第350話 ルクレティアの旅装

統一歴九十九年五月二日、昼 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 《レアル》古代ローマ建築の流れをくむ伝統的レーマ建築には中庭アトリウムと呼ばれる部屋がある。日本語では「中庭」と訳されるが本質的には居間に近い。表座敷であり、居間であり、また土間でもある。最大の特徴は部屋の天井中央に開けられた天窓コンプルウィウムであろう。屋根はすべてこの天窓に向かって傾斜しており、雨が降ると屋根を伝って雨水が天窓に注ぎ込むようになっている。

 天窓の真下には床に水盤インプルウィウムと呼ばれるプールが設けられている。そこに雨水を受けて貯め、それを生活用水として使うのだ。水盤の周辺は水汲み場を兼ねているので、それ相応に濡れてもよいような石畳やレンガ敷きになっているのだが、その更に外側は時に絨毯が敷かれていたりする場合もあるし、テーブルセットなどが並んでいたりすることもある。

 天窓から差し込む陽光によって、日中ならば屋内でも十分明るい中庭は屋敷ドムスの中でも過ごしやすい場所であり、家族が客人と世間話に興じたりくつろいだりするのに最適なのであった。


 まあ、それは一般的な屋敷の話である。屋敷の規模が大きくなりすぎると、水道を引いたり専用の井戸を設けたりすることも容易になるし、家人の生活の場に水盤を造る必要はなくなってくる。家人がくつろいでいる目の前で使用人や奴隷たちが家事に使う水をバケツで汲み出すというのは、家人にとってあまり好ましいものではない。奴隷や使用人にとっても、家人の目の前で作業をするというのはどこか監視されているようで窮屈に感じるし、家人の目の届かないところで仕事を完結できるならそれに越したことはない。

 このため、ある程度大きな屋敷となると、実用に供するための水盤は家人が普段訪れない場所に別に用意し、家人がくつろぐための中庭には水盤を設けないか、あるいは設けたとしてもそこから生活用水を汲んだりしない、それどころかそこに観賞魚を飼ったりするような、装飾としての水盤を設ける例も出てくるようになる。


 現在リュウイチたちが生活している陣営本部プラエトーリウムは一般の屋敷に比べるとかなり広い。中庭も自然と広くなり、そこに家一軒建てられるくらいの広さがある。

 通常の中庭には無いものだが、中庭が広い分だけ屋根の張り出しも大きくならざるを得ないため、水盤と天窓を囲むように、屋根を支えるための列柱ポルチコが並んでいたりする。

 一応軍事施設であるため、籠城ろうじょうに備える必要から水盤は装飾用ではなく実用性のあるものが設けられてはいるが、同時に屋敷内には井戸があるため水盤の水を普段から生活用水に使うという事はしていない。

 ただ、中庭の規模に合わせて水盤も非常に大きなものになっており、周囲を囲む列柱のせいもあって、見た目は一般人が想像する中庭というより水の神殿とでもいうような、どこか静謐せいひつさを感じさせるような風情ふぜいがあった。


 しかし、いかな静謐な風情も人の存在感があるとたちまち台無しになる。騒々しく声をあげる者があればそれは猶更なおさらであろう。

 今、中庭の静謐な風情を台無しにしている人たちの中心にいたのはルクレティア・スパルタカシアであった。いや、今日からはルクレティア・スパルタカシア・リュウイチアが正式名となっている。

 そのルクレティアがアルビオンニウムへの出発を前に、今回の護衛隊長を務めるセルウィウスと侍女のクロエリアを相手に駄々をこねだしていた。


「いやよ!せっかく戴いたんですもの!」


「ですがルクレティア様、その御召し物はいくらなんでも目立ちすぎます。」


「大丈夫よ!どうせ道中は馬車の中で過ごすのよ!?」


「そうかも知れませんが…」


 ルクレティアの主張はもっともであった。

 今回は陸路を取るため、行きも帰りも馬車である。ルクレティアが愛用している父から譲り受けたクーペではなく、スパルタカシウス家の公式行事用馬車で、四人乗りのキャビンが付いた四頭立ての立派な馬車だ。幌を張れば外から車内の様子など全く見えない。途中の宿泊も宿場町はあえて利用せず、街道上の街と街の間のに点在する中継基地スタティオに強引に宿泊する予定になっていたから、ルクレティアの姿が途中で誰かの目に留まってしまう可能性は極めて低い。


 だが人の目に留まる可能性は低いとはいえ、絶対にないという保証はない。ルクレティアは神官フラーミナという立場上、身に着ける装飾品は立場や役職などに応じて細々と決められている。少しでも変わった宝飾品を付けていれば見る人が見れば即座に異常に気付いてしまうだろうし、何よりもリュウイチから下賜かしされた魔導具マジック・アイテムはいずれも豪華すぎる代物だった。この世界ヴァーチャリアで一般的な宝飾品よりも精巧で品質が素晴らしく、遠目にも人目を惹かざるを得ない輝きを放っている。目ざとい商人や貴族ノビリタスなら決して見逃さないであろう。

 そして何より『聖賢のローブ』ローブ・オブ・セイント『聖なる光の杖』ワンド・オブ・ホーリー・ライトだ。他の魔導具は小さいので衣服で隠すこともできるが、これらはサイズが大きすぎる。『聖なる光の杖』はまだケースか袋に包んで隠せるとしても、ローブはどうにもならない。脱いで畳んで包むしかないのだ。


 しかし、ルクレティアとしてはせっかく貰った聖女サクラの魔導具は身に着けていたい。脱いで別に包んで持ち歩くなど、何のための装備だか分からないではないか。特にローブなんて外出する時に身に着けずに、いったいいつ身に着けると言うのか?


