第382話 泥沼

統一歴九十九年五月五日、未明 - ブルグトアドルフ宿駅マンシオー裏/アルビオンニウム



 宿駅マンシオー裏に残る空堀を伝い、塁壁るいへきにとりつき、鍵爪かぎづめのついたロープを投げて壁を乗り越え、あとは最奥の貴人用の宿泊施設に潜り込む。そこで高貴そうな身形みなりの十五歳くらいのヒトの女を探して殺す。見つからないようなら、焼夷爆弾しょういばくだんを使って建物に火を放って逃げる。

 彼らからすれば簡単な仕事である。半時間もかかりはしないだろう。軍団兵レギオナリウスが盗賊どもを蹴散らし、後方で起こった異変に気付いて戻ってくる前には離脱できているに違いない。

 そう、簡単な仕事のはずだった。


 ビシャッ…ビシャビシャッ…


「んっ!…何だこれは!?」

「みんな止まれ!おかしいぞ!?」


 自分自身が水っぽい足音を立てていることに気付き、先頭を進んでいた男たちが止まると全員がその場で停止する。地面を覆う草で見えないが、草の下には泥と水で満たされているようだった。


「どうかしたのか?」


「変だ!地面が濡れている!!」


「堀なんだから水くらい溜まるんじゃないか?」


「バカ!ここは丘の上の空堀だ。水なんか溜まるもんか!!

 第一、昼間偵察に来たときは乾いてた。」


 丘の上に建てられた城や砦の堀を水で満たすのは現実的ではない。近くの河川から水が引けるか、あるいは豊富な湧き水でもあるなら話は別だが、そのような水源はこの辺りには無いのだ。だからこの堀は水の無い空堀のはずで、しかも堀に落ちた敵兵が骨折しやすくなるよう、わざわざ堀の底をレンガ敷きにしてあったのだ。

 今は長く放置されているので敷かれたレンガの隙間から草が生えてしまっているが、それでも雨も降らないのに水が溜まったりすることなどあり得ない。なのに今、彼らの足は足首のあたりまで泥水に浸かっていた。


「乾いてた?

 別の場所と間違えてないか?」


「あり得ない!

 俺はこの堀は全部歩いて確かめたんだ。

 水の溜まってるとこなんて無かった。全部レンガ敷きだったんだ!」


 到底信じられる話ではなかった。彼らの足元の地面の感触はレンガ敷きではなく、どう考えても泥と水だ。レンガも所々にあるが、敷かれているというより泥の中に投げ捨てられているような状態である。

 だが、異変はそれだけではなかった。犬が唸り始める。


「どうしたジェット?んっ!?…お、お気を付けを!何かいます!?」


「何だと!?」


 草の下に隠れた水面を何かが動いている。草に隠れて直接姿を見ることは出来ないが、草を揺らしながら何かが明確な目的を持って男たちに近づいているようであった。


「気を付けろ!

 何か、普通じゃない魔力を感じる」


「任せろ」


 最初に気弱そうな態度をとっていた男デファーグ・エッジロードが前に出て剣を抜いた。素人目にも只物ではないと分かる異様な雰囲気を醸し出す魔剣が月光を受け、ギラリと青白い光を放つ。剣と言えば青銅製が普通のこの世界ヴァーチャリアにおいて、このような光り方をする剣は滅多にあるものではない。普通ならその気配だけで逃げ出すか、あるいは警戒して立ち止まるであろうが、今彼らの目の前に現れたは気づいていないのか、まるで意に介さず彼らに接近し続ける。


「フンッ!」


 デファーグは手に持った魔剣をソイツに向かって突き刺した。確かに命中したはずだったが、手応えらしい手応えが全くなく、剣は地面に突き刺さる。だが、さっきまで近づいてきていた気配はそれきり消えてしまった。


