第473話 舞台裏の会話

統一歴九十九年五月五日、夕 - 《陶片テスタチェウス》とあるケーナーティオ/アルトリウシア



「内密に…いったい何を御調べすればいいんで?」


 ラウリは上目遣いにアグリッパの顔を覗き込みながら声を低くして尋ねた。ラウリはこういう事には慣れている。子爵領法務官プラエトル・ウィケコメティスアグリッパ・アルビニウス・キンナはその肩書が示す通り、アルトリウシア子爵領における法務を担っている重臣だ。アルトリウシア全域の治安維持に責任を持っており、そしてラウリはリクハルドヘイム地区においてアグリッパと似たような役目を担っている。さしずめ、アグリッパが県警本部のトップなら、ラウリは市町村の警察署長といった役回りである。当然、それなりの付き合いは以前からあった。


 治安というものは、ただ犯罪を取り締まりさえすれば維持できるというような単純なものではない。特に捜査能力の限られる時代や社会においてはなおさらである。

 人が犯罪を犯せば必ず何らかの痕跡が残る。だがそうした痕跡の一つ一つを調べ上げて証拠を積み上げ、犯人を特定して捕まえ犯罪を立証するためには、それなりの捜査技術が必要になるのだ。だが、この世界ヴァーチャリアにおいてはそうした科学的捜査技術というものはほとんど発達していない。

 指紋、血液型、DNA…そういったものの存在は《レアル》から伝えられてはいる。だが、その知識を活かすための技術は存在していない。DNAを検査し鑑定するための器具など一つとして存在しないし、血液型を判別する方法も知られていない。指紋は検出できるが、その指紋を写し取って記録する技術は無い。ガラスレンズが普及してないから、拡大して誰のどの指の指紋かを検証することも難しい。そして、そうした痕跡を活かせないとなると、物的証拠の犯罪捜査に寄与する要素としての存在価値は低下させざるを得ない。


 物的証拠が犯罪捜査に有用でなくなると、証言や状況証拠などに頼らざるを得なくなっていく。だが、白昼堂々と衆人監視の下で行われる犯罪などそれほど多くは無く、犯罪とは関係のない第三者の目撃証言を集めるのはかなりむずかしい。特に職業的犯罪者の場合は痕跡を残さなかったり、人目に付かないように犯罪を犯す技術には長けているため余計である。

 しかし、犯罪が起きた以上は捜査せざるを得ない。集まりにくい証言を集めなければならない。その時に必要になるのが犯罪に詳しいたちの情報だった。餅は餅屋、裏稼業の事は裏稼業の人間が詳しいのである。

 結果、治安を担う者と裏稼業に生きる者たちとの交流が生まれる。大きな犯罪を犯した者の取り締まりに協力する代わりに、小さな犯罪を見逃してもらう…そうした持ちつ持たれつの関係が出来上がるのだ。


 ラウリはかつて海賊だったが、他の海賊退治に協力することで取り立てられた、その典型の一人だった。アルトリウシアの郷士ドゥーチェのうちラウリのボスであるリクハルド・ヘリアンソンやティグリス・アンブーストゥス、メルヒオール・フォン・アイゼンファウストは代表例と言ってよいだろう。彼らはいずれも郷士という肩書を得て立派な下級貴族ノビレスとしてそれぞれの地区を統治しているが、同時に自分たちの地区での裏稼業も続けていたのである。…さすがに海賊稼業や押し込み強盗のような凶悪な真似はしていないが…。

