第454話 リュウイチの懸念

統一歴九十九年五月五日、午前 - マニウス要塞陣営本部プラエトーリウム・カストリ・マニ/アルトリウシア



 ルクレティアがいない間は奴隷のネロがリュウイチの秘書の代わりのようなことをしてくれている。さきほどそのネロが今日の予定を告げていったが、特にいつもと変わり映えがあるわけではない。先週の日曜日と一緒で、侯爵家一家がカールの寝室で日曜礼拝をしている間、礼拝のために来ている聖職者たちに見つからないようにするため、リュウイチとリュキスカはそろって要塞司令部プリンキピアへ避難し、昼食会プランディウムを兼ねた報告会に出席するぐらいだ。

 朝食イェンタークルムを終えたリュウイチは今、要塞司令部へ案内されるのを待つ間、居間代わりにしている小食堂トリクリニウム・ミヌスでリュキスカと一緒にくつろいでいた。リュキスカはリュウイチが座っている寝椅子クビレの真向かいに座り、赤ん坊を抱き、その顔を覗き込むようにしてあやしている。


『リュキスカ?』


「ん~、何だい兄さん?」


 唐突に話しかけられたリュキスカだったが、赤ん坊をあやしていた時の笑顔のまま顔をリュウイチに向ける。赤ん坊は急に母親の顔が見えなくなって手をモゾモゾと空中に伸ばして何かを探し始めた。


昨夜ゆうべ、アロイスさん居なかったろ?』


「ああ、急用ができたって言ってたねぇ」


『うん、なんか…盗賊が出て対応しなきゃいけなくなったって…』


「軍人さんだからねぇ…そう言うこともあるんじゃないのかい?

 大変だねぇ~、ん~~、んばんばんばっ♪」


 リュキスカはそう言いながらまた赤ん坊を覗き込んだ。抱かれている赤ん坊は母親の顔が戻って来て笑い始める。


『それなんだけど、アロイスさんって偉いよねぇ?』


「ええ?…そりゃあ、軍団長レガトゥス・レギオニスってくらいだからねぇ…

 軍団レギオーで一番偉いんじゃないのかい?

 ん~~~~~……んばあっ♪」


 いないいないばぁで赤ん坊は手を叩きながらキャッキャと喜ぶ。


『普通、盗賊が出たからって軍団で一番偉い軍団長が直接出ていくかな?』


「ええ~…どうだろうねぇ~…アタイは女だからねぇ…

 そういうまつりごとだとか戦事いくさごとのことなんかわかんないよぉ…

 まして偉い人の事なんて、つい最近まで縁もゆかりもなかったからねぇ~」


 リュキスカはそう言いながら顔を上げ、リュウイチの方に向きなおる。赤ん坊は母親の顔が見えなくなって再び空中に手を伸ばしながら母親を探し始めた。


「なんか気になることでもあるのかい?」


 いつの間にか母親にあやされて喜ぶ赤ん坊の姿に見入っていたリュウイチは自分が話しかけていたにも拘わらずドキッとしてしまう。


『ああ!?…ああ、いや…普通はもっと現場に近い…大隊長とか小隊長とかが行くもんじゃないかなぁと思ってさ。』


「んん~~~、そうかもねぇ。」


 リュキスカは上体をゆっくり左右に振って赤ん坊を優しく揺すり始めた。


『それにアロイスさんって他所の部隊の軍団長なんだろ?

 盗賊が出たって言うんなら地元の軍隊が動くんじゃないの?』


「ああ!それならアロイスの旦那で合ってるよ。

 盗賊が出たのってシュバルツゼーブルグの方なんだろう?

 西山地ヴェストリヒバーグから向こう側はアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアの縄張りじゃなくて、アルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアの縄張りなんだよ。侯爵夫人様マルキオニッサの直轄地さ。」


 ようやく自信をもって答えられる質問が来たので気を良くしたのか、リュキスカは声を少し明るくして答えた。


『そこって近いの?』


「んん~~~、アタイは行った事ないけど近いんじゃないのかい?

 こっから歩いて三日か四日だって聞いたよ。ああ、軍隊の脚なら二日だったかな?

 ん!?…なんだい?オッパイ欲しいのかい?」


 気づけば赤ん坊は小さい声で「ま、ま」と言いながらリュキスカの乳房を一生懸命にまさぐっていた。

 フェリキシムスはもうすぐ月齢十一か月になるので、欲しいモノを泣かずに指さしたりして訴えることができる。だが、結核を患っていたせいか身体のほうの成長はだいぶ遅れているようで、つかまり立ちがようやく出来るようになったぐらいだ。


