第479話 初めての入浴体験

統一歴九十九年五月五日、夕 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 《レアル》古代ローマの文化を引き継ぐレーマ帝国では入浴は非常に好まれる。水や燃料が確保しにくい地域を除けば大抵の都市には公衆浴場テルマエが設置されており、貴族ノビリタス屋敷ドムスとなれば内風呂バルネウムがあるのが当然だった。大貴族パトリキの屋敷ともなれば、下手な公衆浴場なんかよりよっぽど大きくて豪勢な風呂を造らせていることも多い。自分で入るためだけではなく、客人を招いて自慢するためだ。しかし、要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ御風呂バルネウムはというと、庶民プレブスが期待するほど大きなものではなかった。


 陣営本部プラエトーリウム要塞カストルム内に設けられた軍団長レガトゥス・レギオニスの官舎であり、立派な軍事施設である。軍団長の私的な生活空間ではあるが、大っぴらに来客を迎え入れて歓待することは考えられていない。

 限られた要塞内の空間を無駄にしないよう、陣営本部自体が可能な限り小さく造られている上に、施設敷地の半分が軍団幕僚らトリブニ・ミリトゥムとともに軍団レギオーを指揮するための司令部として使うようにできている。風呂も当然、軍団長本人とその家族しか使わないのだから、大きさもそれ相応なものに納まっているのだった。

 ただし、それでも軍団長と言えば上級貴族パトリキかその子弟しか就任しないポストであるため、小さいながらもそれなりに豪華には造られている。

 壁や天井は明るさを確保し、清潔感を演出するために白く輝く大理石が使われ、浴槽は暖色系のトラバーチンで造られていた。床は本来、色とりどりのタイルを嵌め込んだ緻密なモザイク画が描かれているのだが、現在は床全面に簀子すのこが敷かれていて残念ながら見ることができない。これはカールが火傷をしないための措置だった。


 陣営本部のうち軍団長が私生活を送る区画にはすべて床暖房ハイポコーストゥムが設置されている。半地下式の加熱室プラエフルニウムに設けられたかまどで火を焚き、その熱気を床下に行き渡らせることで床を温めるのだが、その竈は浴室の真下にあるのだ。裸で過ごし、身体を温めるための風呂場なのだから風呂場の床を優先的に温めようという配慮からそういう配置になっているのだが、そのせいで床が熱くなりすぎて裸足だと足の裏を火傷してしまうことがあった。

 これは別に特別この陣営本部の設計が悪いせいではなく、そもそもレーマ式の浴場の床暖房はこういうものなのだ。だから公衆浴場でもどこでも、床暖房を備えた風呂に入る時は足を火傷しないように上履きソレアを履くことになっている。

 ところが、カールの場合はつい最近歩けるようになったばかりだ。体幹たいかんを支える筋肉も衰えているため、普通に座っているだけでも体力を消耗してしまう。歩いている時もフラフラしているが、座っていててもジッとしていることができない。歩いていても座っていても転びやすいうえに、一度転んだら誰かが助け起こさない限り、立ち上がるまで時間がかかってしまう。つまり、床で火傷をしてしまう危険性が高いのだ。そのため、カールが入る浴室には必ず簀子をしきつめて、熱すぎる床で火傷をしないように工夫しているわけだ。


 カールはアルテヒルデブラントことミヒャエルから色々教わりながら初めて自分で自分の身体を洗った。今までは侍女たちが洗ってくれたし、カールも洗われるだけだった。石鹸の使い方も知らなかったし、手桶の使い方も分からなかった。石鹸はカールの見えないところで侍女の誰かが泡立ててくれていたし、手桶なんかは自分で持ったこともなかったのだ。

 お湯の入った真鍮製の手桶は予想以上に重かった。お湯をいっぱいに入れた真鍮の手桶をプルプル震えながら持ち上げようとしてバランスを崩し、カールはお湯を床にぶちまけてしまった。「ああっ」と泣きそうな顔になったカールに、ミヒャエルは優しく語り掛ける。


若殿ユンガー・ヘル、重ければ無理に手桶一杯にお湯を汲まなくてもいいのです。

 このように、手桶に半分だけ汲んで被りなさい。」


老師アルター・マイスター、それではお湯が足らないのではないか?」


「一度で足らなければ二度被ればよく、二度で足らなければ三度被ればいいだけです、若殿。要は汚れを洗い流せればいいのですから。」


 そう言うとミヒャエルは床に転がった真鍮の手桶を拾い上げ、半分だけお湯を取ってバシャッと自分の肩にかけ、それを二度、三度と繰り返して見せ、ニコッと笑ってカールに空になった手桶を差し出した。カールはそれを両手で受け取り、ジッと手桶を見てから「なるほど」と一言つぶやいてお湯を少しだけ入れ、肩から被った。


「・・・できた」


 カールは空になった手桶を見つめて満足そうに小さく言うと、同じことを繰り返した。

 普通ならカールよりずっと小さい幼児でも理解できているであろうことだが、そんなことでさえ分かっていないのはカールが愚かだからではない。すべてを他人にやってもらっていたカールには、そういう事を理解するための経験が根本的に足りていなかった。カールはそういう小さな経験を積んでいく機会そのものが無かったのだ。


「老師…」


 身体を洗い終え、ミヒャエルと一緒に浴槽でお湯に浸かったカールはポツリと呼びかけた。


「何ですかな、若殿?」


「僕も老師みたいになれるかな?」


 やっとカールが身体を洗い終え、自分も洗い終わって浴槽でお湯に浸かり、束の間のリラックスを楽しんでいたミヒャエルはカールの声色に何かを感じ、我に返った。


「私みたいに?」


「さっき見ただろう?

