第437話 砦に入るファンニ
統一歴九十九年五月三日、朝 - アイゼンファウスト/アルビオンニウム
ダイアウルフに跨り、ゴロツキ集団に囲まれて歩いてくるファンニの表情はテオの目にはどこか浮かない様子に見えた。
無理もないかもしれない・・・
昨日の午後、ファンニがダイアウルフに遠吠えをさせるとセヴェリ川の対岸からダイアウルフの遠吠えが返ってきた。対岸のアルトリウシア平野にダイアウルフが居るかもしれない…その可能性は十分に分かっていた。だからこそ、アイゼンファウストの
ダイアウルフが川の対岸にいれば遠吠えが返って来るから、ダイアウルフが居るか居ないかわかるだろう…そういう一種の警報システムとしてファンニとダイアウルフを使ったわけだ。そして、その目論見は見事に図に当たり、対岸のダイアウルフから遠吠えが返ってきたわけだが、その影響は予想を超えていた。
対岸にダイアウルフが迫っている・・・その事実は住民たちはおろか、メルヒオールの私兵の一部にさえパニックを起こさせたのだ。セヴェリ川の河岸で除草作業を行っていた者たちは蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出し、衝突や転倒などによって三十人を超える重軽傷者を生じさせている。
ハン支援軍の蜂起は短時間でアルトリウシア全域に甚大な被害を及ぼした。しかし、アルトリウシア領民はもちろん、アルビオンニア属州領民ならハン支援軍自体は弱兵と誰でも知っている。にもかかわらずこの被害…そのギャップを合理化する存在がダイアウルフだったのだ。
ハン族は弱いが、ダイアウルフだけは別格だ。ハン族の残忍さとダイアウルフの狂暴さが組み合わさったハン騎兵は戦場の悪魔そのものだ。
住民たちの間でハン族が弱いという認識があったからこそ、ハン支援軍蜂起の被害の大きさは、そのままダイアウルフへの恐怖に転化されてしまっていたのである。ゆえに、対岸から聞こえてきた遠吠えは住民たちを容易に恐慌状態へ陥れたのだった。
ファンニはその情景を見てしまった。頼まれたからやっていたこととはいえ、自分がしたことのせいであれだけの大騒ぎになり、あまつさえ怪我人がたくさん出てしまったのである。周囲の大人たちがいくらフォローしたとしても、ファンニは責任を感じずにはいられなかった。今回の仕事で稼がせてもらっている上に、空いた時間にダイアウルフに
それに昨日、ファンニのダイアウルフたちは明らかに対岸で遠吠えしてるダイアウルフを仲間と認識しているようだった。ファンニが咄嗟に止めたから良かったものの、もしかしたらセヴェリ川を渡って逃げていたかもしれない。もしもそうなったら、このダイアウルフたちは川を渡りきる前に撃ち殺されてしまうだろうか?撃ち殺されなかったとしても対岸へ逃げ込めば、今度はアイゼンファウストの人たちを脅かす存在になってしまう。もしそうなったら、ファンニはいったいどう責任を取ればいいんだろうか?ゴメンナサイで済まないのは間違いない。
そう思うとファンニの気持ちは暗く沈まざるを得なかった。
「
それでもファンニはテオを見つけると努めて明るく挨拶をした。
「
テオはファンニの表情が暗く沈んで見えたのは気のせいだったかと思いながら挨拶を返した。
「じゃあ、今日もお願いできるかな?」
「ハイッ!…あ、あのでも…昨日、アレでしたけど、今日も本当にいいんですか?」
元気よく返事をしてみたものの、昨日ダイアウルフの接近が確認されているのに今日も繰り返していいのかわからず、ファンニは急に不安そうに尋ねる。
「ああ、今日からは昨日までよりも
でも、今日からは遠吠えする時は河川敷まで行かないで、場所を変えてもらいたいんだ。いいかな?」
「え、ええ…一応今日から別の場所だって、ラウリの親分さんから聞いてるんで大丈夫です…けど…どこへ行くんですか?」
「ああ、そんなに離れてないよ。
今までやってもらってた場所は危険だっていう判断でね。
軍隊から対岸から見えない安全な場所でやるように言われたんだ。
じゃあ、ついて来て。」
歩き出したテオの後をファンニはダイアウルフに乗ったままついていく。ファンニを囲んでいるリクハルドの手下たちも、ファンニを守る隊形を保ったまま黙って一緒に歩いていく。
テオとファンニたちが歩いているのは