「ごめんよ兄さん、ちょっとオッパイあげていいかい?」


『ああ、どうぞどうぞ…』


「悪いねぇ…」


 リュキスカは笑顔で済まなそうに謝りながら胸をはだけさせはじめ、リュウイチは近くにあった清潔な布巾スダリオを取ってリュキスカの前に差し出す。


「あ~、ありがとねぇ~…よいしょっと…

 はいはい、もうちょっと待ってねぇ~…

 は~い、フェリキシムスぅ~」


 赤ん坊を左腕で抱いたままリュキスカは器用に右手だけで開けた胸元から乳房を引きずり出し、リュウイチに差し出された付近で乳首周りを拭くと赤ん坊に咥えさせた。


『ひょっとしてさ…』


「ん~~何だ~い?」


 乳首に吸い付きながら母親の顔を見上げる息子に、愛おし気に微笑みかけながらリュキスカが空返事を返す。


『盗賊って何十人とかいう人数じゃなくって、何百人とか凄い数なんじゃないかな?』


「ええ~…そんなにいたら、まるで軍隊じゃないさぁ?」


 さすがにリュキスカは驚いて顔上げた。


『うん、だから軍団長が自ら出て行かなきゃいけなくなったんじゃないかなって思ってさ?』


「へえ~…でもそんな大盗賊なんて聞いたことないねぇ…

 《レアル》じゃそんなのがいるのかい?」


『いや…ああ、どうだろう?』


 考えてみればそんなのいるわけないと否定しようとしたリュウイチだったが、ヤクザとかマフィアとかを思い出して言い淀んだ。


『・・・歴史上には居たかな?

 うん、いたよ。』


 伝説上では風魔忍者とかもいるし梁山泊も含めていいかもしれない。いや、梁山泊は創作だが海賊とかを盗賊に含めるならたしかに数百人規模の盗賊団が存在した。体制に反抗するために義勇軍化していった武装集団などの例も含めれば意外と居そうな気もしてくる。


「へぇ~、《レアル》ってやっぱりすごい世界なんだねぇ~。

 でも軍隊は鉄砲持ってんだ、心配することないんじゃないかねぇ?」


『ああ、そっか…鉄砲って普通の人は持ってないの?』


 よほど間抜けな質問をしてしまったのかリュキスカはケタケタと笑って答えた。


「あんな高そうな物どうやって手に入れろってのさぁ?

 盗んで手に入れたところで、火薬も弾も無いじゃないさ。

 それにアレって、ちゃんと手入れしないとすぐに撃てなくなるんだろぉ?」


『え~…じゃあこの世界の猟師は弓とか使ってんの?』


「何言ってんだい兄さん?

 猟師は貴族様の家来なんだから貴族様の鉄砲使うに決まってるじゃないさ。」


 山羊や豚などの一部の家畜は山林に放たれている。その方が餌代がかからないからだ。しかし、そのような山林で勝手に狩猟をされて間違って山羊や豚を殺されてはかなわないので、狩猟はその山林の所有者…すなわち貴族でなければやってはならない事になっている。そして狩猟は害獣駆除も含め、貴族のみに許された崇高な行為と位置付けられていた。

 だが、貴族も狩猟ばかりやっていられるわけではない。狩猟が好きではない貴族もいるし、他にやるべきことややりたいことがあったりして自領での狩猟に手が回らないこともある。しかし、狩猟は定期的にやらねば害獣が増えて近隣の農地に被害が出る。そこで、貴族は狩猟専門の家来を抱えて適当に害獣駆除などをやらせるのだ。それ以外の者が勝手に猟をすると、罪に問われるのである。


『へ~』


「ええ、《レアル》じゃ違うのかい?」


『ああ…今は普通の人が狩猟の免許とって、自分で鉄炮買って狩猟をしてるよ…』


「へぇーっ!

 《レアル》って世界はお金持ちがいっぱいなんだねぇ~」


『いやぁ…どうなんだろ?

 ああ、でも確かに色々な物はあるかもしれない。』


「すごいねぇ~。

 でもこっちじゃ軍隊とまともに戦えるような盗賊なんていないから安心をしよ。

 多分、アレだよ…ほら…えーっと…そう!場所が微妙だったんじゃないかねぇ?」


『微妙?』


「アルビオンニア軍団ってのはズィルパーミナブルクってとこに居んだよぅ。

 で、盗賊が出たってのがシュバルツゼーブルグだろぉ?

 ズィルパーミナブルクからよりは、こっちからの方が近いんだよ。

 だからこっちから兵隊送るんだけど、兵隊率いる偉い人ってのがそんなにいなくって、それで仕方なくアロイスさんが出て行ったんじゃないかねぇ?」


『はあ~…なるほど。』


「仮に兄さんが言ったように何百人もの盗賊が居たってさ、軍隊が出て行きゃ簡単に追い払われちまうさ。《レアル》じゃどうだか知らないけれど、こんな田舎の盗賊なんて食詰め者が食うに困って仕方なくなるようなもんだからねぇ。」


『それもそっかあ…う~ん』


 リュウイチは背もたれに上体を預け、大きく仰け反って天井を見上げた。


「何だい、まだ心配事でもあるのかい?」


『んん?…ん~…』


 リュウイチの態度が気になったのか、リュキスカは赤ん坊にオッパイをあげながら身体をリュウイチの方へ乗り出してきた。


「一人で悩んでないで何でも言っとくれよ。

 アタイは兄さんの役に立ちたいんだからさぁ?」


 リュウイチは言うか言うまいか数秒迷ったが、リュキスカの人懐っこそうな笑顔にほだされ、フッと短く笑うと口を開いた。


『う~ん…実は昨夜、ルクレティアに付けた《地の精霊アース・エレメンタル》が魔力を結構取って行ったみたいなんだよねぇ…』

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