第436話 子爵夫妻の目覚め

統一歴九十九年五月六日、朝 - ティトゥス要塞カストルム・ティティ内子爵邸/アルトリウシア



 外はまだ日も明けきっておらず、夜のとばりに代わって朝靄あさもやの薄い幕が景色を覆い隠している。その向こうでは新たな一日が出番を待つ舞台役者のように準備を整えているに違いない。そして貴族社会を支える黒子・・・すなわち家事使用人たちは、既にあわただしく朝の支度に追われていた。


 遠くから微かに聞こえてくる生活音・・・戸や窓を閉め切った暗い部屋の中に居ても、それが朝の到来を教えてくれる。そして、夫婦が起きあがるタイミングもまた、そうした遠慮がちに耳をくすぐる生活音が教えてくれるのだった。


 ああ、もう朝か…


 寝室クビクルムを満たすひんやりとしたこの時期の朝の空気が気に入っていた。寒すぎず、それでいて隣に寝ている愛すべき伴侶の体温をより心地よく感じさせてくれる。


 この微睡まどろみが永遠に続けばいいのに・・・


 おおよそ誰もが思わずにいられない…だが、誰も決して叶えることのできないそんな願いは、やはりそれが決して叶わないからこそ魅力的なのだろう。楽しい時間、心地よい時間というのは、決して長続きしないものなのだ。

 隣に寝ていた幼な妻がモゾモゾと動いて寝ている夫の顔を覗き込む。


子爵閣下ウィケコメス、お起きになれますか?」


 普通、レーマでは夫婦は別々のベッドで寝る。自分専用のベッドで一人寝するのが優雅だと考えられているからだ。新婚の内は夫婦で一つのベッドで一緒に寝るのも珍しくは無いが、連れ添って三年経ってなおもしとねを共にする夫婦は珍しいと言えるだろう。

 既に目が覚めていることは気配でわかるのだろう、アンティスティアは目が覚めているかどうかは確認しなかった。


「ああ、おはようアンティスティア…どれ…うっ!うう~むむ…

 うむ、まだ無理のようだ。」


 アルトリウシア子爵ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスは用心深く起き上がろうとしたが、腰からの激痛により早々に断念した。


「ご無理をなさらないで、朝食イェンタークルムはここへ運ばせます。」


「ああ、済まないがそうしてくれ。

 う、ううぅ…しかし、今は朝食よりもお前のキスが欲しい。」


「はい、…」


 平民プレブス出身のアンティスティアはルキウスに嫁入りしてから誰よりも貴族パトリキたらんと努力を続けてきた女だ。だから夫婦間の生活の場でもルキウスの事はいつも「子爵閣下」と呼ぶ。だが、疲れるなどして気が抜けてたり、不安で気が小さくなっている時はルキウスのことを「あなた」と呼ぶ癖がある。ルキウスはそんな時のアンティスティアが好きだった。そしてそのことにアンティスティアは気づいていた。アンティスティア本人はそのことをあまり快く思っていなかったが、しかしルキウスがこうして腰痛を悪化させてしまったり病に苦しんでいる時など、ルキウスが甘えたがっている時はあえてルキウスの事を「あなた」と呼ぶようにしている。

 夫にキスをした幼な妻はベッドから降りた。貴族ノビリタスたるもの、目覚めたらまず身だしなみを整えなければならないのだ。


「お湯も運ばせますわ、

 それで顔を拭いて、御髪おぐしを整えて、おひげもキレイにしませんと。」


「やれやれ…こういう時くらい労わってくれんかね?」


 夫に身支度を整えさせようとするアンティスティアに、ゴロゴロ寝ていたいルキウスは不平をこぼす。


「何をおっしゃってるんですの?

 今日はアルトリウスが尋ねて来るんですから、恥ずかしくない格好をしませんと!」


「自分の養子むすこに会うのに他人行儀なんぞ要らんよ。」


 昨日、マニウス要塞カストルム・マニからの帰りの途中、乗っていた馬車が道路上の突起に乗り上げてしまった衝撃でルキウスはギックリ腰になってしまっていた。その後、ティトゥス要塞で行われた会議も腰の痛みに堪えられず中座を余儀なくされている。

 青い顔に脂汗を浮かべながら車椅子で屋敷ドムスへ運び込まれたルキウスはそれからが大変だった。いや、正確に言えば大変だったのは彼を取り巻く周囲の人間たちである。屋敷に帰り着き、話を聞いて心配して出てきたアンティスティアの顔を見た瞬間から、ルキウスは大きな赤ん坊に戻ってしまったのだ。痛い痛いと喚き散らし、使用人たちに不平不満をぶつけ、わがままな幼子のように愛妻に甘えまくったのである。


