第464話 悪魔の不在証言
統一歴九十九年五月五日、午後 -
「それで、
「はい、侯爵夫人は意識を回復されました。
カール閣下も御無事ですが、ご家族を心配なさっておいでです。」
アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子は
「侯爵夫人は?」
「こちらです。」
従兵に案内され、アルトリウスは
「侯爵夫人!?ご無事ですか?」
「ああ、アルトリウス…ええ、まだ少し頭が痛いけど大丈夫よ。」
エルネスティーネは抱きかかえていた末娘のカロリーネを覗き込んでいたが、アルトリウスが呼びかけると沈痛そうな顔を上げ、無理やり微笑んで見せた。横に座っているディートリンデやエルゼもグッタリして具合が悪そうである。
「何があったのですか?」
アルトリウスが尋ねるとエルネスティーネは頭が痛いのか額を指先で押さえながらチラリと、向かいに座る聖職者らに視線を向けて答えた。
「わかりませんわ。何が起こったのか…
礼拝をしていたの…でも途中から頭が痛くなり始めて、それで…我慢していたのだけど、その内誰かが急に笑い始めたの。」
「笑った?」
アルトリウスは思わず顔を
「ええ、そうよ。侍女の一人だったわ…それから、他にも二人、三人と笑い始めて…そのうち具合が悪くなる者が次々と…私も急に胸が悪くなって…」
そう言うとエルネスティーネはその時の吐き気を思い出したのか拳を作って口元を抑えた。ディートリンデもその時の自分の醜態を思い出し、隣に座る母にギュッと抱きつき、エルネスティーネはその肩を優しく抱いてやる。
すると、侯爵夫人一家の座る寝椅子の向かいに座っていた聖職者たちの中から修道女がパッと顔を上げてアルトリウスに訴えた。
「悪魔です!悪魔が現れたんですわ!!」
「悪魔!?」
さすがにアルトリウスも呆れとも驚きともつかぬ表情を作った。
「はい、悪魔です。あの時、あの部屋に悪魔が現れて、人々を害そうとしたんですわ!
だからみんな気が触れたようになって「よしなさい!」…司祭様!!」
修道女の訴えをマティアス司祭が遮った。
「悪魔などいない。あの場にそんなものはいなかった。」
「ですが司祭様!」
「これほど大人数に一度に害をなせるほど強い悪魔がいたのなら、気づけない筈はありません。あれは悪魔の仕業などではない。」
そんな中でマティアスは例外的な人物だった。レーマ正教会の聖職者の中ではトップクラスの魔力を有する司祭であり、低位の治癒魔法ぐらいなら使うことができたし、ある程度強い
かつてカールが産まれたばかりの頃、肌が異様に白く赤い瞳を持って生まれた彼を見た当時のアルビオンニウム正教会の司祭はカールを「
侯爵家と教会の関係は見る間に悪化し、アルビオンニウムの住民たちは司祭を支持する教会派と、マクシミリアンを支持する領主派に分かれて反目するようになってしまった。熱心なキリスト教徒の多いランツクネヒト族の多いアルビオンニウムで、ランツクネヒト族の大部分が教会派に付いてしまったのだ。
しかし、ランツクネヒト族が多いとは言ってもアルビオンニウムの人口の半分にも満たない。さらにランツクネヒト族の中にも少数ながら領主派は存在した。そして、元々キリスト教に対してあまり面白く思っていなかった非キリスト教徒たちが一斉に領主派に加わり、ここぞとばかりにキリスト教会への批判を展開しはじめた。このため、アルビオンニウム市内において教会派と領主派の対立が深刻なものとなってしまう。このころ、アルビオンニウムで起きた暴力事件や殺人事件の二割近くが教会派と領主派の対立に関係するものだった。
マティアスはそんな事態の収拾と教会と侯爵家の関係修復のためにアルビオンニウムへ派遣された司祭だった。レーマ正教会の中で魔力の権威であるマティアスが「悪魔憑きではない」と断ずれば、他の魔力を持たない、あるいは魔力の弱い聖職者たちはそれ以上何も言えなくなる。そして実際にアルビオンニウムへ着任したマティアスが診たところ、カールからもその周囲からも異常な魔力などは感じられなかった。
教会派を率いてカールを悪魔憑きだと主張した司祭はマティアスが着任する直前に謎の急死を遂げ、マティアスが「悪魔憑きではない」と宣言したことによって事態は急速に鎮静化に向かう。
悪魔憑きだと疑う声がまったく無くなったわけではなかったが、それでも大っぴらにカールを批判する声は無くなり、侯爵家と教会の関係も修復へ向かった。その後も再び悪魔憑きという噂が再燃しないようにするため、マティアスはアルビオンニウムに留まり続け、現在もこうして侯爵家の礼拝を担当し続けている。
つまり、カールの魔力の監視と、そしてカールが悪魔憑きではないと確認し、証言し続けるのは、マティアスにとってきわめて重大な任務なのだった。
マティアスはハンカチで額の汗を拭い、アルトリウスに顔を向けると断言した。
「あの時、そのような者はいませんでした。
そのような強い魔力など私は感じておりません。
アルトリウスの目をジッとまっすぐ見つめ、マティアスは修道女の非礼を詫びた。アルトリウスはマティアスの目をジッと見つめ、それから修道女の方をチラリと見た後でフッとマティアスに微笑みかけた。
「はい、スパルタカシア様がおられない今、アルトリウシアで一番の魔力の持ち主はマティアス司祭様をおいて他にありません。
司祭様がそうおっしゃるのであれば、そうなのでしょう。
もちろん彼女のことも咎めるつもりはございません。どうぞご安心ください。」
アルトリウスがそう言うと、マティアスは礼を言うようにいまだ具合の悪そうな顔に微笑みを浮かべた。
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