第337話 予期せぬ混乱

統一歴九十九年五月一日、午前 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 昨日は「雨の日」だった。一年を通して曇りの日が多く、晴れる日が雨が降る日よりずっと少ないアルトリウシアの気候だが、意外なことに丸一日雨が降り続ける日はそれほど多くない。そういう日をアルトリウシアでは「雨の日」と呼んでいる。サァーっと半時間ほど雨が降るだけの日や、降ったり止んだりを繰り返す日は「雨の日」とは呼ばない。それは「普通の日」だからだ。


 昨日来、明け方近くまで降り続いた雨は今はもう止んでいる。朝日が雲間から覗くほどではないにしても、薄い雲越しに太陽が輝いて見える程度には天候の回復した薄い曇り空の下、石畳の街道では少しずつ路面の水気が抜けて、石の表面も乾いた明るい色に化粧を直しつつあった。

 その、せっかくお色直しを終えようとしていた石畳の上を、蹄の音も高らかに馬車が無遠慮に駆け抜け、水たまりで濡れた車輪の跡を残していく。最小限の衛兵隊に囲まれたその馬車は子爵家の物であり、座乗するのはアルトリウシア領主ルキウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵その人だった。


 馬車とその護衛たちはマニウス要塞カストルム・マニ要塞正門ポルタ・プラエトーリアを抜けると中央通りウィア・プラエトーリアを突っ切り、要塞司令部プリンキピアの前で止まらずにそのまま右に折れ、司令部通りウィア・プリンキピアに沿って裏へ回っていく。

 その先はマニウス要塞に収容されている避難民たちはもちろん、軍団兵レギオナリウスたちでさえ立ち入りが厳しく制限されているエリアであり、リュウイチたちが暮らしている陣営本部プラエトーリウムがある。

 “空き家”になっているはずの陣営本部は現在、名目上ルキウスがマニウス要塞で陣頭指揮を執る際の休憩施設として、同時にアロイスの下で軍団レギオー運用の実務について師事するカールの滞在施設として使われていることになっていた。

 このため、貴族ノビリタスの馬車が要塞司令部の前で止まらずにそのまま裏へ回っていくことについて、それを目にする人々が疑問を抱くことは既になくなっており、今や日常の風景の一つと化してしまっている。


子爵閣下ウィケコメス、おはようごぜえます」


 馬車から降り立ったルキウスを正面玄関オスティウムで出迎えたのは、リュウイチの奴隷セルウスの一人だった。上級貴族パトリキであるルキウスの正面に立ちはだかることはしないが、脇に立ちつつもそのままでは邪魔になる絶妙な位置で御辞儀をするその奴隷の前で、ルキウスは立ち止まった。


「ああ?お前は確かリュウイチ様の?」


「へい、リュウイチ様の奴隷でリウィウスと申しやす。

 リュキスカ様より言伝ことづてを預かってめえりやした」


「リュキスカ様から? 私にか?」


「へい、今日こっからここで誰かにお会いになるめえにお読みいただきてえと……こちらでごぜえやす」


 リウィウスは腰に付けた革のポーチから筒状に巻かれた手紙を取り出し、ルキウスに差し出した。


「これを、リュキスカ様が?」


 ルキウスは訝しみながらも手紙を受け取り、手に持っていた杖を小脇に挟んで両手で手が身を広げる。


「書いたのぁヴァナディーズ様でごぜぇやす。

 昨夜ゆんべの事が書かれてやして、アッシらの口からご説明申し上げるより、ひとまずお読みいただいた方がご理解が早えかと存じやす」


「なっ…なっ…これは本当か!?」


 ルキウスは手紙を読み進めるうちに身を震わせ始める。


「手紙の中身はアッシぁ読んでねぇんで存じやせんが、リュキスカ様もルクレティア様もヴァナディーズ様も今取り込み中ですんで、ご質問がごぜぇましたらアッシがお答えするよう仰せつかっておりやす」


「どこかで、話を聞いた方がよさそうだな?」


「へい、では空いてる応接室タブリヌムへご案内申し上げやす」


 手紙には昨夜、リュウイチがルクレティアに魔導具マジック・アイテムをいくつか授けようとした事。ルクレティアは断ろうとしたが断り切れず、ルキウスらの承諾を得られたら受け取るという条件を提示して保留してもらっている事。そしてリュウイチがルクレティアに渡そうとした魔導具についての詳細が記されていた。


 そこに書かれた魔導具はいずれも強力極まりない物ばかりであった。いにしえゲイマーガメルたちが身に着けていたものと何ら遜色ない、いや、いくつかはゲイマーの装備品その物というものまで含まれている。ムセイオンに収蔵されているという伝説の聖遺物アイテムの目録にあるものと、同じ品名もあるのだ。


