第475話 マティアス司祭の帰還
統一歴九十九年五月五日、夕 - ティトゥス教会/アルトリウシア
元々、アルトリウシアに聖職者が常駐するような教会は存在していなかった。レーマ帝国にとってキリスト教は敵国の宗教であり、ヒト以外の種族を不当に差別する教義は到底受け入れられるものではなかったのだ。レーマ帝国ではキリスト教に懐疑的な人間が多く、倦厭される傾向にあり、《レアル》のような広がりを見せてはいない。レーマ帝国でキリスト教を信仰するのはランツクネヒト族などの極少数の例外的な人たちだけであろう。正確な統計データのようなものが存在するわけではないが、おそらく総人口の五パーセントもいないと考えられている。
アルトリウシアにキリスト教会が建てられたのはセーヘイムのブッカたちがレーマ帝国に恭順するようになってから、セーヘイムに移り住むようになったごく少数のランツクネヒト族のために、ごく小さな礼拝堂が立てられたのが最初だと言われている。
それからアルトリウシアが正式にレーマ帝国のアルトリウシア子爵領と定められ、
その後、アルビオンニウムの侠客メルヒオールが海賊退治に協力した功績を認められて
そして最後に建立されたのがティトゥス教会だった。
フライターク山噴火によるアルビオンニウム放棄が決定され、アルビオンニウムから多くの難民がアルトリウシアへ押し寄せた。そしてその中にはアルビオンニア侯爵家もいたのである。
侯爵家が入るに足るような宮殿や邸宅などアルトリウシアには存在せず。結果的に使われないまま放置されていたティトゥス要塞を再利用する形で子爵家と侯爵家が入居することになる。マニウス要塞が建造されて以降、ティトゥス要塞周辺の城下町は半ばゴーストタウンと化していたのだが、そこへ侯爵家と子爵家の家来衆が大勢引っ越してくることとなり、必然的にティトゥス要塞周辺にはアルトリウシアで最も多くのキリスト教徒が集中するようになってしまったのだ。
当然だがアルビオンニウム放棄によりアルビオンニウムの教会も引っ越さざるを得ず、必然的に侯爵家についてくる形でアルトリウシアへ移ってきた。
レーマ帝国におけるキリスト教の最大の庇護者たる
その理由は様々にある。公式に発表されている理由で最大のものは、非キリスト教徒が住民の過半を占めるアルトリウシアで、避難民のための住居を急いで建設しなければならないのに、キリスト教のためだけの建物に建築資材を優先的させるのが困難であったことだ。しかし、真の理由は次の州都が定まっていなかったからに他ならない。
アルビオンニウム放棄によってアルビオンニア属州は州都を失った。アルビオンニア侯爵の地位を亡夫から引き継いだエルネスティーネ・フォン・アルビオンニアは、御家騒動のゴタゴタもあって侯爵家直轄領内の他の土地に移るのは色々と不都合があり、地理的な理由もあってルキウスを頼ってアルトリウシアに避難して来ているのだが、アルトリウシアはあくまでもアルトリウシア子爵家の領地であってアルビオンニア属州の州都にするわけにはいかない。アルトリウシアはあくまでも暫定的に避難しただけであって、侯爵家はアルビオンニアの情勢が落ち着いたら他の地へ移らねばならないのだ。
アルトリウシアの元々の住民にキリスト教徒はほとんどいない。侯爵家が新たな州都を定めてアルトリウシアから出て行けば、アルトリウシアのキリスト教徒も大半が出ていくだろう。それなのに、アルトリウシアに立派な大聖堂を建てたりしたら、ごく少数のキリスト教徒で立派過ぎる大聖堂を維持していくのは難しくなってしまう。
そうした背景から、属州領主の御膝元の教会としてはやけに小ぢんまりとした建物とせざるを得なかったのだ。ただし、場所はかなり良い土地が与えられている。属州領主の館であるティトゥス要塞からほど近く、城下町では最北(南半球なので北側の方が日当たりが良い)に位置し、教会の尖塔からはアルビオン海峡を見渡すことも出来る好立地だ。
マニウス街道からティトゥス街道へ入ってきた馬車が十字路を北へ折れ、その教会へ乗り入れてきたのは、太陽の光が夕日の色に変わり始め、
教会の前の車回しを回って教会正面に停車した侯爵家の馬車から降りて来た聖職者たちの表情は一様に暗かった。別に感情がどうということではなく、毒麦を焼いたガスを吸ったせいで崩れた体調が回復しきらないうちに馬車に乗せられ、三時間近くも揺られて再び具合が悪くなったせいだった。
「おかえりなさ…ちょっと、どうしたのですか?
