第356話 テルティウスの掣肘
統一歴九十九年五月二日、午後 - トゥーレスタッド/アルトリウシア
アルビオンニア属州のあるアルビオン島の西には広大な
このためアルトリウシアよりすぐ西の海上は沖に行けば行くほど雲が薄くまばらであり、遠く水平線越しに見る空には雲が全くないことも珍しくはない。ゆえに、雲に覆われたアルトリウシアの地より西の海上を見ると、水平線はキラキラと輝いて見えることが多く、特に夕刻近く陽が傾いてくると水平線はまばゆいほどの黄金色の光をアルトリウシアに向かって放つのだ。ゆえに、セーヘイムのブッカ達はこれを
トゥーレ水道の向こうに「黄金の夕日」と呼ぶにはまだ色の薄い輝きを放つ水平線を見ながら『ナグルファル』号がトゥーレスタッドの入り江に入ったとき、入り江には珍しく七隻もの船が停泊していた。二隻はサウマンディウムへ向かう交易船、一隻はアルビオン島東岸のクプファーハーフェンへ向かう交易船であり、どちらも夜中にアルビオン海峡を航行する危険を避けるためトゥーレスタッドで一泊する船だった。他に大南洋で漁業を営む大型の漁船が二隻で、これらも明日の夜明け前に出港し外洋で漁を行って明日の昼にはセーヘイムへ戻る予定。更に一隻はトゥーレ岬に砲台を建設するための建築資材を運んできた
エッケ島からその貨物船で来ていたイェルナクたちは、トゥーレスタッドの浜にいる船乗りや漁師たちを捕まえてはサウマンディウムまで便乗させろと交渉を持ち掛け、その後世間話を装って例の陰謀論を吹聴しているのだった。
しかし、イェルナクはサウマンディウムへ行くにあたり、多くの供回りと共に妻を同行させており、その妻がトゥーレスタッドでの宿泊を嫌がるため夕方ごろになるとエッケ島へ帰り、翌朝再びやってきているという報告がセーヘイムに
しかし、まさかの『ナグルファル』号の登場により、イェルナクはエッケ島へ帰るために貨物船に乗り込むのを少し待つことにした。
「イェルナク様、帰らねぇんですか!?」
「少し待て、帰る前に話をすべき相手が来たようだ。」
乗船を促す部下を黙らせると、イェルナクはササっと自分の身なりを確認して、桟橋へ寄せてくる『ナグルファル』号を向いた。
「これはこれはハン支援軍のイェルナク殿ではありませんか!?
このようなところで何をしておいでかな?」
甲板上から
「これは誰かと思えばウルピウス・ウェントゥス殿ではありませんか!
ご健勝そうで何よりです!
何、サウマンディウムへ便乗させてくれる船を探しておったのですがね。ここの交易船には断られてしまったので、今日はエッケ島へ帰ろうとしておったところなのですよ。」
『ナグルファル』号はまだ桟橋に接舷しておらず、距離はだいぶ離れているため大声を出さなければ届かない。
「サウマンディウムへ?!
いったい何をしに参られる?
イェルナク殿がエッケ島を離れてハン支援軍は大丈夫なのか?」
「ハッハッハッ、ご心配なく。私がサウマンディウムへ行く間くらい、ディンキジク殿が私の分も支えてくれましょう。
私はエッケ島に残るよりも、
「
いよいよ桟橋へ近づいてきた『ナグルファル』号の船上で接舷準備の号令がかかり、あたりはにわかに騒がしくなり始める。通常の櫂走時は舷側に開けられた孔に櫂を通したり、船べりのローロック(櫂を固定する支点となる器具)に固定するなどして櫂を船体から広く伸ばすが、桟橋に着ける際はそれではさすがに邪魔になる。横に広く伸ばした櫂を一度収納し、代わりに櫂よりもずっと短い
そのうち船員が桟橋へ飛び降り、船から投げられた
「さて、ウルピウス・ウェントゥス殿も今は色々とお忙しいはず。
『ナグルファル』号に乗っていったいどこへ参られるのですかな?」
接舷作業があらかた終わりに近づき、喧噪が落ち着き始めたところでイェルナクが会話を再開した。
「私は明日サウマンディウムへ行くのだ。
「応援部隊ですか?」
「その通りだ、サウマンディア伯爵は二個
今、アルトリウシアは復旧復興のために一人でも多く必要としておるのでな。」
二個大隊と聞いてイェルナクの笑みが引きつる。アルトリウシアには既に一個大隊が派遣されていると聞いているし、アルトリウシア平野に放たれたドナートら偵察部隊もサウマンディア軍団の存在を確認している。そこに二個大隊が加われば三個大隊 …さらに
