第339話 リュキスカの根回し

統一歴九十九年五月一日、昼 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



「何やってるの?」


 魔力制御の訓練を終え、暗く締め切った食堂トリクリニウムから出たとたん庭園ペリスティリウムの向こう側に向かって親指を突き立てサムズアップているリュキスカの様子にルクレティアが首をかしげる。

 リュキスカは応接室タブリヌムの近くに立っている奴隷セルウスのリウィウスから首尾よくルキウスとリュウイチの会談が上手くいったとサインを受け、それに応えていたのだが、思わぬ方向からルクレティアに唐突に声をかけられて驚いた。


「えっ!? あ、いやぁ…何でもないよ!?

 挨拶さ! 挨拶。」


「そう?」


 偶然だったが、ルクレティアのいる位置からはリウィウスの姿はちょうど庭園ペリスティリウム中央の噴水の陰に隠れていた。


「そういや、今日もルキウス子爵閣下がお見えになるんだろ?

 アルビオンニウム行きの説明とか何とか……?」


「え、ええ……そうね……」


 アルビオンニウムへ行きたくないルクレティアとしては気持ちは複雑だ。聖女サクラになりたいと幼いころから憧れ続け、今リュウイチの降臨によってその夢が叶おうとしている。しかし、リュウイチはルクレティアの若すぎる年齢を理由に距離を取ろうとしていて、しかもリュキスカという別の女性を連れてきてしまった。

 あと半年(ルクレティアの誕生日は十一月三十日なので、より正確にはほぼ七か月)で成人を迎えるというのに待ってもらえなかった……いや、誕生日を待ってほしいと言う方が身勝手なのは承知しているが、悔しさはいかんともしがたい。そして十八に満たない女性には手を出せないとリュウイチが言ったことから、ルクレティアは思いっきり突き放されたような気持ちになっていた。たった半月の間に別の女性が現れたのに、更に二年も手を出してもらえないとしたら、一体何人のライバルが現れるのだろうか?

 目の前にリュウイチという降臨者が現れているからこそ、焦燥感しょうそうかんは否応もなくつのり続ける。いくら十八歳になるのを待って聖女として受け入れると約束して貰えているとしても、その間リュキスカ以外の女性が寄ってくることは避けようが無いのだ。

 憧れ続けた聖女になる夢は、目の前に突然姿を現しておきながら遠く手の届かない所へ立ち去ろうとしている……そんな感覚がルクレティアの心の中で渦巻いている。


 そこへ昨夜、リュウイチから「聖女として迎える証」として、魔導具マジック・アイテムが贈られた。目の前から消え去ろうとしていた聖女の夢は、今再び向こうから手の届くところへ近づいてきたのだ。それを身に付けさえすれば、実際にリュウイチのを受けずとも聖女と同じ力を振るうことが出来る。つまり、聖女になるという夢が実現するのだ。


 だが、ルクレティアは上級貴族パトリキである。聖貴族コンセクラータである。女神官フラーミナである。大協約を順守し、世界の発展と世の安寧あんねいに資することを求められる存在である。その期待を裏切っては、いくら力だけは聖女のものを手に入れようとも、聖女たりえない。ルクレティアは昨夜からずっと葛藤かっとうに苦しみ続けていた。


「じゃあ、いよいよリュウイチ様の魔導具マジック・アイテム聖女サクラとしてのお勤めだねぇ?」


「よして、リュキスカさん!」


 心を掻き乱され、ルクレティアは思わず大きな声をあげてしまう。リュキスカは驚いて思わず目を丸くしてしまった。


「アルビオンニウムへ行くのは女神官フラーミナとしての仕事で聖女サクラとしての仕事じゃないわ。

 だいたい、魔導具マジック・アイテムだってホントに受け取れるわけじゃないんだし……ご、ごめんなさい。大きい声を出して…」


 アフッ……アッ……アァーーーーーーーッ、アァーーーーッ


 訓練を終えたリュキスカに預かっていた赤ん坊を返そうと、オトが赤ん坊を抱いて近くまで来ていたのだが、どうやらルクレティアの声に驚いたらしく泣き出してしまった。愛する息子の泣き声に気付いたリュキスカが振り向き、オトから赤ん坊を受け取りあやし始める。


「あぁーあぁー、ビックリしたねぇフェリキシムスぅ~。

 大丈夫だよぉ、ホラ、母ちゃんだよぉ?フェリキシムスぅ~

 ありがとよオトさん、もう大丈夫だよ」


「はい、じゃあ失礼します奥方様ドミナ


 オトにいつも通り休憩を与えてリュキスカは赤ん坊をあやし始める。

 身体全体を揺するようにしながら赤ん坊をあやすリュキスカの背中に、ルクレティアは何と声をかけるべきか言葉が見つからず、気まずい思いから一人胸元で手を握りしめた。


「大丈夫だよぉ~ルクレティア様ぁ」


 俯くルクレティアがリュキスカの声に顔を上げると、リュキスカは赤ん坊をあやしながらルクレティアの方を向いて微笑みかけていた。


「?」


「大丈夫、上手くいくって♪」


 リュキスカがそう言ってニッと笑ったが、ルクレティアはリュキスカが何を言いたいのか分からなかった。


「あら、ルクレティア」


 ルクレティアがリュキスカに問いかけようとしたとき、ちょうど背後から声を掛けられる。振り向けばそこに居たのはヴァナディーズで、ちょうどカールの寝室クビクルムから出てきたところだったようだ。