大丈夫ですか!?」
マティアス司祭らを出迎えた教会の聖職者らは、青ざめた顔でよろけながら降りて来たマティアスらの様子に酷く驚いた。思わず駆け寄り、転倒しないよう支えてしまったほどだ。
「ああ、大丈夫です。何でもありませんよ。」
マティアスはそう言いながら出迎えた者たちを宥め、すぐに振り返って後に続いてくる助祭や修道女に視線を向けながら続ける。
「何もありませんでした。そうですよね?」
マティアスは同行していた助祭と修道女に釘を刺す。助祭と修道女は不承不承という様子ではあったが、「はい、何もありませんでした。何でもありません。」と答えた。いかにも何かあったなとうかがわせるようなやりとりではあるが、彼らは実際に体調を崩していたため、この時彼らの表情に疑問を持つ者はいなかった。
「しかし、何でもないと言うような様子では…」
「いや、ちょっと揺れたのでね、酔っただけです。
横になればすぐに良くなりますよ。
そういうわけで、今日は横にならせてもらいたいのですがよろしいかな?」
「もちろんですとも司祭様!
すぐに、お部屋へお連れしますとも。」
「すみませんが、そうさせてください。」
マティアスは出迎えた聖職者らの追及をあしらうと、肩を支えらえれながら自室へと引き取って行った。それを見送った後、助祭も同じように自室へと引き取っていく。同じように自室へ引き取ろうとする修道女に同僚の修道女が声をかけた。
「
「ああ、
マグダレーネは心配そうにザスキアの横へ駆け寄る。
「大丈夫?
顔色が悪いわ。」
「ありがとう。大丈夫よ、ホントに、何でもないの。」
ザスキアは馬車の中でなおも悪魔説を訴えていたが、マティアスに叱られたうえに堅く口止めをされていた。
「本当に?」
「ええ、本当よ。心配してくれてありがとう。
ただ、少し休ませていただけないかしら?」
「それはかまわないわ。
そうだ!荷物の片づけを代わりにしてあげるわ。
荷物はどうしたの?」
侯爵家の日曜礼拝には教会からキリストと十二使徒の聖像などを持っていくことになっている。マグダレーネはそれの片づけをしようと申し出たのだが、侯爵家の馬車は既に立ち去ったのにそれらしい荷物が見当たらない。
ザスキアは頭痛のする額に手を当てながら申し訳なさそうに言った。
「ああ…それは後で侯爵夫人の御家来が届けてくれることになっているの。
だから何もないわ。」
「ええ!?…じゃあ、リュートも?」
「ええ、ごめんなさい。あれ、アナタのリュートだったのに…
後で聖像と一緒に届けてもらうことになってるの。」
マグダレーネは目を丸くして驚き、口をしばらくパクパクさせていたが、すぐに諦めたというか、何かを取り繕うように目を泳がせながら作り笑いを浮かべる。
「え、ええ…いいのよ。毎日弾かなきゃいけないものじゃないし…
そうだ、ロウソク!ザスキア尼、アナタもしかしてロウソクを間違って持って行かなかった?
あれも置いてきたの?」
「ああ…ええ、そうなの…一昨日寄付してもらった南蛮ロウソクを間違って持って行っちゃって、それで礼拝で使っちゃったのよ…ああ、そうだわ。ひょっとして今日の食堂で蜜蝋ロウソクを使うことになるのかしら?」
あの南蛮ロウソクは孤児院の食堂で使うはずのものであった。それを今日、礼拝で使ってしまった。蜜蝋ロウソクはアルトリウシアでは鯨油ロウソクより手に入りにくく、礼拝等の儀式でしか使わない。その蜜蝋ロウソクを孤児院の食堂で使わねばならないことになったとしたら、寄付で運営されている孤児院では許されざる贅沢と言わざるをえまい。
ザスキアは申し訳なさそうに自分の失態を詫びたが、マグダレーネは嬉しそうに微笑んで慰めた。
「いいえ、大丈夫よ。
そう、あのロウソクを礼拝で使ったのね?
使っちゃったなら仕方ないわ。
食堂のロウソクは大丈夫、他にもあるから気にしないで。
さあザスキア尼、今日はもうゆっくり休んだ方がいいわ。」
マグダレーネは優しくそう言うとザスキアの肩を抱いて部屋へ連れて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます