第420話 火災発生

統一歴九十九年五月五日、深夜 - ケレース神殿テンプルム・ケレース/アルビオンニウム



 時刻は五月六日の第二夜警時セクンダ・ウィギリアになっていた。世界標準となっている二十四時制に準じるならば五月五日二十一時を少し過ぎたところか…もちろん、今のアルビオンニウムには時計は無く、時刻は星や月の位置から知るしかない。

 神官の一人が祭祀の時間になったことをルクレティアに告げたが、ルクレティアはただ「分かりました」と返事をしただけでその場から動こうとしない。不思議に思ったヴァナディーズがルクレティアに尋ねる。


「ルクレティア…行かなくていいの?」


「ええ、先生。今夜の祭祀はプルケルスカエウァが代わりにやることになったんです。」


 先ほどの軍議、ヴァナディーズはサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの軍人たちに状況を説明する際は同席していたが、説明が終わると退室させられ、別室で軟禁状態にされていたので、その後どのような決定が下されたのかは知らされていなかった。


 結局、『勇者団ブレーブス』への対応では《地の精霊アース・エレメンタル》の力を借りざるを得ないという結論に至り、ルクレティアは《地の精霊》の協力を得るために軍の方に協力することとし、今夜ルクレティアが行う予定であった祭祀はスカエウァが代行することになったのだった。

 地脈を観測すること自体は既に《地の精霊》の協力もあってある程度できていたし、あとは儀礼的な意味で祭祀を執り行えばよいような状態だった。それにスカエウァは元々アルビオンニウムに…つまりスパルタカシウス宗家に婿養子に入る予定の神官であることから、スカエウァが祭祀を行ったとしても取り立てて問題があるわけでも無い。むしろ、婿養子に入ってからの予行演習にちょうど良かった。


「そう、ごめんなさい…なんだか、私のために迷惑をかけてしまったみたい…」


「先生は悪くありませんわ。

 これは『勇者団』が悪いんですもの。」


 ルクレティアは香茶を飲むために口元へ持ってきていた茶碗ポクルムを膝上に戻し、ヴァナディーズの方へ身体を向けて慰める。二人は『水晶の間クリスタルム・ロクム』とは反対側の、神官が私生活を送るためのエリアにある、小食堂トリクリニウム・ミヌス長椅子クビレに腰かけ、食後の香茶を愉しんでいた。

 部屋のすぐ外にはヴァナディーズの監視役の兵士が二人立っていて、中にはルクレティアとヴァナディーズの他は数人の侍女たちと、リュウイチの奴隷であるカルスが部屋の脇の方に立っていた。リウィウスとヨウィアヌスは別室で待機しており、カルスは部屋の中に男が自分一人きりで、周囲は種族が違うとはいえ女性ばかりという状況に何やら緊張して居心地悪そうだった。


「そうかもしれないけど…

 でも、結果的に彼らをここに呼び込むことになってしまったわ。

 私が彼らが本気だって、もっと早くから気付いていれば…」


「そんなこと!

 むしろ本気だと思う方がおかしいくらいだわ。

 降臨を自分たちで起こすだなんて…しかもムセイオンの人がそんなこと考えるなんて誰も思うわけないもの。」


「そ、そうよね…」


「そうですよ!

 先生はただ巻き込まれただけ、むしろ被害者だわ。」


「あ、ありがとうルクレティア。

 アナタには本当に感謝しかないわ。」


「感謝だなんて!気にしないでください先生。

 大丈夫ですよ。ここはたくさんの軍団兵レギオナリウスが守っていますし、私もいます。それに何と言っても《地の精霊》様が守ってくださいます。

 《地の精霊》様は、『勇者団』を『大したことは無い』って言ってました。きっと、取り押さえてくれます。」


 いつになく気弱なヴァナディーズをルクレティアは励まし続けた。

 実際のところ、今のケレース神殿以上に堅く守られた場所はこの世界ヴァーチャリアでもムセイオンかリュウイチが居るマニウス要塞カストルム・マニぐらいだろう。しかし、ヴァナディーズは怯え続けていた。やはり、一昨日は実際にその身体に凶刃を受けて瀕死の重傷を負い、しかもその相手が昨日今日と付きまとい続けているとなれば致し方の無いことなのかもしれない。むしろ、この状況で平気でくつろいでいる人物がいるとしたら、その神経を疑われても仕方が無いだろう。


