第359話 カウンター・ゴシップ

統一歴九十九年五月二日、夕 - ティトゥス要塞司令部/アルトリウシア



 本来、領主貴族パトリキとしては非常に珍しいことではあるのだが、アルトリウシアの領主ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウスはほぼ日毎にと言って良いほど自身の邸宅であるティトゥス要塞カストルム・ティティと、リュウイチの住むマニウス要塞カストルム・マニの往復を繰り返していた。おそらく、これほどの多忙を極める領主貴族はレーマ帝国では彼をおいて他に存在しないだろう。

 昨日、マニウス要塞へ行ったと思いきや、今日にはティトゥス要塞へ舞い戻っている。両要塞は日帰りできる程度の距離しか離れていないとはいえ、おおよそ上級貴族パトリキらしからぬ慌ただしさといえる。この生活のため、彼はほぼ毎日二時間ちかく馬車に揺られることを強要されており、ルキウスの妻アンティスティアは夫の持病の腰痛を案じて気が気ではなかった。


 実際、ルキウスの腰は悲鳴を上げていた。マニウス街道からティトゥス街道に入る際の曲がり角で、彼の乗った馬車はちょっとした段差に乗り上げてしまい、その衝撃は彼の腰に尋常ならざる激痛をもたらしてしまったのだ。

 要塞司令部プリンキピアにたどり着いた馬車から降りる際、ルキウスは青ざめた顔に脂汗を浮かべ、従者たちに支えられながら車椅子へと降ろされる羽目になっている。


「大丈夫なのですか、子爵閣下ルキウス?」


 どう見ても大丈夫ではなくても、何故かそう訊いてしまうのは考えてみると不思議な気がしてくる。


「ああ、この程度はよくあることだ。

 ひとまず、話し合うべきことは話し合わねばな、侯爵夫人エルネスティーネ?」


 フーッ、フーッと荒い息を繰り返しながら、ルキウスは相変わらず脂汗の浮かんだ青ざめた顔に強がりの笑みを浮かべる。


「わかりました。せめて用件を早く片付けましょう。」


 ティトゥス要塞司令部プリンキピア・カストルム・ティティはアルトリウシアの内政を司る行政機関としての役割を果たしている。アルトリウシアの復旧復興事業がアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアを中心に実施されている現在でもそれは変わらない。にもかかわらずエルネスティーネやルキウスがマニウス要塞へ頻繁に赴いて会議だのなんだのをしているのは、マニウス要塞に降臨者リュウイチが収容されているからに他ならなかった。


 もし、リュウイチの存在が無ければ、彼らがティトゥス要塞から外に出なければならない必要性など、おそらく現状の五分の一にも満たない程度でしかなかったに違いない。せいぜい各地区の被害状況を視察し、ウオレヴィ橋の開通式に顔を出し、サウマンディアの使節の送り迎えをするくらいだっただろう。リュウイチの降臨が無ければサウマンディアからの使者だって全く来なかったか、来たとしても使節が一組くる程度だったに違いない。応援の部隊だって来てなかっただろう。

 避難民を要塞カストラに収容するくらいはしただろうが、兵舎等を解体して移築してまで被害地域の復旧復興を急ぐことはしなかっただろうし、おそらく今頃はエッケ島攻略の方を優先していたはずだ。


 アルトリウシアはリュウイチ一人のために随分と影響を受けてしまっている。むろん、膨大な銀貨やポーションを融通して貰っているし、リュウイチが居たからこそサウマンディア軍団レギオー・サウマンディアの応援部隊も出してもらえているので悪い影響ばかりと言うわけではない。彼ら自身、厄介だとは思いつつも、同時にチャンスだとも考えているのだ。


「では、緊急性の高い話から聞いて頂いた方がよろしいかしら?」


 エルネスティーネはルキウスを気遣いつつ、同席するヘルマンニへ視線を送る。


「へい、実はイェルナクの奴めがトゥーレスタッドで、通りかかる船の船乗りたちに例の陰謀論を吹聴しておるようでしてな。」


 ヘルマンニが話し始めると同席する侯爵家、子爵家の家臣たちから不満のため息や呻き声が漏れた。ルキウスも思わず額に手を当てる。


「何でまたそんなことに!?」


「イェルナクめはサウマンディウムへ行きたがっておった。

 船を用意しろと要求してきておったじゃろう?

