第455話 ネロとリュキスカの諍い

統一歴九十九年五月五日、午前 ‐ マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



「ねねっ、チョイと、ネロって言ったっけ!?」


 回廊ペリスタイルを歩いていたネロは潜めた女の声に呼び止められ、振り返ると物陰にリュキスカを見つけた。軽く握った拳の背を見せ、一本だけ伸ばした人差し指をクイクイと屈伸さっせてこっちへ来いとジェスチャーしている。


「こ、これは奥方様ドミナ、何か御用ですか?

 というか、何でそんなところに?

 旦那様ドミヌスと御一緒だったのでは?」


 リュウイチと小食堂トリクリニウム・ミヌスで待っているはずのリュキスカがこんなところに一人で隠れているのをネロは驚き、同時にいぶかしんだ。


「そんなことはどうだっていいんだよ。

 ちょっと、用足しだって抜けて来たんだ。

 それより今から急いで軍団レギオーの偉い人と話が出来ないかい?

 軍団長レガトゥスとか幕僚さんトリブヌスとかさ。」


「何です?

 今これから要塞司令部プリンキピアでお会いになるご予定でしょう?

 ちょうど今からお呼びに行くところで…」


 態度は丁寧だがワケの分からないことを言うなという雰囲気を漏らしながらネロが言うと、リュキスカはネロが言い終わる前にシィーッと黙るようにサインを出す。


「声が大きいよ!

 そんなのは分かってんだよっ!

 だから、その前に会って話をしたいんじゃないのさ!」


「何をです!?

 軍団幕僚たちトリブニ・ミリトゥムは皆、忙しいんですよ?

 いくら奥方様でも武人の仕事の邪魔になることはお控えいただきませんと。」


 ネロはリュキスカが軍人たちに余計なことを言って迷惑をかけようとしていると思い、ここはリュキスカを宥めるのが自分の仕事だと判断した。いかにも困ったという表情を作って宥め始める。

 軍人に話がしたいと言うことはおおかた軍事に関する話だろう。だがリュキスカが軍事のことなんか分かっているはずがない。素人が口出ししたところでロクなことにならないのは当然のことだ。なら、ここで自分がリュキスカを抑えなければ、軍団長や幕僚たちが余計な仕事を増やされて引っ掻き回されてしまうに違いない。

 だがリュキスカは諦めなかった。


「忙しいってことくらい知ってるよぉ!

 リュウイチ様に関係のあることなんだ、子爵公子アルトリウス様でいいから、要塞司令部に行く前に話をしたいんだよぉ!」


 リュキスカは先刻、小食堂でリュウイチから聞いた話の内容について報告すべきだと考え、大胆にも赤ん坊をリュウイチに預けて抜け出してきたのだった。


 リュウイチはアルビオンニア軍団軍団長レガトゥス・レギオニス・アルビオンニアアロイス・キュッテルが「盗賊への対応」とかいう理由で居なくなったことを随分気にしていた。盗賊と言っても数百人とかの大規模な…軍団長が自ら大部隊を率いて出張らなければならないような騒ぎなのではないか…しかも、それにルクレティアが巻き込まれているのではないかと。

 リュウイチがそう思った根拠は、ルクレティアに付けた《地の精霊アース・エレメンタル》が昨夜、リュウイチから結構な量の魔力を持って行ったことだ。持っていかれた魔力そのものはリュウイチにとって大したことはない。だが、今までリュウイチはゴーレムを召喚しても《火の精霊ファイア・エレメンタル》や『地獄の軍馬』ヘル・ウォーホースを召喚してもそこまで多くの魔力を消費したことは無かった。つまり、《地の精霊》は普通なら使わないような魔法を行使したことになる。

 《地の精霊》はリュウイチの見たところ《火の精霊》と違っていたずらに力を行使しようとするようなタイプではない。その《地の精霊》がそれだけの魔法を…しかも深夜に使ったということは、ルクレティアの身に何かあったのではないか?そしてリュウイチはそこから更に、アロイスが出て行ったと言う盗賊騒ぎと《地の精霊》が魔力を持って行ったことが関係しているのではないかと予想していた。


 それが真実かどうかはリュキスカには分からない。だがそれが真実だった場合、そして軍人たちがあえてそれをリュウイチに隠していた場合、リュウイチにバレてないという前提でこのまま隠そうとし続けると、リュウイチと彼らの間の信頼関係に傷がついてしまうように思えた。

