第441話 師弟の挨拶

統一歴九十九年五月三日、昼 - ティトゥス要塞カストルム・ティティ内スパルタカシウス邸/アルトリウシア



 きつめに香を焚かれた寝室クビクルムへ大柄なハーフコボルトの青年が通される。アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子…アルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシア軍団長レガトゥス・レギオニスを勤める彼ではあったが、今日は軍装は身に着けていなかった。寒さに強いコボルトの血を引く彼らしく、晩秋には似つかわしくない薄い貫頭衣トゥニカの上に長衣トガまとった正装であり、全身を『白銀』の異名の理由となった白い体毛で覆われてなければ、さぞや寒々しく見えるであろう装いであった。


ごきげんようサルウェー、君が一人で私を訪ねて来るのは久しいな。アルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス君?」


 ベッドの上に高く積まれたクッションに上体を預ける形で座ったままルクレティウスはアルトリウスに挨拶をすると、半時間も待たされた末の面会であったにもかかわらずアルトリウスは朗らかに応える。


ごきげんようサルウェー、先生。

 言われてみれば、先生の下で学んだ時以来かも知れません。」


 アルトリウスは六歳からレーマに留学する前までずっと、ルクレティウスから勉学を学んでいた。レーマ帝国では貴族ノビリタスの子弟は幼少期より教育係や乳母から教育を受けるが、六歳になるとより高度な勉学を摘むために高名な学者や神官などに師事する習慣があり、アルトリウスもそれに倣ったのだった。アルビオンニア属州でその最高峰となる神官はルクレティウス・スパルタカシウスであり、アルトリウスは彼に師事するために六歳の誕生日を迎えてすぐにアルトリウシアからアルビオンニウムへ引っ越し、スパルタカシウス家の世話になっている。その間、ルクレティウスはアルトリウスに付けられていた護衛兼教育係のマルシスと共に“もう一人の父”であり続けたし、その年の十一月に生まれたルクレティアは“もう一人の妹”となった。


「もう少し、顔を見せに来てくれてもいいんじゃないのかね?

 これでも私は君の師のつもりだし、もう一人の父親でもあると思うのだが。」


 顔をほころばせながらなじるルクレティウスにアルトリウスは苦笑しながら答えた。


「申し訳ありません。一応、たびたび御顔は拝見しておりましたので、それで安心しきっておりました。」


「公用で会うのと私用で会うのはまた別だよ。

 まあ、かけたまえ。」


「失礼します。

 確かに、いつも仕事でしかお会いしておりませんでした。

 以後、気をつけましょう。」


 ルクレティウスに勧められ、アルトリウスは椅子に腰かける。小さな腰掛は決して粗末な安物ではなかったが、アルトリウスの体重がかかるとギシッときしむ。


「しかし、そうは言っても今日も公用なのではないのかね?」


「おっしゃる通りで、養父ルキウスの名代としてやってきました。」


御父上ルキウスはまた腰をそうだね。

 また奥方アンティスティアに甘えとるのかね?」


「ええ、それはもう見ている方が恥ずかしくなるほど惚気のろけられましたよ。」


 アルトリウスは先ほど見せつけられた光景を思い出し、苦笑した。


 ベッドの上で半裸になったまま妻にマッサージをしてもらっている姿など、常識的に考えて貴族が来客に見せるようなものではない。普通は客を外で待たせて身形を整えてから接客するものだ。そのためにこそ中庭アトリウム応接室タブリヌムは存在する。

 が、ルキウスはあえてアルトリウスを寝室へ通させ、半裸のままアンティスティアに腰を揉んでもらっている姿を見せている。それは惚気以外の何物でもなかった。実はルキウスは愛されている自分を、愛してくれている妻を人に見せつけたかったのだ。ただ、それが出来る相手は限られる。アルトリウスはその内の貴重な一人であり、ちょうどタイミング良く(悪く?)訪れてしまったわけだ。


 二人と付き合いが長く、ある程度想像がついたルクレティウスはアルトリウスの苦笑につられるように笑みを浮かべた。


「君が恥ずかしがることは無かろう。君だってまだまだ新婚だろう?」


「ですがもう二年目ですよ。」


「二年目なんてまだまだ新婚じゃないか。

 御父上はたしか四年目だろう?

 いい加減に倦怠期に入ってもよさそうなものだが、お熱いことだな。

 かつて飲んだくれていた頃からは想像もつかんよ。」


「それだけ養母上アンティスティアをお気に召されているのでしょう。

 仲睦まじいのは羨ましいばかりです。」


「君だって仲睦まじくやっとるんじゃないのかね!?

 めでたく第一子が産まれて、君の家のからは良い話しか聞かないぞ!?」


 ルクレティウスが驚いて言うと、アルトリウスは苦笑した。


「ええ、おかげさまで…

 ただ、せっかくの我が家で過ごす時間が稼げておりませんものですから…」


「それは良くないな。養父上ルキウスだって繰り返し言ってるだろう?

 『明日を信じず、その日を摘め』カルペ・ディエム・クアム・ミニムム・クレドゥラ・ポステロと…

 おっと、君は『死を想えメメント・モリ』の方が好みだったかな?」


 『その日を摘めカルペ・ディエム』と『死を想えメメント・モリ』はどちらも言わんとしている事は同じである。人間、いつ死ぬかわからないのだから、今日という日を大切に生きなさい…という意味の言葉だ。ただ、後者が真剣に受け取ってもらえ易いのに対し、前者は享楽的・退廃的な言葉と誤解されやすい傾向はあるだろう。ルキウスが前者を好んで口にするのに対し、ルクレティウスの見るところアルトリウスは後者の方を好む傾向にあるようだった。おそらく、アルトリウスが最も多感だった時期に、酒におぼれているルキウスがそれを口ずさんでいたのを見ていた影響だろう。

 その後、アンティスティアがルキウスの下に奉公にあがり、ルキウスは立ち直っていくのだが、残念ながらアンティスティアがルキウスに奉公しはじめた翌月からアルトリウスは留学のためレーマへ旅立ったため、アルトリウスはルキウスが立ち直っていく様子を見ていなかったのだ。

 アルトリウスが留学から帰ってから一番驚いたのは叔父ルキウスの変貌ぶりであり、次いで旧友サムエルの結婚だった。そしてアルトリウスが筆頭幕僚トリブヌス・ラティクラウィウスに就任して最初の公式行事はルキウスとアンティスティアの結婚式だったのである。


「死を想えばこそ、仕事に精を出さねばならないのです先生。

 特に先月以降はね…」


 アルトリウスが残念そうに言うとルクレティウスは深いため息をついた。

 アルトリウスは真面目な性格である。そしてかなりな家庭人でもある。妻のコトの事は大層気に入っているらしく、結婚したばかりの頃は妻と一緒に馬車であちこちに出かける様子が領民たちに目撃されており、夫婦仲の良さは領内でも評判なほどだ。仲の良さを見せつけるようだった…と、その様子を見た領民たちはニヤケながら噂しあったものだ。

 そのアルトリウスがこのひと月ほど、家にろくに帰れない日が続いている。その理由は明らかだった。第一に降臨者リュウイチの存在であり、次いでハン支援軍アウクシリア・ハンの叛乱事件の対応である。

 ルクレティウスはそれに思い至ると、長く続いた挨拶を切り上げて本題に入ることにした。


「さて、忙しい君を煩わせ、これ以上家族と過ごす時間を取り上げてはかわいそうだ。そろそろ今日の本題に入ろうじゃないか。

 ルクレティアの事で来たのだろう?」

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