 アレを断った時に、キュッテルアロイス閣下に自分で船を捕まえて便乗させてもらえと言われたんに腹ぁ立てたんじゃろうな。昨日から早速トゥーレスタッドに行って、通りかかる船を捕まえちゃあサウマンディウムまで乗せろと持ち掛け、そのついでに世間話を装って陰謀論を広めようとしよるようじゃ。」


「それで、対応は?」


「幸い、ウルピウス・ウェントゥステルティウス殿が今日サウマンディウムへ行くってぇから、『ナグルファル』号使ってもらって便乗させるってことで…それでイェルナク自身は片付くじゃろう。」


 イェルナクがトゥーレスタッドで通りかかる船に声をかけるのは、イェルナクが軍使レガトゥス・ミリタリスという身分に守られているからであり、同時にサウマンディウムへ行くための船を探すと言う名分があるからだ。それが無ければ、今頃は叛乱軍としての手にかかっていたことだろう。ならば、片付けるのは至極簡単だ。お望み通りサウマンディウムへ連れて行ってやればいい。


「最初から送ってやればよかったんだ。」


 ルキウスは額に手を当て目を閉じたまま呟いた。元々、イェルナクのために船を出さないと決めた理由は、単純なハン族嫌悪という感情にのみ帰せられるものだった。イェルナク個人やハン族に対する反感を無視するならば、素直にイェルナクのための船を用意してやった方が面倒が少なくなるであろうと考えるのは難しいことではなかったはずだったのだ。


「今更それを言っても仕方がありません。」


 たしなめるようにエルネスティーネは言った。


「今は対策を考えなければ…」


「まだ、何かほかに対策が必要なのですかな?」


 額から手を退け、目を開けてルキウスがエルネスティーネに問いかける。


「ええ、イェルナクが陰謀論を吹き込んでしまった船乗りたちです。」


 トイミ事件が起きてエッケ島にハン族が潜んでいるという事が明らかになって以来、アルトリウシア湾西部で漁をする漁師はいなくなっている。殺されちゃたまらないからだ。おかげでトゥーレスタッドを利用するのは交易船か遠洋漁業船のみであり、どちらも貴族ノビリタスか御用商人の息のかかった船ばかりだ。


「どの船が、イェルナクと接触したかは分かっておるのですか?」


 ルキウスの問いにエルネスティーネは首を振った。


「残念ですがすべてを把握できているわけではありません。

 セーヘイムの船はヘルマンニ卿のおかげでが利きそうですが、外の船や乗客たちまでは…」


 幸い、イェルナクが最初に話を持ち掛けた船はヘルマンニの息子サムエルの妻メーリの実父ネストリの所有する船だった。おかげでイェルナクの活動はかなり早い段階でヘルマンニの知るところとなり、セーヘイムの船乗りたちには口止めをすることができている。

 だがイェルナクはトゥーレスタッドに停まる船には片っ端から声をかけていた。中にはセーヘイム以外の船も含まれていて、それらを通じて外に話が漏れていく可能性は否定できない。また、セーヘイムの船乗りには口止めが出来たとしても、交易船に便乗してきた旅人などには、どこまで口留めが利くかは未知数だった。


「それは放置するほかありますまい。

 今、下手に騒げば却って噂に根拠を与えてしまうでしょうな。

 噂というものは、抑えようとすればするほど却って勢いを得てしまうものだ。」


 ルキウスは諦めたようにため息交じりで答える。

 実際のところ、誰がイェルナクの話を聞いた人物かを特定できない以上、対策の打ちようがない。特定できたとしても、下手に肩をたたいて「余計な事は口にするな」などと釘を刺しでもしたら、ルキウスが言うように却って噂に信ぴょう性を与えてしまう。


