第341話 できなかった決断
統一歴九十九年五月一日、昼 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア
リュウイチとルキウスの待つ
そして、男尊女卑が普通の社会で一度結婚してしまった女の運命は決まっている。第一の任務は子を産み育てること…そして夫を支え、夫に尽くし、家に尽くす。自由と呼べるようなものはさほど多くない。
貴族の妻ともなれば、そりゃあ一般庶民の妻と違って家事に忙殺されることもないので、空いた時間は読書に音楽に芸術に観劇に園芸にと趣味に没頭することができないわけではない。夫の財力次第ではあるが、遊び
貴族の女は衣食住の心配もなく、きれいに着飾って美しく歌うが、言ってみれば鳥籠の中の鳥そのものなのである。
そうした運命の現実から目を逸らすために、あるいはせめて
地方豪族の娘に過ぎなかったリディアは降臨者スパルタカスに
だが、聖女は降臨者から
しかし、そんなものは現実ではない。
ルクレティアも降臨者スパルタカスと聖女リディアの
だからルクレティアもいずれは他の貴族の女たちと同様、裏で夫を支え、夫に尽くし、子を産み育てるだけの人生を送るのだ…そしてその夫は愛することができる相手とは限らない。いくら聖女になりたいと願っても降臨だって百年以上起きていない。むしろ起こしてはならないとされている。
だが奇跡は起きた!リュウイチという降臨者が今、ルクレティアの目の前に居るのだ。聖女になりたい!聖女リディアの様になりたい!!そう思い続けた少女ルクレティアの夢をかなえる存在が現れたのだ。しかも、降臨者の世話をすべき神官はルクレティアを置いて他にないという状況で…これはもう運命としか言いようがない。ほかに降臨者のお世話をできる人材がいないのだから、ルクレティアが巫女として勤めるのは絶対の必然…ならば、ならば聖女にだってなれるはず。
そう舞い上がっていたルクレティアはその後運命に
一向に手を出してくれないリュウイチ、そしてリュウイチはリュキスカと言う別の女を連れてきて手を付けてしまった。更に十八に満たない女には手を出せないと、ルクレティアにはどうしようもない条件まで突きつけられてしまったのだ。
何もない状態からいきなり奪われるよりも、わざわざ希望を見せておいてから奪われる方がよほど残酷である。
その後、ルクレティアが十八になったら聖女として迎えるという約束はしてもらえたが、ルクレティアの気持ちは晴れないままだった。もちろん、約束してもらえたことはうれしい。彼女自身、一度は涙を流して喜んだほどだ。だが、リュキスカと言う別の女が今もリュウイチの傍にいるのだ。
彼女はルクレティアが聖女になれるように協力すると言ってくれているが、彼女はルクレティアからすれば“勝者”だ。ルクレティアが受けていないリュウイチの寵愛を独占しているその人なのである。その言葉を素直に信じて受け入れ、安心して待つことができるほどルクレティアは能天気でもお人好しでもない。リュキスカに対する嫉妬はどうしたって抑えきれないし、ルクレティアが何もできないまま待っている間もリュキスカはリュウイチの寵愛を受け続けるのだ。現にリュキスカは早くも魔力を得て聖女になってしまったではないか。しかも、日ごとに魔力が強くなっているのが感じられるのである!
聖女という地位も名誉も称号も奪われてしまった…そういう感覚は、理性では理不尽だと理解していても、心の中に払拭しきれないまま渦巻いている。そしてルクレティアはそんな、今まで思ってもみなかった自分のドス黒い感情に気付き、戸惑ってもいたし嫌悪もしていた。
そこへ昨日のリュウイチの
聖女として迎えるという証に…そう差し出された魔導具はどれもこれもが信じられないような逸品ばかりだった。伝説の中に登場する宝物そのものである。確かにそれは聖女にふさわしい品々であり、それら魔導具の力を使えばルクレティアでも聖女のように振舞うことは出来るだろう。
ルクレティアの心は大きく動いた。激しく動揺した。
だが受け取って良い物では決してない。十六歳に満たないルクレティアは聖女どころか巫女にすら本来はなれないのだ。リュウイチから手だって出してもらえてないのに聖女を気取って魔導具を受け取って言い訳が無い。
ましてルクレティアは貴族なのである。それは大協約に反する。大協約に反するという事は、世界に反することなのだ。
理性では分かっている。だが、受け取りさえすればたとえリュウイチに手を出してもらえなかったとしても聖女になれる。あれだけ成りたいと願った聖女に!
ルクレティアは理性を総動員して辞退した。
だが『将来聖女に迎える証として』と言われ一層断りづらくなる。それは言わば婚礼の贈り物。婚約指輪のようなものだ。それを断るということは、縁談そのものを断るのに等しい。つまり、聖女になるつもりはないと意思表明してしまうことに他ならない。
ルクレティアは決断を迫られたのだ。あれだけ成りたかった聖女を諦めるか、それとも世界を敵に回して聖女になるか。
選べるわけがなかった。聖女を自ら諦めることなど出来ないし、かといって世界を敵に回してしまっては聖女たりえない。選択不能な究極の二択を突きつけ、お前は聖女には絶対になれない…そう宣告されているようなものだ。リュウイチが決してそういうつもりでないことは分かっている。だが、そうであるからこそルクレティアは余計に混乱した。
結局、ヴァナディーズの取りなしで翌日来るはずのルキウスに選択を任せることで一旦保留となった。
ルクレティアは究極の選択から解放はされたが、心が安らぐことはなかった。昨夜は辛うじて表面上の平静を保ってはいたが、心は掻き乱されたままだった。食後にリュウイチの前を辞し、自分の
おかげで今朝、ルクレティアは酷い顔だった。
リュキスカの訓練の間もずっと落ち着きを取り戻せていなかった。
その苦しみもようやく終わろうとしている。
いや、終わるんだろうか?
少なくとも答えは出るだろう。選択は下されるはずだ。だが、その後は別の苦しみが続くのではないだろうか?
受け取らないという決定が下され、そこから聖女に迎えるという約束が
でも受け取るなんて返事ができるわけもない。ルキウスが受け取ると決断を下す可能性は低い…いや、常識的に考えてあり得ない。
リュウイチとルキウスの前に現れたルクレティアは、ほぼ確定している死刑判決が下るのを待つ犯罪容疑者のようにやつれ切っていた。
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