第438話 引継ぎ
統一歴九十九年五月三日、午前 -
アルトリウシア子爵領第二代領主ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスは病床に
ホブゴブリンを始めゴブリン系種族はヒトに近い種族ではあるが、似ているのは見た目だけで中身は全く違う。交配しても子は残せないし、出来ることもあれば出来ないこともある。身体の構造が違うのだ。解剖学的に両者の最大の違いは背骨の形状だと言える。横から見た時、ヒトの背骨は緩やかなS字を描くのに対し、ゴブリン系種族は比較的単純な弧に近い形を描いている。ゆえに、上体をまっすぐ立てて二本足で歩くのは本来苦手なのだ。彼らにとって最も自然な姿勢は手を地面に着くような前傾姿勢である。
しかし、太古の昔に《レアル》からの降臨者を迎え、文明を賜った彼らは意図的に姿勢を変えるようになる。降臨者…すなわちヒトのように直立し、二足歩行するように努めるようになったのだ。この時から、腰痛は宿命となってしまった。ホブゴブリンの年寄で腰痛に悩まされない者はいない。
ヒトからすれば素直に前傾姿勢で歩くようにすれば良さそうなものだが、それは彼らの自尊心が許さない。ホブゴブリンにとって直立二足歩行は文明人の証であり、前傾姿勢は野蛮人の象徴とされているからだ。前傾姿勢でいるとホブゴブリンであっても「ゴブリン野郎」と罵られてしまうのである。
だから彼らホブゴブリンは姿勢にこだわる。特に
代わりに貴族や軍団兵ほど腰痛に悩まされるようにもなっている。ホブゴブリンにとって腰痛は《レアル》中世欧州貴族の痛風のようなものだろうか。老いて腰痛に苦しみながらも、尚も姿勢をシャンとしている姿は、ホブゴブリンにとってとてもヒロイックに見えるのだ。
このため、ルキウスは実は女性領民たちの間では密かに人気があるのである。『白銀』の異名を持つアルトリウスほど派手な人気は無いし本人も自覚は無いのだが、ルキウスに好感を抱いていない女性領民はおそらくかなりな少数派だろう。アルトリウスの話をする時、若い女性たちがキャーキャー騒ぐのだが、ルキウスの話をする時はすべての世代の女性が静かにうっとりするのだ…二人の女性人気を比べるとそんな感じである。
しかし、腰痛に苦しむ当人からすればはた迷惑な話である。人気なんかなくていいからこの苦痛を取り除いてほしい・・・腰痛を経験したことのある人間なら誰しもそう思うだろう。腰痛がホブゴブリン貴族や元軍人たちにとっての宿命だとは分かっていても、簡単に諦め受け入れきれるものではないのだ。
ましてやルキウスの腰痛はホブゴブリンの宿命云々とは事情が違っていた。
アヴァロニア・ユースティティウス家の次男として生まれた彼はずっと兄グナエウス・アヴァロニウス・ユースティティウスの
ルキウスはやがて十六の誕生日を迎えて成人すると、間もなく兄グナエウスの統べる
この時に経験した充実感から、ルキウスは軍人として生きようと決意を固めた。貴族の次男坊とかもうどうでもいい。軍人としての自分の道を歩もうと…それからは何かが吹っ切れたかのように充実した日々が始まった。最初の妻も
翌年、ルキウスの子を身ごもり、月満ちて陣痛に見舞われた妻は産婆たちと共にルキウスから引き離されたのを最後に、再び微笑みかけることはなかった。ルキウスにとっての
強かに地面に腰を打ち付けてしまったルキウスは、二度と馬に乗れない身体になってしまった。しばらくは自力で立ち上がることも出来ず、そのまま予備役に編入…事実上、軍人としての途も閉ざされてしまう。当時、ルキウスはまだ十八歳だった。彼の腰痛との付き合いはそれ以来ずっとである。
子爵の実の弟ということで生きるのに困ることはなかったが、すべての生き甲斐を失って完全にふさぎこんだまま、酒浸りの日々を送るようになった彼を救ったのがアンティスティアだった。ルキウス好みの酒を納めていた商人が「娘に花嫁修業させたい」と言って侍女として送り込んできた彼女は、当時まだ十二歳だった。
素朴だがしっかり者のアンティスティアは、皆が腫物のように扱うルキウスに、身分差も年齢差も考えずに率直に接してきた。若さゆえ、末娘ゆえの無謀な態度ではあったが、やさぐれていたルキウスは何故かそれを受け入れ、次第に心を開き、徐々に立ち直って今に至る。