 リュキスカの予想ではリュウイチはおそらく、軍人たちが隠し続ける限りはあえて知らないふりを続けるだろう。それで問題が解決されればいいかもしれないが、もしもルクレティアの身に何かあった場合、リュウイチの中に修復不能な不信感が芽生えてしまうに違いない。

 だからリュキスカはリュウイチが抱いている懸念について、軍人たちに教えておくべきだと考えたのだ。


 しかし、ネロはそんな事情は知らない。それどころか「子爵公子様で」というリュキスカの言い草にカチンと来てしまった。ネロにとって仕えるべき主人はリュウイチだが、アルトリウスは保護民パトロヌスであり、やはり忠節を尽くすべき相手なのである。そのアルトリウスを軽んじるような発言…しかもその発言の主が女で、おまけについ最近まで娼婦だった平民プレブスだ。いくら今は第一聖女サクラ・プリマだからと言って無礼にもほどがある。


「いけません!

 我儘わがままを言わないでください。

 お二人をこれから要塞司令部へご案内しなければならないのですよ。

 何の話かはわかりませんが、そのような時間はもうありません。」


 ネロの態度にリュキスカもカチンと来た。しかし、それをグッと堪える。こういう思いあがった男には仕事上慣れていたのだ。


「そ、そう言わないでさぁ、アタイだって迷惑かけようってぇんじゃないんだ。

 アンタだって仕事があるだろうけど、コイツはアタイにとっての仕事みたいなモンなんだよぉ。」


「しかし、そうはおっしゃられても時間がありません。」


「時間ならアンタが稼いでおくれよ!

 なんかテキトーな言い訳作ってさぁ」


 根が真面目なネロにとってこういう横車を押すような我儘はとうてい赦せるものではなかった。彼が軍団兵レギオナリウスだった頃、母の献身的な根回しとを駆使して入隊早々十人隊長デクリオになれたにも拘わらず、出世コースから外れた軽装歩兵ウェリテスの…しかも軍団で鼻つまみ者扱いされていた部下たちをあてがわれてしまったのは、彼のこういう融通の利かなさから周囲の反感を買ってしまったが故だった。カタブツはどこでも嫌われるのだ。そして、そういう性分は奴隷に堕とされてもなお治っていなかった。


「いけません!

 旦那様には早く要塞司令部へお運びいただけなければ、キリスト坊主たちが来てしまうんですよ!?

 何のために要塞司令部へ参られるか忘れたのですか!?」


「なんだい、その言い草は!?

 アタイだって別に我儘で言ってんじゃないんだよっ!!

 兄さんのことで何かあったら報告しろって頼まれてるからそれをしようっていうんじゃないのさ!!

 アンタに邪魔されるいわれは無いよ!?」


 リュキスカとネロはまさに水と油だった。相性が悪いなんてもんじゃない。売り言葉に買い言葉ではないが、たちまち反発し、ヒートアップしてしまう。

 危うく二人の衝突が本格的に手の付けられないところまで行きかけたところで、リュウイチの奴隷の一人であるオトが駆け付け、仲裁に入った。


「ああーーーっ、ちょっとちょっと、ネロの大将、何やってんだ!?

 奥方様、どうかされましたか!?」


 オトはリュキスカの赤ん坊の世話の手伝いを担当していたため、一人だけ他の同僚たちとは別で食事や休憩をとっているのだが、たまたま今日は一人で遅く朝食をとり終え、仕事に復帰すべく戻ってきたところだった。


「何でもない、大したことじゃないよオト。

 いいからこの奥方様を要塞司令部へご案内するの手伝ってくれ。」


 いかにももう参ったとでも言わんばかりにネロがオトに同情を求めると、リュキスカはリュキスカでオトなら味方になってくれると思い、ネロへの不満をぶちまける。


「何言ってんだい!?

 どうしたもこうしたも無いよ!

 リュウイチ様の事で子爵公子様に話したいことがあるってぇのに、この唐変木ストゥルトゥスが取り次いでくれないんだ!」


唐変木ストゥルトゥス!?」


 ネロは目を丸くした。


「唐変木じゃなきゃ何だい!この分からず屋レンタ・ヌキス!!」


「ま、まあまあ二人とも落ち着いて…」


 たまたまオトが通りかかり、二人を宥めてリュキスカから話を聞くことができたことに、軍人たちは後に感謝することになる。

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