第335話 隠される贅沢

統一歴九十九年四月三十一日、夕 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア



 空を一面厚い雲に覆われたままなので特に風景の色合いが変わるということもなく、ただ暗くなっていくだけの今日の夕方。時刻はとっくに夕食ケーナの時間だが、陣営本部プラエトーリウム食堂トリクリニウムにカールの姿はなかった。

 午後のトレーニング(回廊ペリスタイルを壁伝いに歩くだけ)でヘトヘトになって汗をかいたカールは、風呂場バルネウムでさっぱりしはしたものの、湯当たり寸前のヘロヘロ状態だったところでリュウイチのゴーレムを目の当たりにし、興奮しすぎてダウン…侍女たちに担がれて寝室クビクルムで寝かせられていた。今頃、ベッドで寝たまま、急遽用意してもらったキノコ入りミルク粥ミルヒブライを食べさせてもらっている事だろう。


 カールが極度の興奮で失神する原因となったマッド・ゴーレムの姿は既になく、元の庭園ペリスティリウムの花壇に戻っている。普段、庭園の手入れをしている庭師たちが見たら、花の位置が変わっていることには気づくかもしれないが、まさかここでゴーレムが現れたとは思いもしないだろう。

 マッド・ゴーレムを見て一時は騒然とした人々も今は落ち着きを取り戻し、日常の生活に戻っていた。


 カールはダウンして寝室、アロイスも早馬で急用が出来て遅くなるとか知らせてきていたため、今日はリュウイチ、ルクレティア、リュキスカ、ヴァナディーズの四人での夕食となっていた。


 特にもてなすべき来客がいない時はなるべく質素にというリュウイチの希望もあって、今日のメニューは随分と控えめになっていた。とはいってもエルネスティーネやルキウスを始めとする貴族ノビリタスから豪華な食材が送られて来てはいるので、それらを無駄にするわけにもいかず、“控えめ”というのはあくまでも“これまでに比べて”という比較の話であって、アルトリウシアの庶民が見たら「何て贅沢な御馳走なんだ」と仰天することは請け合いである。


 前菜に詰め物をしたヤマネ(ネズミのような小動物)のロースト、炊き上げエンドウ豆、アスパラガスのパティナ、スープは贅沢にチーズをたっぷりと使ったカルタゴ風スープポエヌス・プルメンティ。クルミ入りの発酵パン、オンクリンクスという鮭に似た魚のハーブ煮、ラサヌムと呼ばれるラザニアに煮た料理、鳩のロースト、デザートはテュロダリウムと呼ばれるカスタードプリンに近い御菓子。


 この中で平民プレブスがちょっと背伸びして食べるのがクルミ入り発酵パンとスーププルメンティぐらいなものだろうか。他はまず手は出ないだろう。あるいは料理そのものは食べることは出来ても、ここで使われている具材に手の届かない物があったりするので、全く同じものは到底手が出ない。


 たとえば前菜に出てきた詰め物をしたヤマネのロースト…これはヤマネの皮と骨を取り除いてワインをベースにした漬け汁に付け込んで下ごしらえした後、ヤマネと豚肉の合い挽き肉に魚醤ガルム、香辛料、ハーブを加えて捏ねた肉団子や卵を腹腔に入れて縫い合わせ、それを低温のオーブンでじっくりとローストしたものである。

 ヤマネは今の時期は冬を前にたっぷりと脂肪を蓄えていてまさに旬の食材と言えるだろう。料理に使われるヤマネは食用に養殖されている物だが、冷暖房技術が未発達で季節を人工的に作り出せないこの世界ヴァーチャリアでは、養殖だろうが天然だろうが旬の時期は変わらない。

 そしてヤマネはレーマ貴族にとって身近な食材であり、どういう餌を与えてどう育てればどんな味になるかを研究するのは、食通気取りのレーマ貴族の間ではたしなみの一つとされている。上級貴族パトリキとなれば、自家専用のヤマネの養殖場を持っているのは常識なのだ。もちろん、一般市場向けに業者が養殖するヤマネと、貴族が美食探求のために養殖するヤマネでは価格に天と地ほどの差が生じていた。貴族が育てるヤマネは、人間の平民よりも良い食事を与えられるのが普通だったのである。

 リュウイチに供されているヤマネはもちろん、一般市場に出回っている安物などでは断じてない。


 もう一つの前菜である炊き上げエンドウ豆とは、ただエンドウ豆を煮ただけの料理ではもちろんない。一度エンドウ豆をひと煮立ちさせ、アクを取り除いた後で贅沢にハーブを投入してトロ火で煮る。その間に、香辛料を磨り潰してブレンドさせたものにワインとリクアメンを振りかけてペーストを作り、それをエンドウ豆の鍋に投入し、油を入れて一度沸騰させる。沸騰したらよくかき混ぜ、再び火をトロ火にしてじっくりと炊き上げる。炊き上がったら極上の『緑の油』を振りかけて出来上がりだ。


