第357話 セヴェリ川の警戒態勢

統一歴九十九年五月二日、夕 - アルトリウシア平野/アルトリウシア



 用心深くあしの垣根の隙間から伺うアイゼンファウストは空も地上も茜色に染まりつつあった。どういうつもりか分からないが、ドナートたちがいる場所のちょうど対岸の河川敷に生えている草はおおよそ十ピルム(約十八メートル半)置きに刈られており、刈り残された草の一部からはモクモクと煙が上がっていて、時折オレンジ色の炎が見え隠れしている。


 連中、何をやっている?あんなに火を燃やして《火の精霊ファイア・エレメンタル》が怖くないのか!?


 周囲には軍団兵レギオナリウス郷士ドゥーチェの私兵とおぼしき男たちが武装し、手桶を持って群がっているが一向に火を消そうとはしていない。その周囲には燃え広がろうとしている野火など全く気にしていないかのように、別の軍団兵たちが完全武装で待機している。


 やはりレーマ人の考えることはよくわからん。


 ドナートはため息をつく。だが、分からないからと言ってそれで終わらせるわけにはいかない。ドナートには重要な任務があるのだ。

 逃亡したことになっているダイアウルフをアイゼンファウストに放ち、アイゼンファウストのレーマ人たちに一泡吹かせねばならない。ただし、ダイアウルフが連中に殺されたり傷つけられたりすることの無いよう、敵の隙を伺わねばならないのだ。


 だが、現状では無理だろう。今、セヴェリ川の対岸には完全武装の軍団兵がパッと見ただけで二個百人隊ケントゥリア以上はいるだろう。それが二個十人隊コントゥベルニウムぐらいの小集団に分かれ、二十~三十ピルム(約三十七~五十六メートル)ほどの間隔を開けて散開し、こちらの方を警戒している。

 野火を囲んでいる連中を合わせれば三個百人隊以上にはなるはずだし、まだ刈られていない草の向こう側にはほかにも隠れているかもしれない。


 いずれにせよ、想像以上に厳重な警戒態勢が敷かれていると言って良かった。あんなところにダイアウルフを放つことなんて、とてもじゃないが出来ない。敵の警戒網は広く薄いが、ここからアイゼンファウストまでは幅百ピルム(約百八十五メートル)はあるセヴェリ川が横たわっているのだ。いかなダイアウルフと言えども、連中の目の前で気づかれることなくセヴェリ川を渡ることなど出来るはずもない。人が歩いて渡れるほど浅いとは言っても、ダイアウルフが全速で駆け抜けることができるほど浅いわけもないのだ。

 今、ダイアウルフを放てば間違いなく見つかるだろうし、川を渡りきる前に鉄砲に弾を込めて射撃体勢を整えられてしまうのは疑いようがない。


「しかし、ディンキジク様も気楽に言ってくれる。

 こんなの出来っこないぞ…」


「夜まで待った方が良いんじゃないか、隊長?」


 ドナートがうっかり弱音を吐くと、ドナートの隣で対岸の様子を見ているディンクルがつまらなそうにぼやいた。


「そうだなぁ……いや、待て、アイツら灯りを用意してないか!?」


 河川敷の草の向こうから何人かの軍団兵たちが薪の束を抱えて現われ、河川敷に等間隔に積み上げ始める。


「ああ…ありゃ焚火か…いや、アッチ!ありゃ篝火かがりびだぜ!?」


「まさか奴ら夜通し見張るつもりか?」


 まだ明るいので火を付けるところまではしていないが、確かに焚火や篝火の用意をしているようだ。それもかなり広い範囲で。


「まずいぜ隊長、いくら何でもこれじゃ無理ってもんだ。」


「クソっ、遠吠え一つであれか?」


 ダイアウルフなど恐れるに足らぬってのはコレの事か?


 ドナートはディンキジクから聞いた話を思い出し、アルトリウシアのレーマ人たちが何でそこまで自信を持っているかを思い知った。

 イェルナクが聞いてきた話によれば、アルトリウシアの街は甚大な被害を被って軍団レギオーまでも動員して復旧復興に全力を傾けている。兵力はアンブースティア、海軍基地城下町カナバエ・カストルム・ナヴァリア、アイゼンファウストといった地域に分散されていて、大規模な軍事作戦など取れない筈だった。

 だがどうだ、今見えているのはアイゼンファウストの河川敷の草を刈られている四半マイル(約四百六十三メートル)にも満たない範囲だが、二個百人隊を配置して有効な警戒線を構築している。


「あの警戒態勢…あそこだけなのかな?