「どうだった?」


「いや、わからん…」


「わからん?」


「ああ、確かに突き刺したはずだが、まったく手応えが無い…何だったんだ?」


 デファーグは地面に突き刺した魔剣を引き抜き、剣身を確認したが血もついていなかった。ただ泥と水で汚してしまっただけである。


「おい、まだ居るぞ!」

「何だコイツ?」


 他の男たちも自分に近づいてくるその気配に気づき、同じように自分の武器を取り出して同じように気配に向かって突き刺す…すると、やはり手応えはまるでなく

、突き刺された気配の方はそれきり消えてしまう。

 が、何度か繰り返しているうちに誰かが気づいた。


「あ…これスライムだ!!」


「「「スライムだと!?」」」


 それは沼地や洞窟の中だけに存在する、最も低位の魔物の一種だった。刺し終えた武器に残っていた残滓を注意深く観察すると、確かに水以外の何か…スライムの体液が付着している。


「スライム!?まさか!」

「なんでこんなところに!?」

「さっきから感じる変な魔力はコイツらか!?」


 ただの一撃で手応えもなく死んでしまう最弱モンスターとはいえ、居るはずのない場所にこれだけ現れるとなると驚かないわけにはいかない。あるはずのない沼が発生していたこともあって男たちは軽いパニックに陥ってしまう。パニックは犬にも伝染したのか、犬も右へ左へとピョンピョン跳ねては逃げ惑いはじめた。


「落ち着け!

 スライムなんて怖くない!

 それよりも時間がないんだ、先を急ぐぞ!!」


 スモル・ソイボーイが呼びかけると、全員が落ち着きを取り戻した。


「そ、そうだな、よし行くずおっ!?」


 「行くぞ」と言おうとしたが言い終わる前に何かに脚をとられ、ティフはビシャッと派手な水音をたてて転んでしまった。


「どうした!?」

「ドジだな、何やってん…あ、あれ!?」

「ぶふぁっ!!…ち、違うんだ。何かが脚に…クソ、何だこれ!?」

「あ、あれ、俺もだ!?」


 男たちの脚にはいつの間にか蔓草つるくさが絡みついていた。


「クソっ、何でこんなものが!?」


 男たちは毒づきながら足元に絡みついた蔓草を切り捨てる。間違って自分の脚を傷つけないよう、慎重に。だが、切り終える頃に彼らの周囲が急に明るくなり始めた。


「!?」


 見つかったか!?と一瞬警戒し身構えた彼らだったが、予想外のモノを目にする。それは音もなく漂う光の球体だった。青白く光る球体は三つ一組で、それぞれがやはり光るヒモのような物で結ばれており、それぞれの光球が8の字を描くように入れ替わり立ち替わり、お互いの場所を取り合うように回転運動を続けている。


「ウィル・オ・ザ・ウィスプ…か?」


 沼地などでたまに見かけることのできるモンスターではある。だが、自然発生する確率は非常に低く、沼地の近くに住んでいる人間でさえ一生に一度も見ないという者は珍しくない。

 その世にも珍しいウィル・オ・ザ・ウィスプが三体、目の前に現れていた。


「どうなってんだ、コレ!?」


 あるはずの無い沼、いるはずのないスライム、そして更に現れた滅多に見かけることの出来ないウィル・オ・ザ・ウィスプが一度に三体…あきらかに異常な事態だった。

 いよいよ彼らは本格的に混乱し始めた。


「クソっ!魔法使うぞ!?」

「よせ!音と光でバレる!!」

「どうする!?寄ってくるぞ!!」

「襲ってくる気だ!」

「剣は使うな!駄目になるぞ!!」

「どうすりゃいいんだよ!?」

「何でもいいから投げつけてぶつけろ!」


 ウィル・オ・ザ・ウィスプは実態を持たないエネルギーの塊みたいなモンスターである。ゆえに短時間しか顕現けんげんできない。そして何かに触れるとそれが何であれエネルギーが弾けてダメージを与えると同時に、自身のエネルギーを失って死ぬ。言ってみれば自爆攻撃専門のモンスターだ。

