段と華やかな装いで、よく似合っておいでです侯爵夫人マルキオニッサ


 アルトリウスがそう言ったようにリュウイチとの晩餐ケーナを前に入浴し、着替えも済ませてきたエルネスティーネは昼間の落ち着いた雰囲気とは違い、衣装も宝飾品も夜用の派手なものになっている。貴族ノビリタスならば時間帯や状況が変わるたびに、それに合わせて装いを変えるのは常識であった。

 しかし、アルトリウスの格好は昼間のままだ。リュウイチは降臨者ゆえかいつも同じ服装だし、リュキスカも上級貴族パトリキとしての自覚がまだ無いしリュウイチから与えられた衣服が限られるせいか頻繁に着替えるという発想自体があまり無いようで同じ服を着っぱなしの事が多い。その二人はいいとして貴公子として育ったアルトリウスが着替えていない事がエルネスティーネには気になった。


「ありがとうございます、子爵公子閣下。

 ですが、何か大切なお話でもしてらっしゃったのかしら?

 お邪魔したので無ければよろしいのですけど。」


 貴族が人と会うごとに場面に合わせて着替えるのは何も贅沢をしたいからとか富や権勢を誇りたいからというばかりではない。これから会う人物に対し、その場面その状況に合わせて自分自身を装うことで、相手が心地よく接することができるようにしようという、いわば礼節に基づくものだ。日本人にも親しみやすい言い方をするなら「おもてなしの心」とでも表現すべきだろうか?

 貴族にとって身形を整えるのは社交儀礼の中でも基本中の基本、礼儀の第一歩である。赤ん坊の頃に父が子爵に叙爵され、物心ついたころからずっと貴公子として育てられたアルトリウスがその程度の事をわきまえていない筈がない。それに彼は御風呂バルネウムに入りに自分の陣営本部プラエトーリウムへ一度戻ったはずだった。にもかかわらず、先ほどと同じ格好のままとなれば何かあったと考えるのは当然であろう。

 エルネスティーネの視線が自分の服装をずっと気にしている事に気付いたアルトリウスはわずかに気まずそうに苦笑いを浮かべた。


「いえ、むしろ侯爵夫人にも是非お耳に入れておきたいことがございまして。」


「まあ!一体何かしら?

 悪いことでなければいいのですけど。」


 エルネスティーネの言葉にアルトリウスとリュウイチは互いに目を見合わせ、口角を歪ませた。その態度に一瞬で少なくとも良い知らせではないと察したエルネスティーネはすかさず自分の発言を取り消す。


「ああ、いけないわ。

 悪い知らせだからこそ、耳を傾けねばなりませんね。

 先ほど私が言ったことは忘れてちょうだい。

 悪いことなら、それがもっと悪くなる前に知っておいた方が良いのでしょうから。」


「ご理解いただきありがたく存じます侯爵夫人。」


 アルトリウスはエルネスティーネに軽く会釈しながらそう言うと「実は先ほど…」とこれまでの出来事を説明して見せた。エルネスティーネ自身は今朝早くにアロイスが出立したところまでの状況しか知らない。その後は家族と共に日曜礼拝に出ていたからだ。

 エルネスティーネがそれまで知らされていたのはシュバルツゼーブルグの盗賊が三百人もの大勢力になっており、ライムント街道の中継基地スタティオを襲撃した事。そして、ルクレティアの一行がその盗賊団と接触する危険性が懸念されるため、アロイスが一個大隊コホルスを率いて現地に向かった事。それらは万が一ルクレティアのために《暗黒騎士リュウイチ》が勝手に動き出すことのないよう、当面はリュウイチには詳細を秘しておく事などである。


 エルネスティーネは詳細を隠すはずだった情報をアルトリウスがリュウイチに話してしまった事に内心驚いたが表面上は無表情を保っていた。そして、ルクレティアに付けられた《地の精霊アース・エレメンタル》がリュウイチの魔力を使って大魔法を使ったらしい事を聞かされると事情を察したようで、それまでアルトリウスを凝視していた目から訝しむような色が消え、途中からなるほどと言うように黙ってうなずきを繰り返しながら最後まで話を聞いた。


「事情は分かりました。

 それで子爵公子閣下は《地の精霊》の御力をお借りして、そのハーフエルフたちを捕えようと言うのですね?」


「ご賢察のとおりです、侯爵夫人」


 アルトリウスがそう答えると、エルネスティーネはチラリとリュウイチを見てから残念そうに言った。


「でも、それは許されないわ子爵公子閣下。

 それはきっと、『《レアル》の恩寵おんちょう独占』に抵触します。」


 残念そうに俯き気味に首を振りながらエルネスティーネがそう言うと、アルトリウスは信じられないとでも言うように色めき立った。


「何故です!?相手はムセイオンのハーフエルフで、しかも降臨を起こそうとしているのですよ!?

 彼らが今回のメルクリウス騒動の原因かもしれない。メルクリウス捕縛は大協約のどの条項よりも優先されるはずです。」


「子爵公子閣下、どうか落ち着いてください。

 最優先は降臨阻止であってメルクリウス捕縛ではありません。それに彼らがメルクリウスの正体だと断定できたわけではないわ。」


「そん…」


 抗議しようとしたアルトリウスをエルネスティーネは視線で制して話を続ける。


「第一、ハーフエルフのほとんどは大戦争後の御生まれよ。つまり、これまでの降臨にハーフエルフが関わったことはありません。

 彼らが降臨を引き起こそうと目論んでいるとしても、彼らをメルクリウスやその関係者と見做すことはできません。」


 エルネスティーネの話にアルトリウスは反論できなかった。グッと喉を鳴らして言葉を飲み込んでしまう。静かに拳を握りしめているアルトリウスを見て、今度はリュウイチがエルネスティーネに話しかけた。


『しかし、そのハーフエルフたちは大勢の住民たちを手にかけ、幸い《地の精霊》によって退けられましたがルクレティアたちのことも狙ったようです。

 ルクレティアは私の聖女なのだから、私が彼女を守る分には問題ないのでしょう?ではそれほど《レアル》の恩寵独占にこだわることもなんじゃないですか?』


 これにはエルネスティーネも困り顔で微笑むしかなかった。


「リュウイチ様、リュウイチ様がルクレティア様を御守りするのは当然ですし、それをお止めすることは私どもにはできません。

 ですが、かのハーフエルフたちを捕えねばならないのは私共の役目なのです。かのハーフエルフたちがルクレティア様を襲ったというのなら、ルクレティア様を御守りするのは仕方ないにしても、そうではないのならどうか御助力は御遠慮ください。それはリュウイチ様の御仕事ではございません。どうか、私共の役目をお取り上げにならないでくださいませ。」

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