その後アンティスティアと結婚し、兄の死を契機に子爵家を継いだルキウスは今ではすっかり領主らしさ貴族らしさが板についているが、ただそれでも何かの拍子に腰痛が悪化すると、立ち直る以前の大っきい赤ん坊に戻ってしまう癖が残っていた。
「おうっ…おおおっ…う~ん、そこっ、そこだ。そこを頼む。
お、おうう~~~っ…ふぅぅぅっ、うーーーっ」
「旦那様、アルトリウス様が御着きになりました。」
ルキウスの至福の時を、使用人の無粋な声が邪魔をする。だが、ルキウスは怒らない。アンティスティアが甘やかしてくれている時は、アンティスティアにだけ甘えるのだ。
「おう、ここへ通せ」
「ダメですよ、
こんなみっともない姿、外の者に見せてはいけません。」
「大丈夫だよアンティスティア…続けてくれ。
うっうーーーーっ…
どうせアルトリウス一人なのだろう?」
「従卒の方を伴っておいでのようですが…」
貴族が貴族を訪ねてきた時、従者は邪魔にならない様に室外で待機するのが当たり前だ。室内に入ってこないのだから姿を見られる心配など無駄なだけである。夫婦の会話を聞いていれば、その流れから従者の有無など訊いていないことは分かるはずだ。にもかかわらず気を利かせずにそんなことを言う使用人にルキウスは初めて声を荒げた。
「そんな奴は気にせんでいい!
ああ、アンティスティア、やめないでくれ!
あと少し、あと少しで良いから。」
「これ以上揉んだら揉み返しが来ますよ!
あとは落ち着くまで温めながらさすってさしあげますから。」
「はぁ…ああ、じゃあそうしてくれ…
おい何をしている、早く通さんか!!」
「は、はい、ただ今!!」
使用人は出ていき、アンティスティアはベッドから降りる。そして侍女たちと共に
「御取込み中ですか、
入室したアルトリウスがベッドで下着姿のままうつ伏せに寝ているルキウスと、それを甲斐甲斐しく介抱するアンティスティアの様子に呆れたような声を上げる。
「ああ…来たかアルトリウス、こっちへ来て座れ。」
「失礼します。
今回は随分と酷いようですな、養父上。」
アルトリウスはルキウスのベッドの横、アンティスティアたちが居る側とは反対側に用意された椅子に腰かけた。
「ああ、いつもより少しばかり痛かったな。
また何日か寝込むことになりそうだ。
うっ!!うう~~~むむ」
うつぶせたままアルトリウスの顔を見上げようとしたルキウスが苦悶の表情を浮かべて呻り声をあげると、アンティスティアが驚いて手を止めた。
「熱すぎましたかあなた?」
「いや、熱さはちょうどいいよ。
ちょっと首を捻ろうとした拍子にズキッと来ただけだ。
続けてくれ…
ああ、アルトリウス、すまんがしばらくの間…」
結局アルトリウスの顔を見上げることはかなわず、ルキウスは顔を伏せたまま横目でアルトリウスの顔を見る。
「心得ております養父上。
なるべく早く復帰していただけますよう、どうか養生してください。」
「うむ、そのつもりだ。
家臣団には昨日のうちに言ってあるから、うまい具合に調整を…
おっ…おおぅぅ~~~~う……ふぅ、調整してくれ。
それでだ、アルトリウス。」
そうしている間にもアンティスティアが湯気の上がる布巾を腰に当てては、周囲をやさしくさすり、冷める前に次の布巾へ交換する作業を繰り返していたのだが、心地よくなってきたのだろう、ルキウスが時折苦しいのか気持ちいのかよくわからない声を漏らす。
「何でしょう?」
「例の…ルクレティア様
昨日、ルクレティウスに報告するつもりだったのだが、この有様で出来なかったのだ。ふぅ…ハァ…ふぅ…ハァ」
「では、
「
「
「人聞きの悪いことを言うな。
いずれ、私からも直接話をしには行くが、アルトリウス。お前、私の名代として…おっ…ううう~~~む…」
「心得ました。
ではこれから行ってまいりましょう。」
アルトリウスはルキウスが言い終わる前にそう返事をすると立ち上がった。
「ああ、頼む…そうだ、手土産を忘れるな。
うちの酒蔵から一番いいのを持っていけ。」
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