 ・・・まあ、いつものことではあったのだが・・・


 昨日はその後寝室へ運び込まれ、ベッドへ寝かされ、アンティスティア自らお湯に浸けて堅く絞ったおしぼりを当てて温めながらのマッサージである。それによって大っきい赤ん坊が子爵閣下に戻るまで一時間ほどもかかっただろうか…痛みが引いてようやく落ち着きはしたが、痛みを感じずにすむのは寝ている間だけであり、身体を起こしたり歩いたりといった事は当面できそうになかった。

 それもあって、子爵としての公務を養子のアルトリウスに引き継いでもらわねばならなくなっており、そのために今日ルキウスを訪ねて来るようにと早馬を出してあった。本来ならアルトリウスは昨日のうちに駆け付けるべきだっただろうが、昨夜はルキウスの代わりに降臨者リュウイチと会食することになっていたため、今日の面会とならざるをえなかったのだ。

 ちなみに、アンティスティアがルキウスと同じベッドで寝たのも、ルキウスが一緒に寝てくれと駄々を捏ねたからだった。


「ダメです!

 もしかしたら部下の方をお連れになられるかもしれないんですから!

 家令の皆様だってきっとおいでになりますよ?」


 アンティスティアは自ら寝室の窓を開けて回りながら甘えたがる夫をたしなめる。


「やれやれ…貴族の家になんぞ生まれるもんじゃないな…」


「またそんなことを!

 子爵閣下は平民に夢を見過ぎですよ。

 子爵閣下が平民だったら、父はきっと結婚を許してくれませんでしたわ。」


 アンティスティアが呆れたようにたしなめる。それは彼女がルキウスの元に侍女として仕えるようになった頃からずっと繰り返されていた会話だった。


「それは困るな。

 だけどアンティスティア、私だってきっと商売くらいは出来たはずだぞ。

 義父上ラベリウスは商売の秘訣はお酒を愛していることだと言っていたじゃないか。

 自慢じゃないが私は酒を愛してるぞ、お前の次くらいに。」


 アンティスティアの実家は商家だったが、主に扱っていた商品は酒だった。今でも子爵家に酒を納めている。アンティスティアは窓を開け終わるとルキウスの寝ているベッドへ戻って来る。


「さあ、どうでしょうね?

 子爵閣下はお酒を愛してらっしゃいますけど、父は売り物として愛していたのであって、自分で飲むために愛していたわけではありませんことよ。

 大好きすぎて売り物に手を出しちゃう人が、商売に成功できるかしら?」


「でも、味がわからなきゃ客に売る時困るだろう?

 養父上ラベリウスは酒の味に詳しかったし、味付けも上手かった。」


 アンティスティアの父は仕入れた酒にハーブや調味料を加えて客好みの味や香りに仕上げるのが上手く、ルキウスがアンティスティアの実家から酒を納めさせるようになったのもその評判の良さゆえだった。


「父は味見はしても飲みはしませんでしたよ。

 私、父が酔ってるのなんて数えるほどしか見たことありませんでしたもの。」


 ルキウスはがっかりした様子で浮かせていた頭を枕に預け、天井を見上げてため息をついた。


「やれやれ、養父上ラベリウスとは話が合うと思ったのに・・・。」


「それは父が子爵閣下に話を合わせてたんですよ。

 商売人なら当たり前のことです。

 昔の子爵閣下はそうでもしないと誰ともお話ししてくれませんでしたもの。」


「どこの世界も一緒か、世知辛いもんだな。」


 アンティスティアはベッドに腰掛けると、手を突き体重を支えながら身体を捻ってルキウスの顔を覗き込んだ。


「みんな自分の領分で苦労してるんですよ。

 は御苦労もなさってますけど、御自分の領分で御上手にできていらっしゃるではありませんか。

 自分の領分で上手くできるのに他人の領分を羨ましがるなんて贅沢ですわ。」


 そういうとアンティスティアはもう一度ルキウスにキスし、身体を起こして立ち上がった。それを見てルキウスが名残惜しそうに問いかける。


「行くのかい?」


の代わりに神棚ララリウムに朝の御祈りをしませんと。

 ついでに美容師オルナートリクスを呼んできますから、朝食までに御髪と御髭を整えてくださいね。」


 そう言ってアンティスティアは寝室から出て行った。その後ろ姿を見送り、ルキウスは溜息をつく。


「…贅沢か…」


 ルキウスは一人残された寝室で、布団を首元まで引き寄せる。


「私はお前と一緒に居られさえすれば何も望まないんだがね。」

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