 アグリッパもその辺のことはよく承知している。そのうえで、彼らと付き合い、そして利用しているのだ。


「何、そう身構えなくても簡単なことだ。

 先月、お前たちが面倒を見ている店から娼婦が一人、誘拐されただろう?」


 アグリッパがニヤッと笑ってそう言うと、ラウリは無言のまま気まずそうに右の口角を吊り上げて上体を起こし、わずかに仰け反った。


「名前はリュキスカ…そうだな?」


「それについちゃ、アッシらもでしてねぇ…」


 ラウリがしらを切ろうとすると、アグリッパは身体を揺すって低く笑った。


「とぼけんでもいい。

 彼女の行方ゆくえなら既に知っている。今日も会ってきたのだ。

 お前たちは子爵公子アルトリウス閣下から色々調べるよう言われているのだろう?」


 ンッと喉を鳴らしてラウリは唾を飲み込み、上体を反らしたまま顔を俯かせた。その間ずっと、目はアグリッパを見たままである。


「じゃあ、アルビニウス・キンナアグリッパ様もアイツの過去を?」


 ラウリの顔を愉しそうに見ながらアグリッパは円卓メンサの上の干菓子を一つ摘まみ口に放り込み、笑みを浮かべながらボリボリと噛み砕く。


「過去はまあ、この際どうでもよい。

 お前たちが子爵公子閣下に報告しておることはどうせ私にも伝えられることになっておる。まあ、それよりも早く教えてくれるのはありがたいがな。」


 そう言いながらアグリッパは口に広がった甘みを漱ぐために茶碗ポクルムを手に取り、口に運んだ。そのまま、少し冷めてぬるくなった香茶をズズッと啜る。


「キンナ様もお人が悪ぃや…んじゃあ、いったいアイツの何を調べればいいんで?」


 揶揄からかわれたような気になったラウリは面白くなさそうな様子を滲ませながら上体を前後に数回揺すり、視線を部屋の隅っこに泳がせてから尋ねた。


「すべてだ。」


「すべて?」


 悪い冗談を聞かされた時のように眉をひそめ、顔をしかめてラウリが問いかけるとアグリッパは円卓に茶碗をトンと小さく音が鳴るような勢いで降ろし、ラウリの方へ顔を向けた。


「そうだ。過去から誘拐されるまでの交友関係。生活の様子。趣味、食べ物、色や服装、香水の好み。その他好きな事、嫌いな事。やりたかったこと。彼女に関するすべてだ。」


 ラウリは右の眉毛を持ち上げ、小さく身体を伸びあがらせて首を小刻みに横に振った。アグリッパが何故そんなことを聞きたがっているかが理解できないからだ。


「何だってそんなことを?

 アイツがいったいどうしたっていうんです?」


などと言えるのは今だけだ。

 彼女は既に上級貴族パトリキとして扱われておる。」


 混乱した様子のラウリを宥めるように、アグリッパは身を乗り出し声を低めてささやくように言う。その目はラウリの見たところ真剣そのものだ。


「アイツが大貴族パトリキ!?

 アイツぁだって、ただの娼婦で…」


 反発するようにラウリが半笑いを浮かべながら言うと、アグリッパは人差し指を左右に振って黙らせる。


「その娼婦が、だ…今や上級貴族様に仲間入りだ。

 私だってもうおいそれと口を利けん。」


「まさか…そりゃ、アッシらもなんだかとんでもねぇ御大尽おだいじんに気に入られたってぇ話は聞いてますがね。

 でもアイツぁ…マジなんですかい?」


 落ち着きを取り戻したラウリがアグリッパに合わせて声を押し殺しながら問いかけると、アグリッパは両の眉毛をヒョイッと持ち上げ、小さくため息をつきながら姿勢を元に戻した。まるでアグリッパ自身も呆れているというような態度だ。


「まさに《レアル》神話のシンデレラのごとしだな。

 今はまだ伏せられておるし詳しいことは言えんが、あとふた月もすれば発表があるだろう。」


「それで…アイツの事を?」


「そうだ、これからは我々も彼女と貴族ノビリタスとして付き合わねばならん。

 そのうえで御身辺の事は色々知っておいた方がいいからな。


 そうだ!

 他にも彼女の事を調べてくれとか、他の貴族から頼まれておるのだろう?」


「え!?…ええ、そりゃ、まあ…」


「別にそれはかまわん。

 だが、誰に何を報告したかは私にも報告してもらいたいな。」


 そう言うと、アグリッパは円卓の上にあった革袋をズイッとラウリの方へ押しやった。それは先ほど、ラウリがアグリッパに差し出したであり、中身は銀貨だった。つまり、それが今回の依頼の報酬という事である。


「わかりやした。御報告しろとおっしゃるならそれがお勤めでやんすから…

 それにしてもアルビニウス・キンナアグリッパ様、今日アイツに会って来たとおっしゃいやしたが、て事ぁアイツぁ今マニウス要塞カストルム・マニに居るんで?」


 アグリッパは楽しそうにニヤリと笑った。ラウリの手下たちがマニウス要塞に収容されている難民や出入りの業者たちを通じて色々と探りを入れている事にアグリッパも既に気付いていたからだ。


「ふっふっふ、そうだとも。

 お前たちも既に見当をつけていたのだろう?

 だがラウリよ。」


「何です?」


 アグリッパはラウリの方へ身を乗り出し、声を低くして囁いた。


「それはだ。よいな?」

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