 みんなが普通に、女でも片手で持てるような手桶を両手で持ち上げることもできなかった。歩くのだって、庭園ペリスティリウムを一周するのが精いっぱいだ。

 僕は身体が弱い。力がない。

 こんなんでも頑張れば強くなれるのか?」


「…若殿よ。若殿はこれまでご病気で身体が動かせなかったのですから弱いのは仕方ありません。

 でも、もうご病気は治りました。リュウイチ様の魔法によって…。

 だから、若殿はこれから強くなるのです。今まで動かせなかった分を、これから取り戻すのです。」


「僕は今八歳だ。たしか、四歳か五歳の頃からずっと、ベッドの上で寝てばかりいた。八ひく四だから…一、二、三、四で…一、二、三、四…四年は動いてない。それを取り戻すのにどれくらいかかるんだ?」


 カールは水面から両手を出し、指を折りながら計算した。八歳の少年にとって四年のブランクは大きい。人生の半分をベッドで過ごしている計算だ。成長の過程の中で、身体の基礎を作り上げるためにおそらく最も重要であろう期間の半分を無駄にした…それはとても重大な事のように思える。

 ミヒャエルは無言のまま考え、一度両手で顔を洗うとフーッと大きく息を吐いてから答えた。


「さあ、それは若殿の頑張り次第でしょうな。

 四年を取り戻すのは並大抵ではないでしょうが、取り戻せないということはないでしょう。」


「…それは、部屋の中でも取り戻せるのか?」


 カールの声のトーンが下がったことに気付いたミヒャエルは視線だけを動かしてカールの表情を観察する。


「部屋の中でも…とは?」


「知っているだろう?

 僕のこの身体はお日様の光を浴びることが出来ないんだ。」


「ですが、今は外に出ておいででしょう?」


「リュウイチ様に魔法をかけてもらってるからな。

 でも、リュウイチ様の魔法をかけてもらえなければ、また暗い部屋に閉じこもらねばならないんだ。部屋の中で運動するだけでも、強くなれるのか?」


 ミヒャエルは再び顔を洗った。


「たしかに、部屋の中では出来ないこともあります…乗馬とか…

 でも、リュウイチ様に魔法をかけていただけば、また外に出れるのでしょう?」


「リュウイチ様はいずれ《レアル》に帰っちゃうだろう?

 降臨者様は《レアル》に御帰りになるんだって聞いたぞ。

 リュウイチ様が《レアル》に御帰りになられたら、僕はまた外に出れなくなっちゃうじゃないか。」


 ミヒャエルは驚いた。エルネスティーネを始め、周囲の大人たちはただカールの病気が治って、魔法で外に出られるようにしてもらえたことを素直に喜んでいただけだったのに、カール本人はそれが仮初めの幸福でしかないことに気付いていたのだ。外に出たいときに外に出れない、外に出る前にリュウイチに魔法をかけてもらわねばならない…その体験を毎日繰り返しているのだから、確かにそのことに気づかない方がおかしいのかもしれない。


「ああ…それは…」


 ミヒャエルは言葉を無くし、思わず天井を見上げた。


「僕はリュウイチ様がお帰りになられる前に、今まで運動できなかった分を取り戻して、強くならなきゃいけないんだ。でも、頑張ってもやっと、庭園を一周歩けるようになっただけだ。こんなんで、本当に間に合うのかな?」


 カールはお湯の中に沈めた両手をギュッと握りしめていた。ミヒャエルはその様子を、自分の拳を見つめるカールの真剣なまなざしを横目で見て大きく深呼吸し、フンッと気合を入れるように鼻を鳴らすとそれまで脱力させていた上体を起こした。


「焦りは禁物ですぞ、若殿。」


 さっきより急に大きな声で話し始めたミヒャエルに驚き、カールはパッとミヒャエルの方を見た。ミヒャエルは自信たっぷりといった様子で微笑みながら語り続ける。


「人間の身体は鍛えれば鍛えるほど強くなります。ですが、焦って鍛えすぎると、強くなる前に壊れてしまいます。だから、身体が壊れない程度に頑張らねばなりませんが、焦っているとどこまで頑張ればいいかがわからず頑張りすぎてしまう。

 頑張りすぎると身体が壊れて、鍛えるどころではなくなってしまいます。

 頑張るためには若殿のようなやる気も大事ですが、慎重さも大事です。」


 自信のみなぎる態度で話すミヒャエルに一瞬、目に羨望を滲ませたカールだったがすぐに視線を逸らせ、握っていた拳もダランと脱力させる。


「だけど、慎重にって言われても、僕はどこまで頑張ればいいかもわからないんだ。」


 困ったように言うカールの肩にミヒャエルが腕を回した。父を喪って以来の感触にカールは驚いて顔を上げる。


「ご安心ください若殿、この老ヒルデブラントがついております。

 騎士らしく、馬を乗り回せるようになるぐらいまでは、若殿を鍛えてさしあげましょうぞ?」


「う、うん。」


 今日、カールにとって“生まれて初めて”をいっぱい経験した。どれもつまらないことばかりだが、それでもカールにとっては冒険だった。

 カールは生まれて初めて、侍女たち抜きで入浴した。初めて自分で自分の身体を洗った。そう言えば生まれて初めて父親以外の男性の裸を見た。男神の彫像みたいに筋肉がガッシリしていたのもビックリしたが、それよりもチン毛がボーボーでビックリした。


 父上もあんなだったっけ?


 古い記憶を漁ったがよく思い出せなかった。風呂にのぼせてしまったカールは、ミヒャエルに抱きかかえられて風呂から運び出されながら、そんなことを考えていた。

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