第364話 夜の散歩へ

統一歴九十九年五月三日、夜 - 黒湖城塞館・ゲストハウス/シュバルツゼーブルグ



 ルクレティアとヴァナディーズは自分たちの宿泊用に割り当てられたゲストハウスに戻ると使用人たちに手伝わせて寝る準備を整えた。予め用意しておくよう命じておいたお湯を使って身体を拭き、化粧を落とし、新しい服に着替えると、昼間着ていた古い衣服は使用人が外へ持っていく。シュバルツゼーブルグ家の使用人たちがいつものように明日の朝までに洗っておいてくれることになっているのだ。

 ルクレティアは今は魔導具マジック・アイテムを用いて浄化魔法が使えるのだが、降臨が起きたこともルクレティアが聖女サクルムになったことも未だ伏せねばならないため、衣類の洗濯等は慣例どおりにシュバルツゼーブルグ家に預けなければならない。

 ルクレティアの寝る準備が整ったところで使用人たちが寝室クビクルムから退出しはじめ、ルクエティアの専属侍女の筆頭を務めるクロエリアが最後に窓の戸締りを確認しはじめる。


「待って、クロエリア。」


「?」


 鎧戸を閉めようとするクロエリアに気付いてルクレティアは背後から声をかけた。


「寝る前に、少し月を見たいの。」


 ルクレティアがそう言いながら窓に近寄ると、クロエリアは「かしこまりました」と言ってルクレティアの為に脇に避ける。

 常にと言って良いほど全天を雲が覆うことの多いアルトリウシアと違って、ライムント地方の空に雲はほとんど浮かんでいない。グナエウス街道の通る西山地ヴェストリヒバーグの切れ目に近い、ここシュバルツゼーブルグにおいてもそれは変わらなかった。雲は全くないわけではないが、薄く小さい雲がわずかに浮かんでいる程度であり、空にはほどなく満ちる十三夜月じゅうさんやづきがまぶしいくらいに明るく輝き、そしてそれに負けないほど無数の星々がキラキラとまたたいている。この宝石箱の様に美しい星空はアルトリウシアにいたのではまず拝むことができない。


「はぁ~…やっぱりライムントの星空はキレイよね。」


 思わずウットリと声が漏れてしまう。特に誰かに同意を求めたわけではない、単なる独り言だったのだが、後ろで聞いていたクロエリアが相槌を打った。


「はい、ヴァナディーズ様もそうおっしゃっておられました。」


「先生が?」


「はい、それでちょっと夜風に当たって、星を見て来るとおっしゃられて…」


 ヴァナディーズが散歩に出かけたと聞いてルクレティアは驚き、思わずクロエリアの方を振り返って少し大きな声をあげる。


「出て行かれたの!?」


 女が夜中に外を出歩くなど危険極まりない。襲ってくれと誘うようなものである。ましてやシュバルツゼーブルグは大量の難民が流れ込んだおかげで治安が酷く悪化しており、近頃では街道沿いに盗賊団なども出没するようになってしまっているのだ。

 ルクレティアの反応は当然のものではあったが、それでもクロエリアはルクレティアの勢いにされてわずかに狼狽うろたえてしまう。


「え、ええ…お止めしたのですが、ブルグスの中ならば安全だからと…」


御供おともは!?」


「特に連れては…ですがこの近辺はシュバルツゼーブルグ家の衛兵がお守りになっておいでですので。」


 たしかに、ゲストハウスはかつて「黒湖の砦」シュバルツゼーブルグと呼ばれたブルグスの敷地内にある。ブルグスとしての機能は失われて邸宅ヴィラに改装されたとはいえ、敷地外縁を囲む砲台や土塁はそのままになっているし、敷地内はシュバルツゼーブルグ家の私兵によって厳重な警備が敷かれている。要するにここは人の家の庭なのだった。


「そう、そうかもしれないけど…」


 ルクレティアはやや不安げに窓の外へ視線を戻した。その視線の先に、白っぽい人影を捕える。それは白い服に明るいベージュの外套パエヌラまとったヴァナディーズの姿だった。


 あ、あんなところにいた…どこに向かっているんだろう?

