第469話 ハン族の狙い

統一歴九十九年五月五日、夕 - 《陶片テスタチェウス》とあるケーナーティオ/アルトリウシア



 陽がだいぶ傾いてきたせいもあって薄暗くなっていた室内にはまだ火こそ灯されていないが燭台に真新しい鯨油ロウソクが立てられていた。店員が新しい香茶を淹れなおし退室した後の室内には、窓が採光のために開け放たれているにも拘わらず香茶の良い香りが漂っている。


「これは何だ?」


 尋ねたアルトリウシア子爵領法務官プラエトル・テッリトーリイ・ウィケコメティス・アルトリシアアグリッパ・アルビニウス・キンナの視線が注がれているのは円卓メンサの上に置かれた革袋の方ではなく、店員が置いて行った皿の方だった。その上には短冊状に切られた薄い白い板が並べられている。


「そいつぁピエンカウってぇチューアの菓子でさぁ。

 米の粉を水飴でって作る干菓子で…この店、最近チューアの料理人を入れたんで、そいつに作らせたもんで。

 中に入ってるのぁクルミです。試しに御賞味いただこうとご用意させていただきやした。どうぞお召し上がりくだせぇ。」


「ほう…」


 ラウリの説明を聞いてアグリッパは板状の菓子を一枚手に取り、口に運んだ。意外と硬く、噛み砕いて口の中に入れると途端に崩れ、砂糖をそのまま口に入れたかのような甘みが広がる。そして混ぜられたクルミの実が後になってから存在感を主張し始め、クルミの香ばしさと落ち着いた甘さとが、先に口いっぱいに広がっていた水飴の甘さを穏やかなものへと変えていった。


「良いな。悪くない。渋めに淹れた香茶とよく合いそうだ。」


「恐れ入りやす。

 あとでお土産に包ませやすんで、どうぞお持ちください。」


「うむ…ありがとう。家族が喜びそうだ。」


 感謝など言葉だけでさも当然のことであるかのようにアグリッパは言い、香茶で口をすすいで続けた。


「しかし、家族への土産はともかく、子爵閣下ウィケコメスへの土産も用意したいものだ。」


「と、いいますと。」


 ラウリはいよいよ本題かと身構える。


「例の捕虜…ハン支援軍アウクシリア・ハンのゴブリン兵…あれはどうなっておる?

 まだ尋問できんのか?」


 アグリッパはかねてからリクハルドが捕えたハン騎兵の捕虜バランベルの引き渡しを要求していた。リクハルドは重傷を負っているからという理由で引き渡しを拒否し続けている。


「そいつぁまだ無理でさぁ。

 ヤツぁ、意識を回復したばっかで、身体を起こすのがやっとという有様で。」


「それでも話くらいはできるであろう?

 意識を回復してからだいぶ経っておるではないか。」


「いやいや、ヤツにはポーションをだいぶ飲ませたんでね。

 今ぁトコでさぁ。

 今話を聞いても、まともなことはしゃべりやせんぜ?」


 焦れたように言うアグリッパに対し、ラウリは悪い冗談でも聞かされたようにせせら笑って答えた。

 重傷者には回復を促すためにヒールポーションを連日のように与えるのはよくあることだ。だがこの世界ヴァーチャリアで生産されたヒールポーションには麻薬成分が含まれている。その成分は鎮痛効果をもたらすが中毒性があり、幻覚や幻聴といった副作用も持っている。ヒールポーションを大量に与えられた傷病者が麻薬中毒になってしまうのは珍しいことではなく、ある程度傷が癒えると与えるヒールポーションの量を徐々に減らし、麻薬を抜いていかねばならない。

 その途中で話を聞いたところで、幻覚や幻聴などの副作用が強く働いていてまともな話は出来ない…ラウリが言っているのはそういうことだった。


 実際にはバランベルの症状はそこまで深刻なものではない。見つけた時の具合があまりに酷く、どうせ生き残れないだろうと思われていたことから投与するヒールポーションの量を当初からケチっていたのが理由だった。幻覚や幻聴などの副作用が無いわけではないが、まともな会話が成立しないということはない。

 にもかかわらずラウリたちがバランベルの症状を偽ってまで引き渡しを渋っているのは、二頭のダイアウルフを手なづけるための一種の人質としての価値を見出しているからだった。


「ふむ…まあ、こちらとしても回復したとて手足を失ったゴブリン兵の面倒など見たくもないか…しかし、いずれこちらから官吏を派遣してでもかまわん。なるべく早いうちに尋問したいな。」


 アグリッパは内心でラウリの説明をいぶかしみながら釘を刺す。


「それはもちろん心得ておりやす。アッシらも子爵様の御配下でやすから…」


「ならばよい…ところでその捕虜の世話だが、信用のおけるものにやらせておるのだろうな?」


 干菓子をもう一枚口に入れると、アグリッパは肘掛けに体重をかけてラウリの方へ身を乗り出すようにして尋ねた。


「もちろんですが、何か?」


「うむ、アルトリウシア平野からダイアウルフが来ておろう?」


「へぃ、ウチから対策にダイアウルフを貸し出してやすから…」


「あれは実はアイゼンファウストを襲撃するためのものではなく、ひょっとしてアルトリウシアに潜んでおる間者かんじゃか、あるいはお前たちの捕えているあの捕虜と連絡をとるために来ておるのではないかと…そういう話があってな。」


 ラウリはハッとしたように目を丸くした。


「連絡ですかい?」


「考えてもみよ。きゃつらはあの日、多くの死者をだした。こちらに残されていたゴブリン兵の死骸は百を超える。逃げ延びた中にそれなりに負傷者もいたであろうことを考えれば、おそらく兵力を半減しとるはずだ。

 叛乱を起こす前の段階で既に大隊コホルスを下回っておったのが半減だぞ?きゃつら御自慢のダイアウルフ騎兵はたしか三十騎しかいなかった。それがこっちで捕まっておるのも含めれば半分以上が失われておる。今や十騎かそこらしか残っていまいよ。

 そんな戦力でアルトリウシアを攻めてどうなる?

 きゃつらは何か別の事をたくらんでおる…そうは思わんか?」


 言われてラウリは顎に手を添えた。

 確かに今、ハン支援軍にアルトリウシアを攻撃する力は無いし攻撃する意味もない。何と言っても彼らは今エッケ島に居るのだ。しかも船を失い、事実上エッケ島に閉じ込められていると言って良い。おまけに侯爵家から食料を支給されてようやく生き延びている情況である。この状況でアルトリウシアを攻撃したところで、彼らは簡単に討ち取られてしまうだろうし、わざわざ兵力を投入しなくても食料供給を停止するだけで彼らは次の冬を越せなくなってしまうに違いなかった。

 にもかかわらずアルトリウシア平野から騎兵を派遣してアイゼンファウストを伺っている。攻撃ではない別の目的がある…そう考えるのは理に適っていた。


「なるほど…となると、奴らの目的は?」


 ラウリが顔を上げて尋ねると、アグリッパは前かがみにしていた上体を仰け反らせた。


「それが分かれば苦労はせん!

 きゃつらが何を考えておるかなど、想像もつかんよ。」


 そう言うとアグリッパは茶碗ポクルムを手に取り、香茶を啜る。


「ともかく、用心することだ。

 アルトリウシアのどこかに、敵が…あるいは敵と内通しておる者がいる。

 きゃつらはそいつと連絡をとろうとしておる…私はそう睨んでおる。

 お前たちがヤルマリ橋の着工を遅らせるのを見逃しとるのは、それもあってのことだ。アイゼンファウストとハン支援軍の付き合いは浅かったし、アイゼンファウストの防備は固いからな。

 きゃつらが接触したい相手がいるとしたら、アンブースティアか《陶片テスタチェウス》のどちらかに潜んでおろう?」


 アグリッパは干菓子をもう一切れ、口に放り込んだ。

 見るとアグリッパの視線はラウリにずっと注がれている。何か心当たりがあるんじゃないかと疑っている目だ。


「さあ、それは何とも…」


 ラウリは苦笑いを浮かべる。

 実際のところ、心当たりはありまくりだった。ハン支援軍にアルトリウシアが一時的に軍事的空白が出来ることを教え、アルビオンニア島の南…アリスイ氏の支配領域のその向こうにハン族が好みそうな草原地帯がある…そう言って叛乱と逃亡をそそのかしたのはリクハルド自身だったのだ。

 おそらく成功するわけないとリクハルドたちも思っていたのだが、ハン支援軍はまんまと実行し、予想通り失敗した。だが、リクハルドたちにとって誤算だったのは、ハン支援軍が生き残ってしまった事だ。リクハルドの目論見ではハン支援軍は叛乱当日に戦力を使い潰し、脱出も出来ずに海軍基地カストルム・ナヴァリアで討ち取られるはずだったのだ。なのにハン支援軍は戦力を半減させながらも船で脱出してしまっている。そして更に都合の悪いことにエッケ島に立て籠ってしまったというではないか。どうせ脱出するなら手の届かないほど遠くへ行くか、海に沈みでもしてくれればよかったのに…。

 ともあれ、ハン支援軍はアルトリウシアから目と鼻の先でおめおめと生き恥を晒している。きっと、この状況をどうにかしたいと考えているに違いない。そしてハン族の王族…特にイェルナクあたりは今でもリクハルドを友人と見做みなしている。アルトリウシアに残された数少ない伝手つてとしてリクハルドを頼って来る可能性は高かった。


「お教えいただき、ありがとうございやす。

 リクハルドに伝え、用心させていただきやす。」

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