シュバルツゼーブルグの夜

第360話 峠道

統一歴九十九年五月三日、午後 - グナエウス街道/シュバルツゼーブルグ



 軍団幕僚トリブヌス・ミリトゥムセプティミウス・アヴァロニウス・レピドゥスの馬車とルクレティアとヴァナディーズを乗せたスパルタカシウス家の馬車は、直掩ちょくえん重装歩兵ホプロマクス一個百人隊ケントゥリアに囲まれてグナエウス峠を越えた。護衛は三個百人隊ケントゥリアのはずだが、一隊しかいないのはもちろん理由があってのことである。

 本来、グナエウス街道を通ってアルトリウシアからアルビオンニウムへ行く場合、途中で二泊するするのが通例である。泊まるのはグナエウス峠の頂上にあるグナエウス砦ブルグス・グナエイと、宿場町であるシュバルツゼーブルグだ。


 グナエウス砦ブルグス・グナエイブルグスと呼ばれてはいるが、実態はほぼ要塞カストルムと言って良いほどの規模を誇り、軍団レギオー一個を丸ごと収容できるだけの能力がある。

 グナエウス峠は街道が整備されているので荷物を満載した馬車でも越えることはできるが、峠を越えるためにはどうしたところで二日がかりにはなってしまうだけの距離があり、途中で宿泊することは避けられない。本来軍用街道ウィア・ミリタリス軍団レギオーが行軍することを前提にしている以上、途中で軍団レギオーが宿泊できる場所が必要となるが、山岳地帯で地形が険しいため大規模な部隊がまとまって野営できるような場所はほとんどなかった。このため、軍団レギオーを通過させるためには途中で軍団レギオーが丸ごと収容できる宿泊施設の整備が必要とされ、その要求に応じて建造されたのがグナエウス砦ブルグス・グナエイだったのだ。

 規模から言って要塞カストルムと呼ぶべきではあったが、いかんせん峠の頂上を無理矢理切り開いて建造されただけあってまともな防御施設や物資の集積施設を設置できるだけの広さが無く、本当に軍団レギオーが一~二泊出来る程度の機能しか持っていないため、ブルグスと呼ばれている。

 一応、普段は早馬等の中継基地、そして街道上の治安維持のための拠点として使われているため、常駐の部隊は小規模ながら存在しているが、冬は雪で閉ざされるため無人となってしまう。そして今は、アルビオンニア軍団レギオー・アルビオンニアの部隊がアルトリウシア復興支援のため、百人体制で兵舎の解体作業を行っている。グナエウス砦ブルグス・グナエイの兵舎をアルトリウシアへ移築するためだ。


 シュバルツゼーブルグの方はかつては対南蛮サウマン戦の最前線となっていたブルグスがあった土地で、版図の拡大によって前線が南へ押し上げられた現在では宿場町となっている。

 ライムント街道とグナエウス街道が交わる交通の要所であり、アルビオンニウム放棄の影響で現在は景気が落ち込んでいるが、かつてはライムント街道沿いにある宿場町としては一二を争うほどの繁栄を見せていた。現在の人口は五万人ほどだが、そのうち二万人以上がアルビオンニウムからの避難民であり、治安や衛生はもちろん、経済面でも大きな問題となっている。

 かつては最前線だったというだけあって軍団レギオーが駐留できるほどのブルグスが存在していたが、今ブルグスは解体されてシュバルツゼーブルグを治める郷士ドゥーチェのやけに広大な邸宅ヴィラに建て替えられている。ちなみにその邸宅ヴィラがアロイス・キュッテルの妻ザビーネの実家だった。軍団レギオーが通行する際はその邸宅ヴィラに泊めてもらうか、周辺の休耕地に野営するのが慣例になっている。


 本来ならばルクレティアらの一行はそれらの宿泊施設を利用することになるはずだが、一つは聖女サクルムとなって魔導具マジック・アイテムを身に着けたルクレティアの姿をなるべく隠すため、そして護衛を務めている特務大隊コホルス・エクシミウス軍団兵レギオナリウスが一般人と酒場等で接触して秘密を漏らしてしまわないようにするため、今回はあえて利用しないこととされた。