 あの先にあるのは…倉庫群ホレア


 距離はかなりあり、ライムント地方の夜に特有のやけに強い月明かりがなければ気づくことも出来なかっただろう。ヴァナディーズが居るところはかつて並んでいた兵舎を撤去して整地した広い庭園であり、彼女が歩く先にあるのは今も残されている倉庫群ホレアだった。その向こう側には敷地の外縁を形成する背の高い土塁が横たわっており、倉庫群ホレアと土塁の間には武骨な土塁が景観を損ねないようにするために植えられた樹林があるばかりである。

 間違っても月や星を見るために行くような場所ではなかった。


「ねえクロエリア、リウィウスさんたちは何処にいるかわかる?」


「あの、リュウイチ様の奴隷たちですか?

 軍団兵レギオナリウスの皆様と一緒に御相伴ごしょうばんに預かっておられるかと…」


 ヴォルデマールはルクレティアが連れてきた護衛の軍団兵レギオナリウスたちにも、ホールとは別の場所でではあったが酒と料理を振舞っていた。リウィウスたちは軍団兵レギオナリウスではなかったが、ちゃっかりとその中に潜り込んで酒と料理を楽しみに行っていたのだった。


「急いで呼び戻してくれる?

 ヴァナディーズ先生が変なところへ行こうとしているみたいなの…危ないことになる前に呼び戻さないと…」


 ルクレティアが窓から見えるヴァナディーズを指さしながら言うと、クロエリアは「ただちに」と言ってお辞儀をしてから寝室クビクルムを出て行った。それを見届け、一人残されたルクレティアは「んふっ」と笑った。


 せっかくだもんね。私も行っちゃおうっと…


 これは魔導具マジック・アイテムを身に着けて出かける絶好のチャンスであった。夜中だから目立たないし、郷士ドゥーチェの屋敷の敷地内だから安全だし、客人や邸宅ヴィラの家人たちはホールに集まっているから、誰かの目に留まってしまう心配もない。

 もちろん他人様の家の敷地なのだから下手に魔法なんか使おうというわけではない。ただ、魔導具マジック・アイテムを身に着けて出かける…それだけでいいのだ。せっかく貰った魔導具マジック・アイテムを身に着けて夜の散歩にでかけ、人知れずそれを満喫したい。


 ルクレティアはヴァナディーズの後を追うべく装備を整えた。リュウイチから貰った魔導具マジック・アイテムの数々を引っ張り出して装備する。服の下に隠せる『念話の腕輪』テレパス・ブレスレット『生命のネックレス』ネックレス・オブ・ヴァイタリティ『羽毛の足飾り』フェザー・アンクレットはそのまま着けっぱなしにしていたが、他は外して例のマジック・ポーチに収納しておいたのだった。

 なお、このマジック・ポーチのことはクロエリアら侍女たちにも秘密にしたままである。『聖なる光の杖』ワンド・オブ・ホーリー・ライト『聖賢のローブ』ローブ・オブ・セイントはポーチに入れてあるが、クロエリアたちにマジック・ポーチのことをバレない様にするため、ボロ布や木の棒を包んだダミー品をわさわざ用意し、リウィウスたちにそれらを管理させるというアコギな真似までしていた。だからクロエリア達はルクレティアがワンドやローブなどを持っているとは思っていない。


「 《地の精霊アース・エレメンタル》様」


 ルクレティアは右手の薬指にハメた指輪に呼びかけると、緑色の優しい光を放って半透明の小人が現れた。《地の精霊アース・エレメンタル》である。


「ちょっと夜のお散歩に行きたいのです。手伝ってくださいますか?」


 《地の精霊アース・エレメンタル》はフワッと浮き上がるとそのままルクレティアの肩に座った。

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