「むしろ、噂を流してはいかがでしょうか?」


 子爵家で法務を司っている家臣アグリッパ・アルビニウス・キンナがおもむろに提案した。


「噂を流す…だと?」


「ええ、イェルナクがトゥーレスタッドで船乗りたちを捕まえて色々とデマを流している…と」


 ルキウスの問いにアグリッパは口角をわずかに持ち上げて答えた。アグリッパにはルキウスが好きそうな悪戯っぽいこの提案は受け入れてもらえるだろうという自信があった。

 だが、本気で腰の痛みに苦しんでいるルキウスにそういうユーモアをたのしむ余裕はなく、アグリッパの予想に反して否定的なセリフが出てくる。


「それではイェルナクめに力を貸してやるようなものではないか?」


「いえ、イェルナクが話したというデマをそのまま噂すれば力を貸したことになりましょう。

 ですが、イェルナクが流したデマを色々こちらで付け足してやるのです。明らかに荒唐無稽こうとうむけいなものを、色々とね。

 例えば、イェルナクの言うメルクリウス団と手を組んだ相手が南蛮サウマンのバージョンや、チューアのバージョンやサウマンディアのバージョンを用意してやったり、あるいはカール閣下謀殺を狙う教会残党勢力の仕業というバージョン、ムセイオンがヴァナディーズ女史を使って降臨を起こす実験をさせたとか…とにかくそうやってたくさんのバージョンを用意して、イェルナクが本当は何を言ったのか分からなくしてしまえば、人々はイェルナクが適当なことを吹聴する信用のおけない人物だと思うようになるでしょう。

 降臨者云々という噂もその中に埋もれて信ぴょう性を失います。」


 有効な対策に思えた。同席する家臣団たちからは「なるほど」と得心したように声が漏れ聞こえる。ルキウスも苦しそうに息をしながらも天井を見ながら考え、面白いと思った。彼が腰痛に苦しんでいなければ採用していただろうが、彼は普段とは異なりひどく消極的になっていた。


「いや、やはりやめておこう。

 影響がどうでるか計り知れない。」


 ルキウスはそれだけ言うと顔を手で覆い、目をつむった。脂汗が止まらない。腰の痛みが一向に治まらないのだ。椅子に座るという姿勢が、多分良くないのだろう。椅子に座るのをやめてどこかで横になるべきなのだ。だが、今それは出来ない。

 アグリッパはガッカリした様子で「そうですか」とだけ言って背もたれに背を預けた。エルネスティーネはその様子に少し残念そうに思いフォローを入れる。


「私は、面白い策だと思いましたよ、子爵閣下ルキウス?」


「ええ…だが、やるとしたら、その噂が広まった結果が十分に予想できるモノに限定すべきでしょうな。

 万が一の結果を考えると、恐ろしすぎます。」


「わかりました。では今は静観しましょう。

 ただ、今後その策は必要になるかもしれません。

 準備は進めておいてください。」


 エルネスティーネがそう言うとアグリッパは姿勢を正し、無言のまま会釈した。


「それにしても、ルキウス、あなた本当にもう今日は…」


 さすがにルキウスの脂汗の量が尋常ではなく、間近で見ていたエルネスティーネが心配するとルキウスは軽く手をあげてその言葉を遮った。


「そうですな。重要案件が他にないのなら、私は次の報告をして中座させていただくとしよう。ちょっと…腰の痛みが…強くてね…」


「ええ、少なくとも緊急を要する案件はもうないはずです。

 ルキウス、どうかご無理をなさらないで。」


 エルネスティーネはそう言いながら壁際に立つ使用人たちに合図を送り、ルキウスの退場が近いことを知らせた。家臣たちもさすがに不安なのか半ば腰を浮かせてルキウスの様子を伺いはじめる。


「そうですか、では報告を一つさせていただきましょう。」


「わかりましたわ。

 どうぞおっしゃってください。」


 本気で気遣うエルネスティーネの言葉にルキウスは苦悶に歪む顔にフッと笑みを浮かべ続けた。


「ではお言葉に甘えて…昨日、リュウイチ様がルクレティア様の同衾どうきんをお許しになられ。ルクレティア様は正式に聖女サクラとなられた。」

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