一行はアイゼンファウストの南側走る街道を西へ進み、街道が海軍基地へ向けて北へ折れるところから更に西へ直進する。そこにはファンニが見たこともない新しい道が作られており、すぐ先にある小高くなった丘のようなところへ向かって伸びていた。テオはそのまま道に沿って丘へ登っていく。
「さあ、ここが今日から君の仕事場だ。」
テオは振り返って誇らしげにファンニに言った。ファンニは初めて見る場所、初めて見る光景に驚いたように口をポカンと開け、目を見開いて周囲を見回す。
「これは…」
たどり着いた場所は丘の頂上だった。草が刈られ、キレイに平らに整地されており、たくさんの軍人たちが工事をしている。よく見るとこれから建物を建てるらしく、敷地内のあちこちに杭が打ち立てられ、細い紐が張られ、建物の基礎にするための石があちこちに据えられている。
「アイゼンファウスト
ここに軍隊が大砲とかを据えて、ハン族がセヴェリ川を渡って来れないようににらみを利かせるんだ。
まだ完成はしてないけど…ファンニ、ここからならダイアウルフの遠吠えも遠くまで響かせることができる。そして、対岸からダイアウルフが襲い掛かってきたとしても、ここなら安全だ。兵隊さんが守ってくれるからね。」
ファンニとダイアウルフを未完成の砦で遠吠えさせるのは
砦の建設は遅滞なく進めなければならない。これが終わらないとアイゼンファウストでの復興事業推進に支障が出る(実際、既に出ている)。そして砦建設作業を推進するために、対岸からのダイアウルフ襲来に備えなければならず、そのために多数の兵士をセヴェリ川沿いに配置する羽目に陥っている。
兵士を配置している以上、おそらく現状でもダイアウルフの襲来は防げるだろうとは考えられている。しかし、それだけでは住民を…特に砦の建設作業に従事してくれる作業員たちを安心させることができない。なので、ファンニとダイアウルフを使って対岸にダイアウルフが来ているかどうかの確認をさせねばならない。
だが、ダイアウルフは貴重だ。今、アルトリウシアにダイアウルフは二頭しかおらず、しかもそれを扱えるのはファンニだけだ。ダイアウルフの接近を知る現在唯一の手段であるグートとフッタの二頭とファンニは決してアルトリウシアにとって失ってはならない存在なのだ。
そして、彼らは対岸のダイアウルフからのみならずアイゼンファウスト住民からも守らねばならない状況になっている。
そういう噂がアイゼンファウストに流れ始めていたのだ。
住民たちの間には当初からファンニが連れているグートとフッタの二頭に対する恐怖や憎悪はあった。それが分かっているからこそ、リクハルドもメルヒオールも貴重な私兵を割いてファンニたちを護衛している。
それでも、ファンニがダイアウルフに遠吠えをさせて安全を確認している間は、住民たちのファンニたちに対する悪感情はだいぶ和らいでいたと言える。ファンニがダイアウルフに跨って街道を歩くとき、その姿を見た住民たちが慌てて家へ駆けこむことはかなり減っていたのだ。
だが、昨日対岸からダイアウルフの遠吠えが返ってきたことから、その様子も一変してしまう。特に住民たちがパニックを起こして多数の怪我人を出してしまったのが余計に不味かった。
ファンニと二頭のダイアウルフに対する憎悪は、当初のそれよりもかなり強くなっており、このまま放置するとその身に危険が及ぶ可能性が懸念されたのである。
そうした事情を考慮した結果、ファンニたちをこのまま何もない外で活動させるべきではないとの結論に至り、軍の管理する軍の施設の中で活動させることとなったのだった。
建造中の砦では本格的な防御力は無いが、それでもアイゼンファウスト住民らがファンニに危害を加えて来る危険性はだいぶ減るし、ダイアウルフが逃亡してしまう危険性も、ファンニたちの姿が対岸から観察されてしまう危険性も抑えることができる。
だが、そうした事情の詳細はファンニには伏せられていた。ファンニもうすうす気づいている様子ではあるが、あんな小さな少女にアイゼンファウスト住民が憎悪を向けているなどと報せて怯えさせる必要はない。大人たちは誰もが当然のようにそう考えたからだった。
ここなら、確かに安心…なのかしら?
ファンニはどこかモヤモヤするものを抱えたまま考えた。
でも、ここじゃ沼ネズミ獲れそうにないわね…
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