合計、十個大隊…完全充足状態の
ハン支援軍は先月蜂起した時点で一個大隊を若干下回る程度の戦力しか保持していなかった。現在はそこから更に兵力を半減させてしまっている。仮に城塞を攻略するのに十倍の戦力を必要とするという法則を適用するのであれば、現在アルトリウシアに集結しつつある戦力はエッケ島攻略には十分な兵力と言えるだろう。
それだけの兵力が集結することをわざわざ教えるという事は、エッケ島攻略なんかいつでもできるんだぞと脅しているようなものだった。
「おお、出来ることならば我らハン支援軍もその一員に加わり、アルトリウシアの復興とレーマの繁栄のために尽くしたいものです。」
「それはどうやら難しそうだな」
テルティウスは船べりから飛んで桟橋へと降り立った。
「困ったものです。我々も着せられた濡れ衣をどうにかできれば、実際にそれを実行に移して御覧に入れるのですが。疑いが晴れるまではアルトリウシアに不用意に近づけません。」
「濡れ衣と言えば貴公、何やら良からぬ噂を吹聴しておるそうだな?」
「はて、何のことでございましょう?」
「アルビオンニア侯謀反の疑いとか…降臨者がアルトリウシアに匿われているとか?」
イェルナクは悪い冗談でも聞かされたかのように愛想笑いを浮かべた。
「いやいや、アルビオンニア侯謀反などとは私は言った憶えはございませんな。
もしかしたら私の部下が私の知らないところで言ったかもしれませんが。」
「貴公の部下が言ったというのであれば、責任は貴公に在ろう?」
「いかにも!
もちろん調査の上、確認できればその者を罰しましょう。約束しますとも!
このような事はイェルナクも最初から想定済みである。アルビオンニア謀反だのアルトリウシアに降臨者が匿われていると噂されれば彼らは当然困るだろうし、何らかの対処を行ってくるだろう。そしてその対処で一番にやってくることはまずイェルナク自身の口を塞ぐことだ。文句を言って脅してくるに違いない。
だが、そんなものは何でもない。言い逃れの用意はイェルナクも最初から用意してあるのだ。
「それだけではないぞ、イェルナク殿?」
「おや、何か足らないことでもございましたかな?」
「降臨者がアルトリウシアに
想定内の追及である以上、イェルナクは前もって用意してあった答えを並べて言い逃れる。
「さて、それは…私共はあの日見たことは語ったかもしれませんが、匿われていると断言した憶えはありませんな。もしかしたら、話を聞いたものが勘違いしたのかもしれませんが、少なくとも私は
「名誉を汚す汚さぬという問題もそうなのだがな…」
「ほかに何か?」
「その件は既にウァレリウス・サウマンディウス伯爵が調査に当たっておられることは貴公も知っていよう?」
「ええ、この間
「伯爵が正式に調査に当たっておる事件に関係することを吹聴しては、伯爵の調査に支障をきたすことになるだろう。伯爵は貴公らハン支援軍が調査を妨害したと
「妨害だなどとそのような!」
「お忘れかな?
今年のメルクリウス対策の責任者はウァレリウス・サウマンディウス伯爵閣下その人なのだ。フォン・アルビオンニア侯爵夫人でも、我らがアヴァロニウス・アルトリウシウス子爵でもなく…な?」
「・・・・・・・」
「ここで貴公が降臨が起った、降臨者が匿われているなどと吹聴してみよ、それだけで伯爵の顔に泥を塗ることになるとは思われぬか?」
「………な、なるほど…そう言われてみればそういう事になるかもしれませんな」
「私は明朝、ここを発ってサウマンディウムへ向かうのだ。
貴公が今後もそのようなことを繰り返すと言うのであれば、私も不本意ながら伯爵に御報告申し上げねばならんだろう。」
「お、御待ちを!
またそのようなことをおっしゃられては困りますな。
私はただ世間話をしただけなのです。先月のあの事件がハン支援軍の叛乱などという不名誉なものでは決してないと、その疑いを晴らしたい一心でね。
「そうか?
それならば良いのだが…私としても告げ口のようなことはしたくないのでな。」
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