「ああ、ヴァナディーズ先生。

 そちらの授業も終わられたのですか?」


「ええ、今ちょうどね。

 どうかしら、もうルキウス子爵閣下御出おいでかしら?」


 ルクレティアのアルビオンニウム行きにはヴァナディーズも同行することになっており、今日のアルビオンニウム行きの説明はヴァナディーズも一緒に聞くことになっていた。

 ヴァナディーズはアルビオンニア各地の神殿や降臨の痕跡を調査するためにムセイオンから来ている身なので、仮にルクレティアが行かないことになったとしても、ルクレティアの代わりに派遣されるであろう神官フラメンに同行してアルビオンニウムへ行くことになるので、いつも以上に積極的なのだ。


「あ、ええ、多分もう……」


 朝すぐにティトゥス要塞カストルム・ティティを馬車で出たならとっくに着いていなければおかしいくらいの時間だが、ルクレティアもさっきまでリュキスカの訓練に付き合っていたところなのでまだ何も知らされていなかった。

 周囲を見回すとリュウイチの奴隷の一人リウィウスが列柱回廊ペリスタイルを小走りで来るのが見えた。先ほどまで彼が居た場所からなら庭園ペリスティリウムを横切ってくるのが早いのだが、庭園は本来屋敷ドムスの主人やその家族のためのいこいの場であるため、庭園の手入れをする時や庭園に主人が居るなど、庭園に直接用があるとき以外は使用人や奴隷は立ち入ってはならないことになっているので、わざわざ周回してきたのだ。


「失礼しやす! ルクレティア様、ヴァナディーズ様、子爵閣下ウィケコメスがお見えで、リュウイチ様と共に向かいの応接室タブリヌムでお待ちでごぜぇやす」


 ヴァナディーズはルクレティア越しにリュキスカの方をチラっと見、リュキスカが赤ん坊を抱きながら親指を立ててニッと笑うのを確認するとルクレティアと顔を見合わせた。そしてリウィウスに問いかける。


「リュウイチ様はもう子爵閣下ウィケコメスとお会いになられているのね?」


「へぃ、和やかに御歓談中でごぜぇやす」


「じゃあ、行きましょうか、ルクレティア?」


「はい、ヴァナディーズ先生」


「ご案内いたしやす」


「いえ、それよりコレを私の部屋へ運んでおいていただけるかしら?」


 ヴァナディーズはリウィウスにカールに勉強を教える際に使った本や文房具などを預け、「行きましょ」と一言言ってルクレティアと共に応接室へ向かった。

 「お安い御用で」と受け取った勉強道具を小脇に抱えたリウィウスは二人を見送りながらリュキスカの方へ近づく。


「どうだったんだい?」


 リュキスカは身を少し屈めてリウィウスの顔の高さに合わせ、小声で問いかけると、リウィウスは再び親指を突き立ててニッと笑った。


「バッチリでさぁ……あの様子なら多分子爵閣下ウィケコメスも御認めくださりやす。」


 リウィウスがリュキスカに合わせて小声で答えると、リュキスカは満足気な笑みを浮かべてスッと姿勢を戻し、今度は普通の世間話をするような声で話し始める。


「そうかい、良かったよ。やっぱいきなり言われるよりは事前に知らされてた方が良いだろうからねぇ、昨夜ゆうべヴァナディーズ学士先生に相談して手紙書いてもらって正解だったよ。」


「手紙読んだ閣下ぁさすがにおどれぇておられたが、読み終わって直ぐにもう『しょうがねぇか』ってぇ雰囲気でやした。旦那様ドミヌスとお会いになられてからも、落ち着いた御様子で…」


「さすがぁ学士様だよ。アタイみたいな無学なんが全然知んないような難しい言葉がポンポン出てきてさぁ。しかも書きあがってみたらまるで詩みたいなんだもん。たまげちゃったよ」


「そりゃあ勉学っつったら言葉の使い方が一番大事でぇじだってぇ聞きやすしねぇ。それより奥方様ドミヌスぁ、詩ぃなんてご存じなんで?」


 修辞学レトリックはレーマでも《レアル》古代ローマと同様に最も重要とされる学問とされている。おおよそ学位を持っている者ならば、修めていて当然とされていた。


「バカにおしで無いよ!?

 アタイだって演劇くらい見たことあんだ。あの演劇で役者が喋ってるのって、あれ全部詩なんだろ?」


 リュキスカのその言い様にリウィウスは驚いて目を丸め、次いで顔を伏せて笑いをかみ殺す。だがリュキスカはリウィウスが目を丸めたところで胸に抱いた赤ん坊を覗き込んでいたので、それには気づかなかった。


「凄いよねぇ、アタイの子も勉学積めばあんな風にしゃべれるようになんのかねぇ?」


「ふへっ、へっ、へっ…そりゃ心配しんぺぇありますめぇ。

 奥方様ドミナぁもう聖女サクラで立派な聖貴族様コンセクラータだ。その御子となりゃ、家庭教師の成り手なんざ引く手あまたでさぁ」


 ここでリュキスカは初めてリウィウスが笑いをこらえているのに気づいた。


「んん?何笑ってんだい?

 ひょっとしてアタイのこと揶揄からかってバカにしてないかい?」


「とんでもねぇ! さっ、仕事仕事っと」


 リュキスカに怒られないようリウィウスは仕事へ逃げ始め、リュキスカは赤ん坊をあやしながらそれを追いかける。


「あ、チョイと! じゃあさっき何で笑ってたのさぁ!?」


「気にするこたぁねぇですよ」

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