 そもそも、いつからアレをやってる?」


「さあ…多分、最初に遠吠えを聞かれてからだと思うけど」


 あれが警戒部隊なら後方には相応の戦力を有する即応部隊が控えているはずだ。まだ草の刈られていない範囲に軍団兵は配置されていないようだが、単に見えないだけで藪の向こう側で防衛線を構築している可能性は低くはないだろう。本来なら藪のこちら側に警戒部隊を展開すべきだが、藪が濃すぎて人間が突破できないのだとしたら、前線の警戒部隊と後方の即応部隊とが分断されるのを避けるために、あえて藪のこちら側に軍団兵を展開するのを諦めているのかもしれない。つまり、藪を抜けたら罠が待ち構えているというわけだ。


「あいつら何だって河川敷の草なんか刈ってやがるんだ?

 アレさえ無けりゃ…」


「防衛線を敷くためだろう。」


 面倒くさそうに愚痴るディンクルの疑問にドナートは馬鹿正直に答える。


「防衛線?

 藪があった方が守りやすいんじゃないのか?

 アルトリウシア平野から軍勢が攻めてくるっていうなら、藪は障害物になるだろ?」


「藪は障害物になるが、それは守り手にとっても同じだ。

 藪があると敵の姿が見えないし、鉄砲や大砲を撃つのに邪魔になる。

 攻めてくる敵に対して十分な数の鉄砲や大砲を用意できるのなら、藪に頼らずに火力に頼った方がいいのさ。」


 実際、マニウス要塞カストルム・マニなどもそうだが、レーマ軍では防衛陣地の防御火力圏内の草木はもちろん岩なども可能な限り除去することにしていた。

 ドナートのこの答えが意外だったのか、ディンクルは驚きの声をあげた。


「俺らぁ障害物に隠れながら鉄砲撃てって教わったぜ、隊長!?」


「それは俺らが小勢だからだ。敵の火力の方が圧倒してるんなら、隠れながら撃たなきゃこっちが二発目三発目を撃つ間もなく撃ち殺されちまう。

 だが、こっちが火力で圧倒できるなら隠れる意味はあんま無いのさ。」


 ドナートが笑いながら説明すると、ディンクルは面白くなさそうに鼻を鳴らした。ディンクルをはじめハン族のゴブリン兵たちは戦を狩猟の延長線上で考えている。身を隠し、獲物に悟られないように接近して致命的一撃を食らわせるのは狩りの基本だ。ハン族やダイアウルフはこれを集団で行う。気づかれないうちに獲物を囲み、一斉に襲い掛かる。つまり、隠れるのは戦でも狩猟でも基本なのだ。

 対してレーマ軍は陣形を組んで火力で敵を圧倒する。隠れたりせず、盾と陣地で防衛する。それは彼らが狩りが…戦が…下手だからだ。ディンクルたちゴブリン兵は子供のころからそう教えられていた。


「藪の向こうの様子が知りたいな」


 藪の向こうは「湾岸街道」ウィア・シヌスとかいう軍用街道ウィア・ミリタリスが通っているはずだ。ドナートの記憶では街道から河川敷の藪まではさほど距離は空いていない筈。ヤルマリ橋が落ちて不通になっているのであれば街道はおそらく使われていないだろうが、街道を含んだとしても防衛陣地を敷くには気がしないでもない。

 もし、警戒態勢を敷かれているのはあの草を刈った部分だけで、藪の向こう側には何もないとしたら、今回の作戦もやってやれないことはないだろう。


「陽が沈んでから行ってみるか?

 灯りを用意してるのはあのあたりだけみたいだ。

 下流か上流から回り道すりゃ、行けなくはないぜ、隊長?」


「いや、それはダメだ。

 今日は雲が薄いし、もうすぐ満月だ。

 夜はきっと明るいぞ。

 万が一にでも敵に見つかったら、ディンキジク様からお叱りを受ける。」


 ディンクルの提案をドナートはすげなく却下する。

 ドナート自身が行って良いなら夜陰に紛れて潜入し、藪の向こう側がどうなっているか見てくることは出来るだろう。だが、今回はドナートはもちろん、ゴブリン兵は姿を見せることすら禁じられている。いくら何でもダイアウルフだけで潜入させて様子を見させるなんてことが出来るわけもない。


「だけど、このままじゃ何もできないぜ?」


「分かってる。どうにかして隙を見つけないと…」

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