 その結果、それらの宿場町以外にある中継基地スタティオに宿を求めざるを得なくなってしまっている。


 中継基地スタティオはレーマ帝国の街道沿いに設置されている通信と治安維持のための拠点となる施設である。

 レーマ帝国には《レアル》古代ローマ譲りの飛脚タベラーリウス制度があり、急いで手紙を運ぶ場合は中継基地スタティオから次の中継基地スタティオまで馬を乗り継いでリレー形式で手紙を運んでいく駅伝システムが帝国中に張り巡らされていた。馬が連続で走り続けることが出来る距離がだいたい八マイル(約十五キロ)程度であるため、地形次第だが中継基地スタティオは六~八マイルおきに設置されており、乗り継ぐための馬と飼育係、そして街道を警備するための少数の警察消防隊ウィギレスが常駐している。

 本来は大規模部隊を収容することを想定していないので、大規模な施設であっても緊急の際に一個歩兵中隊マニプルスがギリギリ入れるかどうかぐらいの規模しかない。


 グナエウス街道の中継基地スタティオは地形の許す限り規模の大きいものが整備されているが、それでもさすがに三個百人隊ケントゥリアもの兵力を収容できるほどの収容能力のあるものは無かった。おまけに一行は護衛の三個百人隊ケントゥリアの他にもルクレティアとセプティミウスの従者たちが多数加わっているのである。一か所の中継基地スタティオに収容できるはずも無かった。

 結果、護衛は三個百人隊ケントゥリアが付いてはいるものの、実際に直掩するのは一個百人隊ケントゥリアだけで、他の二隊は本隊の前後に距離を置いて進行し、一つずつ離れた中継基地スタティオに宿泊することとなっていたのだった。なおこの措置はグナエウス街道を通る間だけで、明日以降のシュバルツゼーブルグから先のライムント街道では全隊がまとまって行動することになる。


 昨夜はグナエウス峠の西側中腹にある中継基地スタティオで一泊、二日目の今日は昼頃にグナエウス峠頂上にあるグナエウス砦ブルグス・グナエイで昼休憩をとり、今は峠の東側を下りつつある。馬車の窓から見下ろす眼下の景観は見事の一言でシュバルツゼーブルグの街並みが一望にできていたが、西山地ヴェストリヒバーグの東側だけあって陽が沈むのも早く、周囲は徐々に薄暗くなり始めていた。


「もう暗くなってきたわね。

 まだ着かないのかしら?」


 ヴァナディーズが膝の上に乗った緑色の半透明の小人のような光の塊と夢中で話すルクレティアから目を逸らし、何を見るでもなく馬車の窓から外を眺めて嘆息する。彼女は退屈を持て余していた。馬車に揺られながらでは本も読めないし、書き物もできない。そして唯一の同乗者であるルクレティアは《地の精霊アース・エレメンタル》との会話に一生懸命でヴァナディーズの相手をあまりしてくれないのだ。

 最初の内はヴァナディーズも一緒に話していたが、精霊エレメンタルは念話で話すため精霊エレメンタルが話そうと思わない相手には、その相手がよほど精霊エレメンタルとの親和性が高くない限りその声は聞こえない。そして《地の精霊アース・エレメンタル》は一種のコミュ障で、人間とかかわりを持つことにひどく消極的であり、《地の精霊アース・エレメンタル》の方からは話をしようとしてくれない。

 ルクレティアの事は自身の召喚主であるリュウイチにとって大切な人物だと認識しているらしく、ルクレティアには何か訊かれれば答える程度には応対してくれるのだが、ヴァナディーズのことはどうでもいいらしくルクレティアを通さないと質問にも答えてくれないし、答える際もルクレティアにだけ念話を送るので、ヴァナディーズはルクレティアを中継しないと話が出来ないのだった。結果、馬車の中でヴァナディーズだけが取り残されたまま、車窓を愉しむしかなくなっていたのである。