「それで、リュウイチ様はルクレティアを聖女サクラとする、その証としてこれらの魔導具を下賜かしされるとおっしゃられたわけだな?」


 リウィウスに案内された応接室で椅子に腰かけ、手紙をテーブルに投げ出すと、ルキウスは杖を持っていない方の手で頭を抱えた。


「へぃ、ルクレティア様は旦那様ドミヌス聖女サクラ…なら、何を持たせても問題はあるめぇとおぼしめされてごぜぇやす。

 アッシら奴隷セルウス聖遺物アイテムを身に着けとるのなら、聖女サクラであらせられるルクレティア様も相応のもんを持つべきだと…」


 リウィウスは少し胸を張り、両手で着ている鎧下イァックや腰に下げたポーチや短剣プギオをさすりながら言った。それらはいずれもリュウイチから下賜された聖遺物であり、魔導具ではないがこの世界ヴァーチャリアの基準で言えば世界レベルでの宝物と言われてもおかしくない逸品である。いや、ポーチだけは魔導具なので、それ以上と言っていいだろう。


 ルキウスは目の前で立ったまま事情を説明するリウィウスの姿を、頭を抱えたまま藪睨みに見ながらため息をついた。


「理屈ではそうだが…うーん…」


「ルクレティア様もリュキスカ様もヴァナディーズ様も、誰もどうしたらええか分からんで困っておられやす。

 特にルクレティア様ぁ御自分がいよいよ聖女サクラと認められたと大層なお喜びようで、だけンどそんな魔導具マジック・アイテムなんぞ軽々しく貰うわけにもいくめぇってぇ事もございやして、板挟みになっちまって普通じゃ無くなってる感じで…」


「…そうだろうな。ルクレティア様は未だよわい十五の乙女でいらっしゃる。まして幼少のころから聖女サクラにあこがれ続けておられたのだ」


 ここ数日の舞い上がりようからして既に十分普通ではなかったのに…という言葉をルキウスは飲み込んだ。上体を起こし、正面に杖を立てると頭を抱えていた手をその杖の上に置き、テーブルに広げた手紙を読むでもなく背を反らせたまま眺める。


 ルクレティアは受け取りたいはずだ。受け取って身に付ければ、それだけで聖女として自他ともに認める存在になることが出来るだろう。これほどの装備だ。身につけた者が降臨者ではなく、ただのヴァーチャリア人だったとしても絶大な力を発揮できるようになるに違いない。

 だが、同時にルクレティアは没落したとはいえ上級貴族の家に生まれ、聖貴族コンセクラータとしての教育を受けてきた娘だ。先祖から続く高貴な血を遺す。そのためには己の心も殺す…貴族の娘はそういう教育を受けており、ルクレティアも例外ではない。その彼女がこの世界における大協約が持つ意味と重要性を知らぬわけがない。


「そりゃ、葛藤かっとうはするだろうな…」


 ルキウスは深くため息をついた。正直言って同情する気持ちは強い。

 幼少のころから英雄譚に語り継がれる聖女にあこがれ、スパルタカシアではなくルクレティアと呼ばれることを好んだのは、政略結婚の駒として好きでもない相手と結婚し高貴な血を遺すことだけを求められる…そんな貴族の娘の運命に対する反抗だったのだろう。

 兄のとして産み落とされ、兄のとして育てられ、十分な愛を受けることも自由に生きることも許されなかった過去を持つルキウスは、高貴な家柄に生まれながら奔放ほんぽうに生きたがるルクレティアの気持ちを少しは分かるつもりでいる。


「ルクレティア様をお救いできるのぁ子爵閣下ウィケコメスだけでごぜぇやす。

 今日、これからルクレティア様にお会いになるめえに、事情は知っといた方がよろしかろうって、リュキスカ様とヴァナディーズ様がこのお手紙をアッシに…」


 リウィウスはルキウスに縋るように言った。まあ、周囲から見て心配してしまいたくなるほどルクレティアの様子は尋常ではないのだろう。

 ルキウスは意を決すると、手に持った杖でトンと床を突いた。


「うむ、よく知らせてくれた。

 だが、ルクレティアに会う前にリュウイチ様の御意向をおうかがいせねばならん」


「へぇ、ルクレティア様ぁ今リュキスカ様と魔力を操る特訓で部屋にこもっておられやす。今日の昼まで、リュキスカ様がお引止めくださるとのこって…リュウイチ様にはすぐにお会いになれやす」

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