「リュウイチ様の事が公表されればいくらでも人前で着る機会はございます。

 どうかそれまでご辛抱ください。」


「それは駄目よ!リュウイチ様は私の今回のアルビオンニウム行きの為にこれらを御用意してくだすったのよ!?

 今回着ないなんてあり得ないわ!」


 ルクレティアの言い分が分からないわけではないが、周囲の者からしたらたまったものではない。リュウイチの秘匿の為にエルネスティーネやルキウスといった、アルトリウシアでトップの大貴族パトリキはもちろん、数多くの貴族や将兵が少なからぬ犠牲を払っている。特務大隊コホルス・エクシミウス軍団兵レギオナリウスに至っては、まるごと要塞カストルムに軟禁状態にされており、家族や友人と会う事さえままならない状態が続いている。それを自分たちのせいで水泡に帰しては、責任の取りようがないのだ。


『何だい?どうかしたのかい?』


 着る着ないの押し問答が続いたところへ、奥からリュウイチが姿を現せた。ルクレティアの護衛に就けられることになった奴隷のリウィウスが気を利かせ、同じく護衛として同行することになったカルスにリュウイチを呼び出させたのだった。


「ああ、リュウイチ様!?」


 ルクレティアは不味いところを見られたと焦り、他の者たちは一斉に跪く。それに気づき、一歩遅れてルクレティアも跪いた。


『何かあったの?』


旦那様ドミヌス、アッシからご説明申し上げやす」


 全員がかしこまってる中、リュウイチを呼び出した張本人であるリウィウスが簡潔に事情を説明した。


『そうなのかい?』


「は、はい…その、お騒がせして申し訳ありません。」


 ルクレティアは跪き顔を伏せたまま申し訳なさそうに言った。


『うーん…たしかに目立つのは不味いねぇ…』


 リュウイチが頭をボリボリ掻きながらそう言うとルクレティアはパッと顔を上げリュウイチを見る。その目は何か救いを求める様であったが、数秒リュウイチを震える瞳で見つめた後、無言のまま残念そうに顔を伏せた。


「旦那様、奥方様ドミナのお気持ちも分かりやす。

 リュキスカ様はティトゥス要塞カストルム・ティティへ行かれる時、旦那様からいただいた外套パエヌラまとってらっしゃいやした。」


 リュウイチがルクレティアに脱ぐように言おうと思った矢先、リウィウスがそう発言し決断を鈍らせた。確かにリュキスカは魔導具ではなかったとはいえ聖遺物アイテムを纏って出かけることを許しておきながら、ルクレティアには認めないとなると二人の聖女の扱いに差をつけることになってしまう。


『え、ああ…うん?』


 リウィウスの発言を受けて一度は決めていたらしい判断をリュウイチがあからさまに鈍らせると、周囲の全員がリウィウスを見た。


 こいつはどっちの味方なんだ!?


 てっきりリュウイチに着るなと言わせることでルクレティアに諦めさせるつもりだろうと全員が思っていた。ところが、肝心のところでリウィウスはリュウイチの発言を思いとどまらせてしまう。


 ルクレティアの事を「奥方様ドミナ」と呼んでたし、まさかここにきてルクレティアに肩入れして取り入ろうというのか!?


「旦那様、ここはひとつ奥方様にもアッシらに下すったこのポーチマルスーピウムと同じ物を使わしてやっちゃいただけねぇでしょうか?」


『ポーチ?』


「へぇ、コイツで」


 リウィウスは腰に付けているリュウイチから貰ったマジック・ポーチマギグム・マルスーピウムを、上体を反らせ見せつけるようにポンポンと手で叩いた。


『それ?』


「へぇ、これなら見た目より結構入りやすんで、旦那様から戴いたローブパエヌラも入れて運べやす。これならイザという時、いつでも自分で出してすぐに着れやすから、脱いで誰かに預けるよりずっとマシな筈で…」


 リウィウスはニッコリと笑いながらそう言った。彼のポーチが口を通り抜けるものなら何でも四十八品目、合計四千七百五十二個まで入る魔導具だと知っているのはリュウイチの奴隷たちだけである。実を言うとリュウイチ自身は普通のポーチだと思って渡していた。


『そ、そうか?

 ま、まあそう言うなら試してみてもいいか…』


 大きさ的には確かに小さく畳めば入らないこともなさそうに見えなくもない。いや、かなり苦しいだろう。リュウイチは半信半疑ながらポーチを取り出し、ルクレティアに渡した。

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