「ああ、先生、えっと…ここらは山の東側だから暗くなるのが早いんですよ。

 ほら、シュバルツゼーブルグの向こう側の東山地オストリヒバーグの尾根はまだ明るいでしょう?」


 初めて《地の精霊アース・エレメンタル》と会話できるようになったばかりという事もあって、つい夢中になってヴァナディーズを退屈させてしまったことに気付いたルクレティアが気まずそうに説明する。ルクレティアの言う通り、眼下に見下ろすシュバルツゼーブルグを挟んで遠くにそびえる山脈やまなみは西へ傾きつつある陽の光を浴びて眩しいくらいに輝いて見える。


「これだけ天気が良いのに、やっぱり寒いのね」


 ヴァナディーズは外套パエヌラの上から重ねて羽織っている毛布の襟元を整えながら言った。昨夜は西山地ヴェストリヒバーグの中腹にある中継基地スタティオに宿泊したこともあって、季節を一か月くらい先取りしたような寒さの中で過ごさねばならなかった。そして今も寒さに耐えるため冬着と毛布を重ねることで寒さに堪えている。


「ライムント地方はアルトリウシアよりも寒暖の差は激しいので、今夜はたぶん昨夜よりも寒いと思います。

 暖房は昨日より用意してくれると思いますけど…」


 グナエウス峠を越えた西山地ヴェストリヒバーグより東側はアルトリウシアと違い、雨どころか曇ることさえあまりない比較的乾燥した地域である。水は東西の山々から流れ込む川の水が豊富であるため、雨が少なくとも生活や農業に困ることはない。ただ、盆地であるため夏は暑く冬は寒い。寒暖の差の激しさや夏場に多い雷雨さえ気にしないのであれば過ごしやすい気候ではあった。

 しかし、アルトリウシアに比べると格段に寒いのは間違いない。アルトリウシアが大南洋オケアヌム・メリディアヌムの暖流のおかげで常に温かい風が吹きつけるのに対し、ライムント地方にはその風が西山地ヴェストリヒバーグを越える際に水分を失い冷たく冷やされてから吹き付けるためだ。


 もっとも、ヴァナディーズはアルビオンニウムに行くのは初めてではないのでそのことは知っているはずである。要はねているのだ。ルクレティアが気まずさにさいなまれ、早く到着してくれないかと思い始めたところで馬車が停止してしまった。どうやら車列全体が停止してしまったらしい。


「あら、何かしら?

 休憩時間には早いと思うけど…」


 隊列は徒歩の重装歩兵ホプロマクスに合わせるため一時間に一回ずつ休憩をとっている。だが前回の休憩をとってからまだ半時間も過ぎていない筈だった。


「訊いてみましょうか…ねぇ、外で何かあったの?」


 ヴァナディーズは気が立っているのかいつもより積極的である。車内からヴァナディーズが問いかけると、御者台ぎょしゃだい御者ぎょしゃの右隣に座っていたリウィウスが横から身を乗り出すように振り返って答えた。


「さあ、分かりやせん。

 どうも前から伝令が来たようで、何かあったようでやすが何があったかまでは」


 ヴァナディーズは馬車の窓から顔を出して前方の様子を伺い、ルクレティアもはしたないと思いつつも付き合って窓から顔を出して前方を見た。

 どうやらリウィウスが言ったように前から伝令が来たらしく、ルクレティアたちの前を進んでいたはずのセプティミウスの馬車に護衛隊長のセルウィウスが馬に乗ったまま横付けして何やら話をしている。

 そのうち、セルウィウスは馬から降り、同時に馬車からセプティミウスも降りて二人でこちらへ歩いてきた。


「あ、こっちに来やす!…おい!」


 リウィウスはヴァナディーズたちに短く報告すると、振り返って従者席フットマンズシートの同僚二人に合図する。リウィウスの合図に気付いたカルスとヨウィアヌスはサッと馬車から降りて馬車のドアを開ける準備をした。


「失礼します、ルクレティア様」

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