第335話 隠される贅沢
統一歴九十九年四月三十一日、夕 - マニウス要塞陣営本部/アルトリウシア
空を一面厚い雲に覆われたままなので特に風景の色合いが変わるということもなく、ただ暗くなっていくだけの今日の夕方。時刻はとっくに
午後のトレーニング(
カールが極度の興奮で失神する原因となったマッド・ゴーレムの姿は既になく、元の
マッド・ゴーレムを見て一時は騒然とした人々も今は落ち着きを取り戻し、日常の生活に戻っていた。
カールはダウンして寝室、アロイスも早馬で急用が出来て遅くなるとか知らせてきていたため、今日はリュウイチ、ルクレティア、リュキスカ、ヴァナディーズの四人での夕食となっていた。
特にもてなすべき来客がいない時はなるべく質素にというリュウイチの希望もあって、今日のメニューは随分と控えめになっていた。とはいってもエルネスティーネやルキウスを始めとする
前菜に詰め物をしたヤマネ(ネズミのような小動物)のロースト、炊き上げエンドウ豆、アスパラガスのパティナ、スープは贅沢にチーズをたっぷりと使った
この中で
たとえば前菜に出てきた詰め物をしたヤマネのロースト…これはヤマネの皮と骨を取り除いてワインをベースにした漬け汁に付け込んで下ごしらえした後、ヤマネと豚肉の合い挽き肉に
ヤマネは今の時期は冬を前にたっぷりと脂肪を蓄えていてまさに旬の食材と言えるだろう。料理に使われるヤマネは食用に養殖されている物だが、冷暖房技術が未発達で季節を人工的に作り出せない
そしてヤマネはレーマ貴族にとって身近な食材であり、どういう餌を与えてどう育てればどんな味になるかを研究するのは、食通気取りのレーマ貴族の間では
リュウイチに供されているヤマネはもちろん、一般市場に出回っている安物などでは断じてない。
もう一つの前菜である炊き上げエンドウ豆とは、ただエンドウ豆を煮ただけの料理ではもちろんない。一度エンドウ豆をひと煮立ちさせ、アクを取り除いた後で贅沢にハーブを投入してトロ火で煮る。その間に、香辛料を磨り潰してブレンドさせたものにワインとリクアメンを振りかけてペーストを作り、それをエンドウ豆の鍋に投入し、油を入れて一度沸騰させる。沸騰したらよくかき混ぜ、再び火をトロ火にしてじっくりと炊き上げる。炊き上がったら極上の『緑の油』を振りかけて出来上がりだ。
手間と時間が非常にかかる(一時間以上必要)ため一般家庭で料理されることはまずない。平民が口にするとしたらある程度以上の高級料理店か専門店で買うしかないだろう。しかも、リュウイチに出されているものは使われている食材に庶民には手の出ない物が含まれている。
香辛料やハーブもだし、リクアメンも特別なものが使われている。リクアメンとは食べ物を塩漬けにした時に染み出てくる液体…いわゆる漬け汁のことだ。
《レアル》古代ローマの文化を継承するレーマ帝国では、この漬け汁を調味料として使う習慣も継承されていた。味はもちろん塩辛いだけだが、わずかに塩漬けにした食材の風味が混ざっていて、食通たちは何の塩漬けからとったリクアメンかにこだわりを見せ、場合によっては本来塩漬けにしない食材をリクアメンを採るためだけに塩漬けにする者すらいる。
なお、今回使われているリクアメンは梨のリクアメンだ。梨と言っても《レアル》でおなじみのリンゴのような大きさでジューシーな果実をつける品種改良されたものではなく、植物学的には親戚だが別種である。一インチ半(約4センチ弱)ほどの実を付ける原始的な種であり、果実は硬すぎるので煮るか塩漬けにして食べられているものだ。
そして『緑の油』…これは最上級のオリーブオイルである。まだ実が色づき始める前の三月ごろ(北半球なら九月ごろ)のオリーブを収穫し、緑色をしたままの実を絞って採った油だ。実際に緑色をしていて、苦みがある。通常のオリーブオイルより傷みやすいため、産地以外の地域で平民が口にすることはない。
雨の多いアルトリウシアはオリーブ栽培には向かないため、オリーブは農業試験や園芸の一環として少数が栽培されるだけである。アルトリウシアで『緑の油』が生産されたことは無いし、今回使われた『緑の油』も実はサウマンディア産の逸品で、マルクスが持参したプブリウス・ウァレリウス・サウマンディウス伯爵からの献上品の一つだった。
これほどの贅沢な御馳走ではあったが、それでも以前の派手過ぎる料理に比べれば、少なくとも見た目だけは大人しくなっている。それに贅沢を忌避したがるリュウイチの意向を
同席するルクレティア、リュキスカ、ヴァナディーズの三人は目の前の料理がかなり贅沢な料理だと知ってはいたが、彼女たちは貴族側への配慮をしなければならない立場にあったため、あえてリュウイチには何も教えていない。教えたところで何も良い結果は
彼女たちは知っている。リュウイチは無限の容量を持つ魔法のストレージを持っていて、その中には膨大な
もしも、こちらが提供する料理をリュウイチが拒否することになったら、リュウイチはおそらくその魔法のような料理を自分で作って食べることになるだろう。リュウイチの性格からして、彼女たちもその御相伴にあずかることになる。
だが、その魔法のような料理は
そんなものを
一皿が平民の収入数か月分の料理を毎日作って献上して自分もその御相伴にあずかるのと、リュウイチから聖遺物の食材で作った料理をふるまってもらうのでは、後者の方が断然許されざる贅沢なのである。
そして、リュウイチに料理を拒否されれば、大協約によって降臨者をもてなす義務を背負わされた貴族たちは、貴族としての面目を
リュウイチに真実を教えても誰も得をしない。それどころか、関わる全ての人が不幸になってしまうのである。彼女たちが、そしてリュウイチの奴隷たちが、あえてリュウイチに何も教えずに黙っているのも仕方のないことであろう。むしろ、積極的に誤魔化さざるを得ないのだ。その種の努力が彼ら彼女らの最大の任務ともいえる。
そして彼女らは今、かつてない難題を突き付けられていた。
「でっ、では、これを、私に下さるというのですか?」
ルクレティアの前に出された聖遺物に、彼女たちは顔を青ざめさせた。
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