 ヴァナディーズを励ましているルクレティアにしても全く不安が無いわけではない。なにせ相手はゲイマーガメルに次ぐ力を持っているというハーフエルフ数人を中核とする武装集団である。ゲイマーの子や孫から成る『勇者団』は、親や祖父母であるゲイマーから引き継いだ聖遺物で武装していることも考えられ、その実力は古のゲイマーにも匹敵するかもしれないのだ。

 《地の精霊》は『勇者団』の実力を評して確かに『大したことは無い』と言っていた。だが、今日は『昨日より強力な連中だが』という但し書きが加わっていたのだ。《地の精霊》によれば、どうやら北から接近中の『勇者団』本隊は昨日より人数も実力も高くなっているらしい。昨夜と同じように誰も気づかぬ間に撃退していたという事にはならないだろう。


 もっとも、今夜はカエソー・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵公子の要望で彼ら『勇者団』の身柄を確保すべく交渉したいとのことだったので、誰も気づかないうちに撃退してしまわないよう《地の精霊》にはお願いしてある。さらに、仮に撃退するにしても誰も殺さないでほしいというルクレティアは願い、《地の精霊》は『そうしよう』と答えてくれた。


 その《地の精霊》は『勇者団』を捕まえるべくルクレティアのもとを離れていた。『地の指輪』リング・オブ・アースによって多少離れていても意思疎通できるが、今この部屋の中にはあの緑色に光る小人の姿は無い。

 部屋のある光源は円卓メンサに置かれた燭台のロウソクと壁際のランプに灯された火だけである。小食堂トリクリニウム・ミヌスの中は炎が作り出すオレンジ色の光で満たされていた。・・・が、そこに何やら焦げ臭いニオイとわずかに白いもやが漂い始めたことに誰かが気づいた。


「……あら、何か焦げ臭くない?」


 小食堂の中にいた者たちが一斉に室内を見回す。臭いの元となりそうなものは無い。ロウソクは普通に燃えているし、ランプも同じだ。ランプに使われている燃料の油は虫除け効果があるとされる香料入りで、燃やせば焦げ臭くなるどころか、むしろハッカのようなツンとするハーブの匂いを発するはずである。


「外からかしら?」

「見てまいります。」


 見ると入口の方が確かに靄が濃いようで、焦げ臭いニオイも廊下から来ているようだ。侍女の一人が外へ様子を身に出て行く。ほどなくして、廊下の方が急に騒がしくなり始めた。ドタドタという、貴族ノビリタス屋敷ドムスにはあまり馴染まない足音や喧噪けんそうが沸き起こる。


「火事だぁ!」

「誰か水!水を持ってこい!!」


 使用人たちの声が聞こえてくると、ルクレティアらのいる小食堂も急にざわめき始めた。不思議なもので「火事だ」と聞くと、先ほどから気になっていた靄と焦げ臭いニオイは急に強く感じられるようになる。


「火事ですって!?」


 どうしよう、逃げるべきだろうか?


 とは言っても、まだボヤなのか、もう消火も出来ないほど燃えているのかもわからないし、そもそもどこで火災が起こっていてどっちへ逃げたらいいかすら分からない。そのうち先ほど様子を見に行った侍女が戻ってきた。


「火事です、お嬢様ドミナ

 厨房クリナの隣の部屋で…

 今、男どもが火を消していますが、一応御避難を!」


 それを聞いてルクレティアはスッと立ち上がり、それに次いでヴァナディーズも立ち上がる。ルクレティアが口を開く前に、報告してきた侍女の前にクロエリアが出ると、その侍女に確認する。


「厨房の隣!?

 何でそんなところで!?」


 厨房の隣と言えば、料理人たちが休憩するための部屋か、食器類を納めた食器室セッラのどちらかのはずである。料理人部屋には誰かがいただろうから火が出たとしても火災になる前に消し止めただろうし、食器室の方はそもそも火災のもとになるような火が無い。


「わかりません。ですが、既に大層な勢いで燃えているようです。」


 侍女はまるでクロエリアに叱られてしまったかのように怯え、オロオロしながら答える。その直後にリウィウスが飛び込んできた。


「失礼しやす奥方様ドミナ!」


「リウィウスさん!?

 何があったの!?」


 ルクレティアたちはリウィウスの姿を見て安心したかったのだが、リウィウスにいつもの飄々ひょうひょうとした様子はなく、むしろ緊張している様子で、ルクレティアたちの期待は裏切られた。


「お聞きと思いやすが、火事です。

 ただの火事じゃございやせん。燃え方が尋常じゃねぇ。

 どうやら賊が忍び込んで、火ぃ点けたみてぇです。」

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