 触れた物は高エネルギーを受けてダメージを受けるため、液体なら一瞬で気化して爆発するし、金属なら溶けてしまう。うっかり剣で攻撃すると、剣の触れた部分が一瞬で溶けてダメになってしまうのだ。

 だが、それが何であれ触れさえすればエネルギーを発散してしまうため、草や木や石ころなんかを適当にぶつけてやるだけでも消滅してしまう。もっとも、ぶつける物によっては大爆発してしまうこともあるので、距離が近い場合は気を付けなければならない。


「このっ!クソッ!」

「何だって、こんなっ!」


 男たちは先ほど切り取ったばかりの蔓草やら、足元に転がっていたレンガやらを拾ってウィル・オ・ザ・ウィスプに向かって投げつけ始める。命中すれば…直撃しなくても近くをかすめれば、ウィル・オ・ザ・ウィスプのエネルギーが発散され、その度にバチッ!バチッ!と激しい光と音を伴った小さな爆発を起こす。そしてその度に光球が一つずつ減っていく。

 必死の抵抗の甲斐あって、犠牲者を出すことなく最後の一つの光球が消滅すると、あたりは再び暗くなり、彼らはようやく落ち着きをとりもどした。


「クソ、おい…何か変だぞ!ここは絶対何か変だ!」

「なあ、これって罠じゃないのか!?」

「撤退すべきだ!おかしすぎる!!」


 気づけば宿駅マンシオーの向こうから聞こえていたはずの銃声は既に聞こえなくなっていた。陽動によって稼げていた時間はとっくに消費してしまったようだ。

 だがティフは続行を決断する。


「待て、あきらめるのはまだ早い…」


「まだやるのかよ!?」

「もう銃声は聞こえないぜ!?

 盗賊どもはとっくに逃げ散ったか、殺されちまってるさ!」


「わかってる!

 だが、戦闘が終わっても奴らは死体の確認とかするはずだ。

 すぐに戻ってはこない。

 塁壁るいへきを登る。それで中の様子を見て、やれるようならやろう。

 無理なら、せめて要所に火を付けて逃げる。

 罠だとしたら、敵に俺たちの追撃を断念させなきゃな…違うか?」


 しばしの沈黙のあと、男たちはティフの説明に納得したようだった。


「分かったよ。行くだけ行ってみよう。」


 スモルがそう言うと、他の男たちも渋々と同意する。だが…


「わかった。しゃあねぇ行く…か?」

「あ、あれ!?」

「何だこれ!?」


 男たちの足首にはまた蔓草が絡みついていた。


「クソっ!これおかしいぞ!?」

「さっき切ったはずなのに!」

「俺、動いてないのにまた絡みついた!!」

「罠だ!罠だよ!やっぱり逃げよう!!って!?なっ!?」

「痛っ!!」

「なんだ!?」

「い、石だ!!石が飛んできてる!?」


 口々にわめきながら足首に絡む蔓草に悪戦苦闘する彼らの頭上に、突然石が降り注ぎ始める。小さいものは卵大の物から、大きいものとなると人の頭ほどもありそうな岩石がどこからともなくドカドカと降り注ぎ始めた。


「ヤベェ!ヤベェって!」

「バレてる!やっぱり罠だ!」

「クソっ!逃げるぞ!!」

「撤収だ!ティフ!それでいいな!?」


 さすがにこの期におよんで作戦続行を決断するわけはなかった。


「やむを得ん、逃げるぞ!!ってっ!?」

「痛ぇ!!…う、腕が折れた!?」

「だ、誰か手を貸してくれぇ!」


 結局彼らは目的も果たせず、這う這うの体で引き下がらざるを得なかった。岩石は彼らが堀から森へ逃げかえるまで降り注ぎ続け、八人中三人が骨折するなどの重傷を負った。

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