 手間と時間が非常にかかる(一時間以上必要)ため一般家庭で料理されることはまずない。平民が口にするとしたらある程度以上の高級料理店か専門店で買うしかないだろう。しかも、リュウイチに出されているものは使われている食材に庶民には手の出ない物が含まれている。

 香辛料やハーブもだし、リクアメンも特別なものが使われている。リクアメンとは食べ物を塩漬けにした時に染み出てくる液体…いわゆる漬け汁のことだ。

 《レアル》古代ローマの文化を継承するレーマ帝国では、この漬け汁を調味料として使う習慣も継承されていた。味はもちろん塩辛いだけだが、わずかに塩漬けにした食材の風味が混ざっていて、食通たちは何の塩漬けからとったリクアメンかにこだわりを見せ、場合によっては本来塩漬けにしない食材をリクアメンを採るためだけに塩漬けにする者すらいる。

 なお、今回使われているリクアメンは梨のリクアメンだ。梨と言っても《レアル》でおなじみのリンゴのような大きさでジューシーな果実をつける品種改良されたものではなく、植物学的には親戚だが別種である。一インチ半(約4センチ弱)ほどの実を付ける原始的な種であり、果実は硬すぎるので煮るか塩漬けにして食べられているものだ。


 そして『緑の油』…これは最上級のオリーブオイルである。まだ実が色づき始める前の三月ごろ(北半球なら九月ごろ)のオリーブを収穫し、緑色をしたままの実を絞って採った油だ。実際に緑色をしていて、苦みがある。通常のオリーブオイルより傷みやすいため、産地以外の地域で平民が口にすることはない。

 雨の多いアルトリウシアはオリーブ栽培には向かないため、オリーブは農業試験や園芸の一環として少数が栽培されるだけである。アルトリウシアで『緑の油』が生産されたことは無いし、今回使われた『緑の油』も実はサウマンディア産の逸品で、マルクスが持参したプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵からのの一つだった。


 これほどの贅沢な御馳走ではあったが、それでも以前の派手過ぎる料理に比べれば、少なくとも見た目だけは大人しくなっている。それに贅沢を忌避したがるリュウイチの意向をおもんぱかって、高級な食材が使われていることはアピールしても、具体的にどれだけ上等なのかは隠していたため、リュウイチは自分の目の前の料理が高級な料理だとは知っているが、どの程度高級なのかは知らないままでいる。もしも、目の前の一皿が平民の数か月分の収入に匹敵すると知ったら、さすがのリュウイチも呆れるか不快感をあらわにすることだろう。


 同席するルクレティア、リュキスカ、ヴァナディーズの三人は目の前の料理がかなり贅沢な料理だと知ってはいたが、彼女たちは貴族側への配慮をしなければならない立場にあったため、あえてリュウイチには何も教えていない。教えたところで何も良い結果はもたらさないであろうことが分かっていたからだ。


 彼女たちは知っている。リュウイチは無限の容量を持つ魔法のストレージを持っていて、その中には膨大な聖遺物アイテムがあることを。そしてその中には食材もあり、さらに歴史上の一部のゲイマーガメルがそうだったように、“スキル”というまるで魔法のような能力で、それこそを一瞬でいくらでも作ることができるのだ。


 もしも、こちらが提供する料理をリュウイチが拒否することになったら、リュウイチはおそらくそのを自分で作って食べることになるだろう。リュウイチの性格からして、彼女たちもその御相伴にあずかることになる。

 だが、そのこの世界ヴァーチャリアの住人たちにとっては、これ以上ない贅沢なのである。この世界ヴァーチャリアでは決して作り出すことの出来ない品質を誇る聖遺物の食材を使い、この世界ヴァーチャリアの何者も真似できない“スキル”を用いて調理されたソレは、皇帝だろうが王様だろうがおいそれと口にすることの出来ない料理なのだ。

 そんなものを降臨者様リュウイチ本人から手ずから振舞われる…それも、本来なら降臨者様リュウイチの身の回りの世話をする側の人間が逆に世話してもらうなどあってはならないのだ。

 一皿が平民の収入数か月分の料理を毎日作って献上して自分もその御相伴にあずかるのと、リュウイチから聖遺物の食材で作った料理をふるまってもらうのでは、後者の方が断然なのである。


 そして、リュウイチに料理を拒否されれば、大協約によって降臨者をもてなす義務を背負わされた貴族たちは、貴族としての面目を木端微塵こっぱみじんに粉砕された上に、大協約違反という罪を問われることになってしまうのだ。


 リュウイチに真実を教えても誰も得をしない。それどころか、関わる全ての人が不幸になってしまうのである。彼女たちが、そしてリュウイチの奴隷たちが、あえてリュウイチに何も教えずに黙っているのも仕方のないことであろう。むしろ、積極的に誤魔化さざるを得ないのだ。その種の努力が彼ら彼女らの最大の任務ともいえる。


 そして彼女らは今、かつてない難題を突き付けられていた。


「でっ、では、これを、私に下さるというのですか?」


 ルクレティアの前に出された聖遺物に、彼女たちは顔を青ざめさせた。

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